好意の芳香

 父や兄と食事をとらなくなったのは、母が亡くなってからだったと思う。

 あの頃は、会うたびに父も兄も私を気遣ってくれていたのが分かった。

 

 捨て置かれるようになったのは、いつだっただろう。

 従兄弟が生まれたと聞いて、女官に母の生まれた公爵家に連れて行ってもらった時からだったかもしれない。

 母の姉妹の家だということもあり、何か母の面影のようなものが見いだせるのではないかと、期待して公爵家を訪れたのだ。

 歓迎されるつもりで行った私に、祖父に当たる公爵は、公爵家を継がせるつもりはないと言い渡した。

 生まれたばかりの孫よりも高い身分を持ち、急に会いに来た私が公爵家の家督を狙っていると思ったのだろう。もう来ないようにと約束させられて、私は泣きながら城に帰った。

 それから私は父や兄と別の棟に住むようになったのだ。


「兄様、クララベルが参りました」

 

 私が兄の執務室を訪れるのは珍しいことだ。少し前から出向くことを伝えていたので、あっさりと部屋の奥まで通される。父によく似た兄は、母に似た優しいまな差しを私に向けて微笑んでいた。

 

「久しいな。安楽に暮らしているか?」

「はい。それはもう」


 兄は息子をあやしながら政務を行っていた。

 赤ん坊用の柵の中で遊んでいた甥が、私を見て小さな手のひらをパッと開いて立ち上がる。

 血色の良い手が愛らしくて、笑みがこぼれる。

 

 (ああ、愛らしい。この子は私が好きなのね)

 

 竜になってよかったことは、人の好意にも敏感になったことだ。

 こそばゆい好意を受けて、手を伸ばして甥を柵から抱き上げる。

 きゅっとつかまってくる甥は、甘い香りがした。

 

「ジーク、大きくなったのね。お仕事の間、一人で遊んでいて偉いわ」

 

 頬にキスをすると、キャッキャと嬉しそうな歓声が上がる。

 この子からは未来の輝かしい香りがする。


 兄はしばし手を止めて、私を客用のソファに導く。

 兄の政治は父と変わらず堅実だ。余計な華美さがない。多くの装飾品や工芸品の輸出品を管理しているけれど、あくまで産業としてだ。

 兄に竜の力がないのは明白だ。輸出品の選別などは兄に代わって私が出向いて決めることがよくある。私以外にカヤロナには竜はいないのだ。

 

「兄様に聞きたいことがあるのですが」

「どうした、改まって」

「――母様のことなのです」


 私は兄の中にはっきりとした動揺を感じた。竜の目は必死に隠してきた心も暴いてしまう。

 兄は私に母について訊かれることをずっと恐れていたのだろう。

 

「それで、母上の何が知りたい?」

「はい。どうして亡くなったのかを」


 うっすらと笑みを浮かべて、兄は私をこの話題から遠ざけようとしている。その理由はわかる。


「今更それを知ってどうする?」

「兄様と父様が私を母様の思い出から遠ざけようとしているのはわかっています。でも、少し気になることがあって。母様のことで父様にお伝えしたいことがあるのです」

「クララ?」


 兄は驚いたように王太子の仮面を脱ぎ捨てる。母のことについて、私が話題に出すのは初めてだ。


「――とはいえ、父様にお話しするのはまだ怖くて。まずは兄様が、どう考えているのか知りたくて参りました」


 兄は私が引きさがるつもりがないと分かると、額に手を当てて大きなため息をついた。

 誰にとっても苦しみを伴う記憶だ。どんなに考えあぐねても、誰も母を取り戻すことができないのだから。

 兄は、椅子に深く腰掛けて、目を閉じる。瞼の裏の母様の面影は、私が覚えているものより、ずっと鮮明なはずだ。

 

「――あの時、沢山の憶測が飛び交った。母様が階段の踊り場から落ちたのは、おかしな点が多い。あんな時刻に外を出歩く理由がなかった。その日、父上は別の婦人のもとに通わなければならない日だったから、それを苦にして命を絶ったのではないかとも噂された。しかし、単なる事故かもしれないし――誰かに命を狙われたのかもしれない」


 命を狙われたと聞いて、心臓がどくりと跳ねる。

 

「命を狙われるようなことが?」

「うちは、直系しか後継者にならないから、私が生まれたのは必要に迫られてだ。しかし、クララベルが生まれてから母上への流れが変わった」

 

 自分の存在が母の立場を危うくしたのは知っていた。

 私が落ち込んだ顔をしたのだろう、兄は急に別の話題を振った。


「お前は自分が私に次ぐ王位継承権を保持しているのを知っているか?」

「私がですか?」

「お前はこの国の王位継承第二位なのだよ。それは、ジークよりも上だ」

「いいえ、そんなはずはありません」

「いや、そうなのだ」

「そんな――」


 兄が結婚してからは考えたことがなかった。

 兄以外の人が継承権を持つはずがないし、当然、ジークが兄の後を継ぐ位置にいるはずだ。


「父上は酔狂でお前の縁談を進めていたのではない。お前には生まれてすぐに王女としての役目が与えられた。同盟の強化として他国に嫁ぐことを決めたのは父上だ。それと同時に、バロッキーを後ろ盾にする結婚を二番目の選択とした。バロッキーと結婚したとなれば、お前の権力は利用しづらいものになる。どちらも継承権を使わぬものとしてクララベルの安全を確立するものだった」

「そのための縁談だったのですね」

「そうだ。お前の政治利用は諸侯も納得するものだった。したがって、母上は、クララベルが産まれたという理由でこの世を去ったのではない」


 兄はまた言い淀んだ。深い悲しみが流れ込む。


「――母上は、私たちの弟か妹の命を宿していた。私はそれが原因かもしれないと思っている」


 私はぐっと喉が詰まるのを感じた。

 

