【続編】暗殺者の結婚

萌木野めい

イスパハル歴224年

Ⅰ:止まない雨

1.夜明け

 灰色の雲の立ち込めた薄暗い空の下で降り出した冷たい霧雨が、真綿で首を締めるように少しずつ少しずつ、少女の身体から温かさを奪っていく。もうすぐ、日が暮れる。

 いつから着ているか自分でも分からない汚れたズボンと薄いシャツに、今にも穴が開きそうなぼろぼろの革靴。

 深緑色の瞳の少女は、無理やり短く切られた亜麻色の癖毛と直線的な身体の線のせいで、見た目では少年にしか見えない。

 少女は当分止みそうも無い霧雨の中で、犬のように首に鎖をかけられて放置されていた。ここはカーモスのスラム街にある暗殺組織のアジトの猫の額ほどの中庭で、ここにいるのは、今日の暗殺の仕事で失敗した子ども達だ。少女の他に五人ほどいる。

 晴れた日なら食事が無いことを除けばこの罰はどうってことないが、雨の日は地獄だ。地面がぐちゃぐちゃになってしまい、横になって寝る場所が無い。鎖の長さの範囲で多少は動けるが、雨をしのげそうな大きめの軒下は自分より大きな子達で何処も既に埋まっている。この中で一番年下であろう七歳の少女が無理やり入ろうとしても殴られるだけだ。


(さむい……)


 少女は自分の身体を抱きしめて震えた。このままでは一晩保たないかもしれない。組織の大人たちはこんな所で死ぬような子どもは端から必要無いのだ。

 少女は鎖の届く範囲で動き回り、建物の庇の陰で立ったままならぎりぎり雨をしのげそうな場所を見つけた。建物の壁の煉瓦に背中をぴったりとつけて立ち、雨を防げる範囲に何とか身体を収める。

 厚い雲で覆われた空を見上げる。雨は当分止みそうにない。死を免れるには今日は一晩中こうやって立っているしかないだろう。


 初めて暗殺をさせられた五歳の時から、こんな夜は数え切れないくらい過ごしてきた。その度に少女は、生きているとも知れない自分の両親のことを想った。

 物心ついた時から組織にいる少女は、両親のことは何一つ知らない。

両親がどうして自分をここに連れてきたのか、何故自分ががここにいないといけないのかも何も分からなかった。


 いつかもし、自分の両親に会ったら。殺したいと思うか、愛したいと思うか。少女は地獄のような日々の中で暗く冷たい夜を生き延びる度、どうせ生きるなら愛したいと思える方の自分で生きていたいと思った。その気持ちを灯火の様に心の内で抱きしめながら、雨の中で少女は、ただひたすらに夜明けを待つのだった。


 ―


(昔のこと思い出しちゃったな)


 冷たい秋のが静かに降りしきる王都トイヴォの街並みを窓から見下ろしながら、サザ・イスパリアは小さなため息をついた。ここはユタカとサザの寝室だ。

 サザは長袖の白い丸襟のパフスリーブのブラウスに、紺色の綿のスカートだ。ドレスを着るべき肩までの亜麻色の癖毛は猫っ毛で、とたんにぺたんと萎れたようになる。

 夫のユタカが王子として国王アスカと共にイスパハルの共同君主となり、一年が過ぎようとしている。ユタカは二十六、サザは二十三歳になった。


 ユタカとアスカが協力して治めるイスパハル王国は、最近は暮らしやすいとの噂を聞きつけて他の国や大陸から移住する者が急激に増加し、王都トイヴォは一部で治安が不安定になることもあった。

 そのため、攻撃魔術士のアイノが責任者になったイスパハル国軍は警備の目を強化し、軍部の増強を図っているところだ。


 サザは王子妃でありながらも、イスパハル国軍の少佐として元々魔術士、剣士、軍師の各部隊に加え、新設された暗殺部隊の長を務めていた。といっても、サザの他にいるのはカズラとアンゼリカだけだ。軍所属の身としては立場上はアイノと、その上の責任者であるユタカとアスカの部下にあたる。カズラとアンゼリカは普段は以前と同じ様に道場主と薬屋としての仕事を持ちながら、必要な時だけ王宮へ来る形を取っている。


 治安が悪化気味とはいえ、元からごく平和なイスパハルでは一般市民が昼間出歩く程度であれば何も危険は無い。そのためサザ達の出番は多くなかったが、身代金目的の誘拐や人身売買組織の解体など、通常の魔術士や剣士では解決が難しい事件でユタカやアイノ、国王の命で出動して無事に解決に導いた。

 発足から一年経ち、当初は暗殺部隊に懐疑的だった他の軍部隊にも十分に認められる存在となった。


 そんな日々の中で昨日、十二歳になったリヒトは、魔術の留学のために、イスパハル王国のから遠く離れたタイカ王国にある学校へと馬車で出発して行った。次に会えるのは早くても一年後だ。

 危険を避けるために公には隠されているが確認されている限りは世界で唯一のエルフであるリヒトは、魔術の教育を受け初めるとめきめきと頭角を現した。四歳飛び級して入学した王立の魔術学校での履修内容を十二歳で全て終えてしまったのだ。

 しかし、人を脅かす可能性のある攻撃魔術の適切な使用には人間としての十分な人格形成が必要と考えられているので、腕が立ってもまだ子供のリヒトは魔術士として公務に付くことは出来ない。

 イスパハルでは優秀過ぎて暇を持て余す形になってしまったリヒトに、魔術士のアイノがより高度な魔術の勉強ができる、タイカ王国の王立魔術学校へ行くことを勧めたのだ。


 新しい環境に胸を膨らませ目を輝かせているリヒトと、それを心から応援してやっている様子のユタカとは対照的にサザは、いつも元気をくれるリヒトに会えなくなってしまうのが寂しくて仕方なかった。


 そんな出来事と相まって今日の雨を見ていたら、普段思いださないことを思い出してしまった。


「サザ、元気ないのか?」


 ぼんやりした様子のサザに、ユタカは少し心配そうに声をかけた。

 部屋で軍服から普段着に着替えたユタカは、部屋の隅から椅子を引き寄せてきて、窓枠に肘をついているサザの隣に座った。

 今日は午後に休みを取ったユタカとサザは、天気が良ければ久しぶりに出かけようかと予定を立てていたのだ。それが雨で駄目になってしまったことも、サザの気持ちに陰を落としていた。少し早めに仕事を終えたサザが部屋で一人でいたところに、ついさっきユタカが戻ってきたところだ。


「ううん、リヒトのことを考えてたら寂しくなっただけだよ。あと、雨だから残念だったなあと思って」


「そうだな。折角の休みだから町の方に出かけてみないか? さっき軍の同期に聞いた話だと教会前の広場に他国からの芝居小屋が来てるらしいし」


「へえ、面白そう」


「良かった。じゃあ行ってみよう。どこかで夕食まで食べて帰って来ようか」


 ユタカが微笑むと突然、部屋をノックする音がした。


「はい。何でしょうか」


 サザがノックに返事をした。


「休みのところ悪いんだが。二人共、いるか?」


 国王のアスカの声だ。


「ええ。ユタカもおりますが」


「急なんだが二人にどうしても頼みたいことができてな……入っていいか?」


 ユタカとサザは顔を見合わせた。


「……はい。どうぞ」

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