内国は上杉桃佳が忠義は、毘沙門天が染め上げし桃色につき。

十夜永ソフィア零

第1話 毘沙門天はテトラフィブロスフィアに在りしか

 槍舞の試し稽古を終えた桃佳ももかは、梅雨時の晴れ間の夕刻の遅くに庭を歩き、気を鎮めた。道場に戻り、少し身体が冷えた事を感じた彼女はシャワーを浴びようと奥に向かった。

 熱めのシャワーが、彼女の細身を温める。いとこにして剣術の教官役の零佳れいかの気配は既に無い。桃佳ももかは、バスローブを肌にまとったまま、上杉かみすぎの紋が入った薄手の紺の羽織はおりを重ねて着ると、再び庭に続く縁台に出た。

 

 既に空に日輪は無い。そして、月もかつてのようには無い夜空を彼女は見上げる。旧家の庭の暗がりを取り囲む仙臺せんだいの街明かりにより、夜空は仄暗ほのぐら仄明ほのあかるい。それでも、彼女の眼には、泡沫うたかたの星のいくつかが入ってくる。


 桃佳は、耳元に手を伸ばし、イヤフォンのノイズキャンセリングを有効にした。通りを行き交う自動車の音などが消え去る。

 そして、桃佳は音無おとなしく正座し、目をつむる。

 イヤフォンを越し鼓膜を震わす音は何も入ってこない中、桃佳は、先程の父の芳佳よしかからのメッセージを反芻はんすうしていた。

 桃佳は、メッセージの内容よりも、それを伝える父の声色と古臭いフレーズを思い出し、ほくそ笑む。その声色はいつもより少し高く、気張ったものだった。

 旧家の伝統を背負う父には、生真面目な性格である一方で、小心で恥ずかしがりなところがある。

 その気性は、徳川の治世以来宮仕えを旨としてきた、上杉家かみすぎけにはふさわしいものなのかもしれない。上杉家かみすぎけの者たちは、地元の仙臺に据えられた北方担当省のみならず、霞が関の省庁にも多く務めている。父の芳佳よしかもその例に漏れず、郵政通信省のキャリア官僚だった。

 

 おとといに5つ年上の姉で国家甲種公務員試験の一次試験を突破済の巳華美みかみが、最近の父の多忙ぶりを分かりやすく解説してくれた。

 家名を背負い国に奉公することは、軍部が過度の権威を持ち一等国となる野心に覆われたかつての日本ならば、ひたすらに立派なことと考えられていた。しかし、国の経済成長が最優先事項となってからは、やっかいな調整事を多く抱える官僚職はお金儲けには縁のない善人もしくはお人好しが就くものと、世では考えられている。

 父の芳佳よしかは、もともとが激務で有名な通信参議官の拝命している。どちらが上、どちらが下といった関係がないことが原則の、国と国とを結ぶ通信ネットワークの取り決めを結ぶための部署なのだという。

 この1年ほどは、そこに、数多あまたある世界間での通信ネットワークの相互運用性の調整が加わった。ネットワーク間の組み合わせは爆発的に増加し、取り決め事は益々ますます増えていくことは間違いない。

 巳華美みかみは、父の声色を少し模しつつ、「花鳥風月もとい課長風月の如く、霞が関のプレゼンスは最大にして実質責任は最小な課長職を謳歌おうかしておけば良いものを。」と言って解説を締めくくると、「私は、風月を楽しむいとまがあるだろう環境省あたりかしらね。」と、桃佳ももかに笑いかけた。

 

 明日は、その姉に先んじて、桃佳ももかが霞が関に向かうことになっている。そして、明後日には、国防軍の超長距離機に乗り、南方の新島に向かって飛び立つ予定だ。

 

 正座を続けたまま桃佳ももかは目を開けた。そして、庭石を2つ3つと宙に舞わせた。それは生粋の内地人にはまだ珍しい異能の念動力テレキネシスだった。

 桃佳ももかが向かう南方の新島は、今の世の異能の源と考えられているリッフィが、地殻のマントル層の最上部にまで染み入っていると考えられている。異能持ちならば、その島で何かを感じ取るのではないかと、国防軍の制服組が期待しているらしい。そして、由緒正しい家柄の者の中で数少ない異能持ちである桃佳ももかに、制服組の幹部は、白羽の矢を立てた。娘の初めての海外が、内国から6万キロメールも離れた離れ小島であることに、父の芳佳よしかは、はじめは難色を示したらしい。が、国防軍は、父が首を縦に振らざるを得ない説得材料を用意していた。無人で、どの国に属するかもまだ定まっていないその島に、第一隣接世界の徳川家の本家筋の徳川=牧野葵なる女性も同時期に降り立つのだという。そして、そのあおい氏は、そこで国防軍機に乗り、この内地を訪れるのだという。やんごとなき血筋であるあおい氏は17歳。永らく徳川家に仕えてきた上杉家かみすぎけの本家筋の桃佳ももかは、2つ年下の15歳。