「これ以上の直系の血は必要ないと考える者が、いなかったとは限らない」

「……それなら、母様は誰かに暗殺されたの?」

「わからない。だが、その可能性はあると思う。それから私たちは一層クララベルを重んじるような様子を見せるわけにはいかなくなった。公爵家でお前が酷いことを言われて泣いて帰ってきたことで、疑惑は至る所にあるのだと警戒した。敵の目がおまえに向かぬように、愚かな策を講じてきた」

 

 覚悟してきたこととはいえ、心が張り裂けそうな話だ。

 母は愛しい番の子を身ごもりながら、この世を去ったのだ。


「ジェームズもレトも、自ら選んでクララベルの傍に置いたのは父上だ。貴族の利害とは完全に切り離された庇護が必要だったんだ。ジェームズに関しては揉めたらしいよ。それでも、できる限りの安全をクララに与えたかったんだ」

「そうだったのですね。あの二人はこの城で異質すぎますものね」

「バロッキーとの婚約を選んだと聞いた時は正直驚いたよ。結婚してもいいと思えるくらい、バロッキーに心を許していたとはね――お前はミスティ殿を好いているのだろう?」

 

 そう断言されれば居心地が悪い。好いているどころか番なのだと言ったら、兄はどんな顔をするだろうか。

 

「……たまたまです。そう、たまたま、ミスティが私の肖像画を描いた画家だったと知って」

「たまたまにしては仲睦まじそうで、安心している」

「ふふふ、そうなんです。兄様、聞いて、ミスティったら、私が大好きなのですって」

「竜は、そういうものなのだろう?」

 

 そうなのだけど、違うのだ。私の番はミスティでも、ミスティの番は私ではない。


「父上がクララベルを国の為に利用しているように見えること、恨まないでくれ。あの事件の後、実際に何度かクララベルは狙われた。あの人は自罰的だ。クララベルが可愛くて仕方がないくせに、興味のないふりをするしかなかったのだ」

「それはもう、知っているからいいのです」

 

 最近は、父と兄の気配に驚かされる事が多い。遠くからでも私がいれば視線を感じるくらいだ。

 兄も父も、昔からそうして来たのだろう。遠くから想うだけの時間を長く続けていて、もう私とどう接したらいいのか、分からないのだ。


「カヤロナ家は常に迫害者としての自覚を持ち続けてきた。王となるものは情で結婚をしてはならないと言い渡されて過ごすのは、知っているだろう? 父上だって愛のない結婚をしたはずなんだ。でも、私たちから見て、父上と母上はどうだった?」

 

 母と結婚した時から父の王としての慣例は狂い出した。

 直系の兄、レニアスが生まれて、諸侯との取り決めで、もう母とは子を成さない事になっていた。しかし、母は竜だった。母は溺愛とも呼べる熱量で愛情を父に注いだに違いない。

 私が生まれて、諸侯との軋轢は増した。それを解消する為に諸侯の娘と関係を結ぶ日が続いたが、母様はそれを理解して、受け入れた。


「父上が、あれを事故だ、暗殺だとおっしゃったことは一度もない。きっと起きたこと全てを自分の責任だと思っているに違いないんだ。もしかしたら、自死であったと信じているのかもしれない」

「そんなはずはないのよ。だって母様は――」

 

 私はそのあとの言葉を飲み込んだ。今はまだ、兄に母が竜であったことを告げることができない。

 どんなにたくさんの可能性があっても、今の父の中には母の死に対する見解は一つしかないのだと知って、期待がしぼんでいく。


「父様は、自分のせいで母様が死んだのだと信じているのね」

「そうなのだろうな。だが、それを確認してどうするんだ?」

「ちょっと母様のゆかりのものを別荘で発見して。父様にお返しした方がいいかどうかを考えていたの」

 

 兄は考え込んで、うっすらと首を振る。その顔には苦悩がにじんでいた。


「クララ、それはお前が持っていた方がいいかもしれない。父上の悲しみは深い」

「そう。少し考えてみるわ。私なりに父様のこと、少しはわかっているつもり。父様は自分と同じ状況を兄様には強いなかった。義姉様との結婚だって条件は厳しかったかもしれないけれど、反対しなかった。諸侯との繋がりを血で保つことを二代にわたって行うのは危険だからと理由付けたけれど、ほんとは多く妻を持つことが間違っていたと思っていたから廃止したんだわ。私にしたって、ミスティとの関係が良好かと、ことあるごとに聞いてくるもの。カヤロナ家は恋愛結婚をしてはいけないはずなのにね」

「孫も可愛がってくれているよ。ひげを引っ張られても抱いている」


 兄の執務室から出ようとすると、甥が私の手を引く。


「ふふふ、この子私が好きなのね。好きだって匂いがするわ」

 

 私がまたジークを抱き上げると、兄は泣きそうな顔をする。


「……クララ、お前は母様に似すぎているね。母様もお前を抱いて同じことを言ったよ。好意に匂いがするなんてって、面白くて笑った。どんな匂いなのかお前を嗅ぎまくったけど、乳の匂いがするばかりでね。首をかしげたものだったよ」


 カヤロナ家はまだ王妃を中心に回っている。ずっと気が付かなかったけれど、城にはまだ母の愛が根付いている。


「兄様、分からないの? 兄様からだって、私が好きだっていう匂いがするのよ」

「お前は、おかしなことを言うね」


(兄様は、母様が竜だったと知らないのね――じゃぁ、父様は?)


 母様が竜だと知っていたのだろうか?

 母様の愛は父様に届いていたの?


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