闇に潜む
「……あら、ミスティじゃない? どうしたの?」
私は、衝立の向こうに隠したフローラを悟られないように、思いっきり不機嫌にドアを開けた。
私の脳裏にはフローラのコルセットの下の、鞭打たれた痛々しい傷の色が焼き付いている。
あんなものを見せられて、本当は私だってすごく動揺している。
たった今、誰にもオリバーのことを言わないと誓ったばかりなのに、ミスティに助けを求めてしまいそうだ。
(誰かに話をしたら、フローラはもう心を開かないわよね……)
タイミング悪く現れたミスティを私は憎々しく睨みつけた。
「ごきげんよう、クララベル様、今日は……」
「ミスティ、ちょっといらっしゃい」
ミスティを引きずって、私室の隣のワードローブを開けて押し込む。
(とりあえずフローラにミスティがここにいることを知られてはいけないわよね)
「馬鹿、いきなりなんだよ」
仮面を脱ぎ捨てたミスティは、昨日のままの無礼者だった。しかし、さっきのオリバーの悪行の跡を見た後では、ミスティの無礼さのほうが心休まるくらいだ。
「こっちの台詞だわ。いったい何をしに来たのよ」
昨日のことが吹き飛んでしまいそうなことが起きているのに、つまらない用事だったら承知しないと睨みつける。
「昨日、泣きそうだったかわいそうな姫のお見舞いに……」
「レトね! レトに言われて余計なお世話をしにきたのね」
「尻を抓んだお詫びにね!」
そうだった、それだってまだ許したわけではない。
とりあえず仕返しだけはしておこうと、ミスティの尻に爪を立てる。できるだけ爪を立てて!
小憎たらしいことに、やられているのに何が面白いのか、鼻で笑う。
(全然効いてないわね、ああ、もう! 蹴り上げてやろうかしら)
ああ――今はそれどころではないのだ。
「馬鹿ね。ああもう、どうしようかしら。ミスティ、私が呼びに来るまで、ここで静かにしていて! 音を立てちゃダメよ」
とにかく部屋に戻らなければ。誰かに秘密が漏れる事に怯えているフローラを一人にはして置けない。
「なんで? 俺は間男じゃないんだけど?」
「存在は似たようなもんでしょ。とにかく黙ってて! わかったわね」
有無を言わさずミスティをワードローブに押し込めて、私は慌てて自室に戻った。
*
案の定、ミスティの登場に怯えたフローラは身を縮めて震えていた。
「ミスティは帰ったわ。誰が来ているのかも知らないから、安心して」
それにしても、フローラはなんだってこんな大きな秘密を抱えて、私を訪ねてきたのだろう。もっとふさわしい相談先があったのではないだろうかと恨めしく思う。
「……それで、どうして私に?」
気をとりなおして聞いてみると、フローラは「不敬を承知で申し上げます」とぎゅっと膝の上で手のひらを握った。
「クララベル様が……クララベル様だけが王に進言が許されると聞きました。アイリーン様をサルベリア行きにしたのも……だから、クララベル様なら私を国外に放逐することもできるのではないかと……。このようなこと、他の姫様には頼めません」
私は、アイリーンがなぜ私を頼ってきたのか理解した。
フローラは私の縁談だったサルベリア行きを、ミスティと結婚する為に我儘を言って、アイリーンに押し付けたと思っているのだ。
(まぁ、それはそれで実に正しい誤解なのだけれど)
やっと何を求められているのかがわかり、とるべき態度が定まった。
「嫌だわ、アイリーンが行きたがったから、私が後押ししただけよ。誤解しないで頂戴」
筋書きを理解した私は、我儘な王女の仕草でふふんと笑ってみせる。
「でも、そうね。もう一人くらい、国外へやるのなんて造作もない事だわ。オリバーは昔、ミスティに失礼なことを言ったのよ。私、あの時のことを時々思い出しては午後のお茶が苦くなることがあって――」
それよりも、ミスティが死んでしまうと思って大泣きした所を皆に見られてしまったのを思い出して、転げまわりたい気持ちになるのだけれど。
「……そ、それでは」
フローラは味方を得たと思ったのか、幾分明るい表情をして、俯いていた顔をあげた。