 そして、第一隣接世界において、あおい氏は、カナダはトロントに住まい、すでに博士課程プログラムに属しコンピュータ・アルゴリズム研究に勤しんでいるのだという。数十年進んだ技術水準にあるという第一隣接世界のアルゴリズム技術の重要性は、言うまでもない。あおい氏は、内国に国賓待遇で迎え入れられて然るべきだった。

 

 既に、国防軍と霞が関との間での決定事項となった頃に、芳佳よしかは娘に向け、南方の新島に向かい徳川=牧野葵氏をお迎えしてくれ、とのボイスメッセージを発した。芳佳よしかは、「東人あずまびとに恥じないよう、あおいさんをお迎えして欲しいのだ。」とメッセージを結んだ。

 

 東人あずまびとという古臭いフレーズが父の口から出たのは、難関の中学入試を突破し弐華中にかちゅうへの入学を決めた日の、「東人あずまびとの矜持を持って、勉学に励みなさい。」といった訓示以来だった。

 

 ただ、初めての海外行きを前に、桃佳ももかが一番に気になっているのは、南方の新島の方だった。訶不思議まかふしぎに誕生した、この占星術的球体世界テトラビブロスフィアを支えるルッフィが、島のマントル浅くに迫っているのだという。桃佳ももかは、その島で自身の異能が強くなるかどうかといった、国防軍的な関心にはさしたる興味はなかった。数個の石を操るのがせいぜいの自身のささやかな念動力テレキネシスが多少強まることにさしたる意味はないと、桃佳ももかは思っている。

 ただし、念動力テレキネシスを操るようになるきっかけとなった、桃佳のもう一つの異能がその島でどうなるのかについては、彼女は強い関心があった。

 泡沫うたかたの夜空には今宵の一番星スターであるアークトゥルスが輝いていた。桃佳ももかは、その夜空を西に回転させる。そして、西の空低くに泡沫うたかたの最大星である木星を呼び出す。この新世界テトラビブロスフィアにおいて、夜空の星々は全て、泡沫うたかたのもの。夜空に泡沫うたかたの星を輝かせることは、この世界の、おそらくは大多数の人々が唯一共有している異能だ。

 

 突如内国が位置することとなった新世界テトラビブロスフィアの初夜は完全な暗黒だった。日が沈み、その暗黒が訪れたとき、その暗黒に恐怖した人と、曇り空と思えばいいやとさほど気にしなかった人がいた。だが、暗黒の夜が続くうちに、大多数の人々は、星空を渇望した。その渇望の念は、おそらくは10億以上あるであろうテトラビブロスフィア上の隣接平行世界の無数の人々の集合(無)意識として覆い尽くした。ある日、リッフィの中の何かが反応した。そして、テトラビブロスフィアの夜に夜空を見上げた人々の眼に、共同幻想のように泡沫うたかたの星空が浮かび上がるようになった。

 だが、たとえ泡沫うたかたのものとはいえ、その夜空の星々を回転させる桃佳ももかのさらなる異能は、人並みのものではない。かつての暗黒の夜の怖さを知る桃佳ももかは、ひとりプラネタリウムを楽しめる自身の異能を好んでいたが、霞が関の官僚や国防軍の幹部たちの前で、それを口にしようとはしないほどにはさとしかった。

 この異能は、かつての火星軌道にほぼ相当する2天文単位の半径を持つ球体テトラビブロスフィアの外殻を覆うルッフィの流れを超光速で辿る力がなければ実現しないものだ。

 テトラビブロスフィア上の内殻表層は、ベロネフィアと名付けられた、蹴鞠の糸筋と形容される繊維状体に覆われている。数万もの隣接世界を抱えると考えられるベロネフィアは互いに奇妙に絡み合いながらテトラビブロスフィアの内殻を廻っている。そうしてテトラビブロスフィアを巡る幾億もの隣接世界のそれぞれの距離は、光の速さで数分から数十分にまで離れることがある。だが、ルッフィを介した情報伝達は光速を超えて行われる、桃佳ももかはそう感じている。

 もちろん、学業面でも優等生である桃佳ももかは、物理学の標準理論である相対性理論が、光速を超えるものは存在しないとしていることは知っていた。そして、現在はパラボラアンテナを使って間延びした間隔で行われているという隣接世界間の通信が、超光速でリアルタイムに行われるようになった場合、お人好しの通信参議官である父がさらに忙しくなることが間違いないことも。

 ゆえに、テトラビブロスフィアの地殻深くのルッフィに近づける南方の島での、ひとりプラネタリウムがどうなるのかという実験は、桃佳ももかはただひとりのものとするつもりだった。


(毘沙門天の思し召しが、この世にもいまだ覚えありますように)

いにしえには上杉うえすぎ家が上杉かみすぎ家へと変わり、科学が他に優越し世界になり、さらには占星術的球体世界テトラビブロスフィアの世になろうとも変わることなき毘沙門天への忠節を込めて、上杉桃佳かみすぎももかは祈った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る