第三章~恋する惑星~④
亜莉寿から送られたメールをたっぷりと時間を掛けて読み返し、さらに、たっぷりと時間を掛けて返信する文章を書き込んだ秀明が、デスクトップパソコンに表示されている時刻を確認すると、深夜0時を十五分ほど過ぎていた。
翌日も、まだ仕事に慣れていない《ビデオ・アーカイブス》でのアルバイトが控えている秀明にとっては、そろそろ就寝の準備をしなければならない時間であった。
秀明がメールの送信を終えたところで、二◯二◯年代の現在とは多少異なる、一九九六年当時の日本の情報通信技術(ICT)事情について、振り返っておきたい。
前年末にWindows95が発売された一九九六年は、家庭用・ビジネス用のコンピューター双方が、一気に身近になっていくタイミングでもあり、国内のインターネット環境も大きく変わろうとしていた。この年、NTTのINSテレホーダイホームのサービスが開始されている。
四十代以上の古参のネット民には懐かしく感じられる『テレホーダイ』とは、深夜二十三時から翌朝八時まで、選んだ最大2つの電話番号(加入電話)に電話をかけ放題できるというサービスの名称だが、プロバイダのアクセスポイントをかけ放題の番号に設定する事で、インターネット接続も使い放題になるという特長があった。
それまでのインターネットサービスは、ほとんどが従量課金制のモノで、アクセスポイントへの接続時間に応じて、通話料金が発生していたため、インターネットの利用頻度が高ければ通信料も高額になる傾向にあったが、このサービスが開始されたことにより、(限定的ながら)定額でのインターネット使い放題が可能になった。
深夜帯には、ほとんどPCを使用することがないにも関わらず、新しもの好きの父親の一存で、有間家もこのサービスに加入していた。もちろん、一家の中で、このサービスの恩恵を最も享受しているのは、有間秀明そのヒトである。
秀明が、毎晩午後十一時前後に書斎のPCを起動しているのには、こんな理由があった。
そして、この秀明のルーティーンは、遠く太平洋を挟んだ地に住む亜莉寿の生活習慣にも影響を与えることになる。
その日、午前八時に起床して、現地のニュース・ペーパーに目を通し(英文に慣れるために日課にしている)、ゆっくりと朝食を済ませた亜莉寿は、ありあまる一日の時間を日本から持ってきたノートPCの前で過ごすべく、PCの電源を入れ、メールチェックのために、メーラーのアイコンをクリックする。
受信トレイには、未読のメールが一件表示されていて、送信元は、昨夜、亜莉寿が近況報告を送った相手だった。
有間秀明が返信した最初のメールが、吉野亜莉寿の元に届いたのは、サマータイム適用中の米国西海岸時間、午前八時十五分のことであった。
ディスプレイに太文字で記載された文字列を確認した亜莉寿は、満足と安堵の表情を浮かべながら、アドレスをクリックした。
※
自分が送信した文章量の一・五倍ほどの長さで返信されてきたメールの内容を、二度三度と読み返した亜莉寿は、秀明の普段の口調を思い出して懐かしさを感じ、また、自分の意図したとおりに父や叔父の協力のもと、秀明が《ビデオ・アーカイブス》で、アルバイトを始めたこと、そして、【追伸】として書かれた部分に、彼がオススメのコミックを記載したり、自分とのメールを(毎日!)望んでいることに、大きな満足感を覚えた。
しかし…………。
その懐かしい想いや満たされた気持ち以上に、心をザワつかせる内容が書かれている!
亜莉寿には、秀明が記した以下の記述が、気になって仕方がなかった。
>A組の文化委員だった朝日奈さんが、『シネマハウス~』のメンバーに加わってくれることになりました。
(朝日奈さん? A組のケバケバし……いや、派手……じゃなくて、華やかなグループに居た女子?)
>亜莉寿たちを見送った翌日に、梅田の喫茶店で、彼女から『シネマハウス~』に参加してみたいと申し出を受け
(その朝日奈さんが、有間クンに『シネマハウス〜』に参加したいと申し込んできた?)
常日頃、秀明から、明晰さを称えられることの多い吉野亜莉寿の頭脳は、混乱をきたした。
そもそも、彼女の様にクラスの中心にいるグループの人物と、『ボンクラーズ』と呼ばれ、クラスのアウトサイダーに所属する人間との接点がわからない。
(しかも、二人は違うクラスの人間だ)
秀明は、文化委員会の活動時に話すようになった、という旨のことをメールに書いているが、彼から、そんな話しを聞いたことはなかった。
(無論、そんな報告義務が秀明にあるわけではないが……)
そして、何よりも気になったのは、喫茶店で二人が落ち合っていたと思わせる文面が記されていることである。
(あの有間秀明が、彼女の様なタイプの女子と喫茶店で会話する? あり得ない!)
一年A組の朝日奈アリサ—————。
稲野高校単位制クラスの特色として、クラスが異なっていても同じ授業を受けることが多くあり、彼女は同じクラスの女子から、「アリサ」とファーストネームで呼ばれていたと記憶している。
彼女の華やかなイメージとともに、自分と似た名前であったことが、より強く印象に残ったことを覚えていた。
そうして、亜莉寿の脳裏に、最初に浮かんだのは、
「有間秀明は、彼女にダマされているのではないか?」
ということだった。
吉野亜莉寿が知見を持つ映画の世界で言えば、学園やクラスの
もし、そうだとすれば、ここは、映画マニアの同志として、
『ルーカスの初恋メモリー』
『やぶれかぶれ一発勝負!!』
『キャント・バイ・ミー・ラブ』
そして、彼と語り合った
『恋しくて』
などなど……。
ありったけの知識をフル稼働して事例を示し、非モテ男子が、分不相応(!)にも高嶺の花の女子になびいた時の危険性を説いてあげなければならない!
「それが、友人としての責務である!」
吉野亜莉寿の頭は、まずそのことでいっぱいになった。
しかし、そのことを電子メールによる文章だけで、どのように伝えればよいのか?
これまでの人生で培ってきた自分の論理性と文章力が試される……。
彼女の思考をつかさどる器官はオーバーヒートし、明らかに熱暴走を始めていた。
そして———―――。
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