「フローラ、これは誰にも知らせずにおきましょう。この話は私が預かるわ。悪いようにはしないから、おとなしくしていてね」
「……はい。そのように致します」
私は立ち上がり窓へ向かい、フローラに背を向ける。ここから先は独り言だ。
「近々、アイリーンの供の者を城に召集するの。国の機密を扱うことになるから誰が呼ばれるかは公表されていないわ。候補がいないから父さまは困っているようだけれど、伯爵家の娘なら格式的にもちょうどいいのよね。国外に行きたいと、ある伯爵家の娘が願っていると私が告げたら……その娘は急に城にあがるように命じられるかもしれないわ。私には関係ないことだけれど、もしかしたら、オリバーが公務で家にいない時に迎えに来るかもしれないわね。賢い娘は誰にも悟られないように召集に応じる準備をしておくんじゃないかしら? まぁ、私には関係ないけれどね」
いくら王女でも国政に口を出す権利は無い。
私にできるのはせいぜい、こんな状況の娘がいると父に知らせることだけだ。あとは父の采配に期待しよう。
「フローラ、あなた今、何か聞いたかしら?」
「……何も聞いておりません」
「そうね。賢明ね」
フローラはそう言って深く腰を折った。
出来るだろうか? アイリーンはなるべくなら供を多く連れて行きたくない様子だったが、父は体裁を整えるために同行の娘が必要だと思っている。サンドライン家の娘なら丁度良い格式だ。
「それからね、傷だらけの娘を可愛いアイリーンの供につけられないわ。事態が動くまで、オリバーに傷つけられるようなことはしないでね。約束よ」
「はい! ありがとうございます、クララベル様!」
フローラは涙を浮かべて何度も礼を言って帰っていった。
一息つく暇もなく、ミスティをワードローブに押し込んだままだったのを思い出した。
*
慌てて小部屋のドアを開けると、中は真っ暗だ。
「……ああ、しまった。忘れていたわ」
そうだった、ここは光に弱い物を保管する為に日光が入らないようにできているのだ。
私が入る時は、必ずレトが
ミスティをこんなところに押し込めてしまった罪悪感が首をもたげる。
「ちょっと、ミスティ、どこにいるの? もう出てきてもいいわよ」
返事がないので、真っ暗の中、手探りで奥に進む。
「やだ、下着とか荒らしてないわよね?」
手探りで進めば、奥の明かり取りの小窓の近くに気配がする。
「ミスティ、そこにいるの?」
奥の鏡台の所でしゃがみ込んでいるミスティを見つけた。 明かり取りの窓から薄く日が差して、やっと輪郭が見える。 暗くて表情はよく見えない。
「ミスティ?」
なにがあったのか、ミスティは立ち上がると私にぎゅうぎゅうとしがみついてきた。
「ちよっ、なによ?! 苦しいから離して!」
「うるさい。こんなところに閉じ込めて……」
それはそうだ。
真っ暗の中、一人で閉じ込められたら誰だって怖い思いをする。
「ごめんなさい……灯り、いつもはレトがつけていたから。私、中が真っ暗なの気がつかなくて……」
ミスティは暗闇が怖いのかもしれない。だとしたらとんだことをしてしまった。
「ミスティ、暗くて怖かったの?」
「そんなんじゃないし」
そんなんじゃない割には、いつまで経っても、しがみついて離れようとしない。
私は、ミスティの背に手を回し、宥めるように撫で下ろす。
ミスティの心臓が脈打っているのを感じる。きっと凄く怖かったのだ。
「いや、やっぱりちょっと怖かったかも……」
いつも憎たらしいことばかり言うミスティの弱点を見つけたのが小気味良くて、笑い出したい気分になった。
「なんだよ。笑うなよ」
「暗いのが怖いなんて、案外ミスティって可愛いのね」
「おまえのせいだろ」
「ごめんなさいってば」
きゅっと追い縋られるのは悪い気はしない。いつものツンツンした様子のないミスティは、溺れた子猫のようだ。
巻き付いた腕をほどこうとして、触れたミスティの指先が冷たいことに気がついた。
いつもミスティの体温が高いから、指先が冷たいなんてことがあるとは思わなかった。それともいつもそんなものだったかしら?
さっきのサンドライン家の兄妹の事といい、私が見えているものは、全体のほんの一部分だけなのかもしれない。
一部分だけを見て、見えたと思ってるけれど、本当はその一部も幻で、水に映った影を見ているだけなのかも。
なんだかいろいろなことに自信がなくなる。
(この暗闇の中にいるミスティは、本当のミスティなのかしら……)
空恐ろしくなって、ミスティの冷えた手を握ってみる。すると、ミスティは当然のように手を握り返してくる。互いに罵り合うのも私達だけど、こうやって体温を分け合うことに矛盾を感じることはない。
私とミスティは出会った時から
(まぁ、仲良しだと言えなくもないわね)
「こんな仕打ちをして、俺に報復されても文句言えないよな」
「ごめんなさい……もう暗い所に閉じ込めたりしないわ」
私がミスティとの友情を認識しようとしているというのに、ミスティは私の肩に顔を伏せたまま、唸るように言う。まぁ、気持ちが噛み合わないのはいつものことだ。
今はフローラのことで心が弱っていて、ミスティが大きく出ても対抗する気になれない。
フローラとオリバーの事は、私の心をずしりと重くしていた。
(さっき見聞きしたことを、ミスティと分け合えたらいいのに)
しかし、黙っていると約束してしまったし、このことに誰かを巻き込むことはできない。
ミスティとレトにしか言わないという約束にすればよかったと後悔している。
「いいや、許さない」
話を聞いてほしいときに限ってミスティは意地が悪い。 たわいもない話でいいから、穏やかに私の話を聞いてくれてもいいのに。
一人で抱える秘密が大きすぎて、なんだか腹が立ってきて、私に絡みついているミスティを押して離れようとする。すると、ミスティは私が逃げないように頭を押さえつけ、こともあろうか私の上唇に噛みついた。
「いったっ! 何よ、謝ったじゃない!」
「そんな謝罪で俺の気が済むとおもう?」
今度こそ渾身の力で突き飛ばして離れる。
上唇がひりひりとする。
「あんたみたいなわからずや、いつか暗い箱に閉じ込めて泣かしてやるわ!」
ミスティはもう一度、頭突きの勢いで私の唇を奪う。歯がぶつかって口の中が薄く血の味がする。
「やだ、ちょっと! ケガするじゃない!」
「ざまぁみろ。これでダグラスがどんなに頑張っても、俺のおさがり決定だな」
暗闇でも憎たらしい顔で笑っているのが分かる。
「何言ってるのよ、こんなのキスのうちに入るわけないでしょ」
手を振り上げてミスティを叩こうとすると、ミスティは私から遠くに離れる。こう暗くては、どこにいるのかわからない。闇雲に手を振ってもミスティにかすりもしない。
「竜じゃない奴は不便だな、これしきの暗さで視界を奪われるんだもんな」
ひょいと暗闇から手が伸びてきては、私の鼻をつまむ。
「え? ミスティ、暗闇が怖いって……」
「そりゃ、暗闇は怖いよ。さすがの竜も一筋も光が入らないような所じゃ夜目は効かない」
「それじゃ……」
「まさか、姫様が、あんなきわどい細工のついた下着をお召しになるとはねぇ。いくら好きな色だからって、下着にまであの色ってどうなの?」
「この暗闇で色までわかるの?」
「当然」
ミスティがゲラゲラ笑っている。
それでは一体、今までの謝罪劇は何だったのだろう。
唇が傷ついてずきりと傷んだ。いたずらにしてもこんなところを噛むなんてひどい。
「……え? 噛ん……歯が……」
(さっきのは――キス?)
一度ぐちゃぐちゃになった現実が急に帰ってくる。
「ミ、ミ、ミ……」
「ミ? 下着を見てくれてありがとうかい、姫様?」
「馬鹿! ばか! ひどいわ! それもそうだけど、私、唇にキスなんて、初めてだったのに!」
「お気の毒さま。なんだよ、さっきはキスのうちに入らないなんていってさ」
「だましたのね! 一回くらい殴られなさいよ!」
「やだよ。痛いじゃん」
ミスティは殴られてはたまらないとばかりに、衣装の暗闇の中に逃げ込む。
「なんて性悪なの! おとなしく出てきなさい」
手探りですすむと、飛び出してきてふいうちで鼻にキスをされる。
「ふざけないで!」
今度は、どこに隠れたのか、物音もたてずにどこかに潜んでしまう。
本当に腹だたしい。
さすがにこんな暗闇で敵を探し当てるのは無理だ。
暗闇の中、見えもしないのに目を凝らしてきょろきょろと首をめぐらす。
そのうちに、闇の中に何かぼんやりとした引っかかりを感じる。
(いいえ……無理じゃないかも。何? これ?……気配……?)
薄ぼんやりと、目には映らない
隠れたつもりでいるのかもしれないが、靴の置いてある場所の方? しゃがんで、息が漏れないように口を押えている?
(……?)
私は、まっすぐにミスティの気配に向かって歩を進める。
「残念ね、そこ行き止まりよ」
「え? おまえ、なんで……」
――パァン!!
私の思い切り振りかぶった手は正確にミスティの頬をとらえた。
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