【第三章】『退院』

自らが隼人の婚約者だと言いながら絵梨は隼人のもとに見舞に来ることはなく、彼女が見舞いに来たのはそれから五日後の日曜の午後の事だった。


この頃になると隼人の失われていた生気は完全に取り戻し事故前のいつもの隼人に戻っており、あとは記憶を取り戻すだけであった。


「隼人見舞いに来たよ、元気にしている?」


元気に声をかける絵梨に対し怒りをもって応える隼人。


「何が見舞いに来たよだ、良くのこのこ来られたもんだな!」


「どうしたの突然、何かあった?」


「聞いたんだよ本当の婚約者の事、僕の本当の婚約者は絵梨じゃなくて優さんだそうじゃないか! だいたいなんだよ優さんは毎日のように来てくれたのに絵梨は何日来なかった」


隼人の言葉を聞いたにもかかわらず尚もとぼけようとする絵梨。


「そうか優に聞いたんだね、前にも言ったじゃない、優はあたしの物をみんな奪おうとするの、今回もそうなのよ、あたしの婚約者である隼人の事を優は奪おうとしているの。それに優は仕事をしていないから毎日来られるのは当然なのよ、でもあたしは仕事があるからどうしても毎日は無理なの、ごめんね」


「でも昨日は土曜で会社も休みだったんじゃないのか? そもそも共働きの予定だったのか? 結婚を機に仕事をやめたんじゃないのか?」


「それなんだけど隼人は記憶をなくして覚えてないかもしれないけど、しばらくの間は共働きにしようって二人で決めたのよ、だからあたしも働いているの」


「いい加減とぼけるのはよしたらどうなんだ、それこそが嘘なんだろ! 目が覚めた時最初に聞いたのが絵梨の言葉だったからな、すっかり騙されるところだったよ」


「嘘なんかじゃないわよ、あたしこそが隼人の婚約者なの、結婚相手なのよ、あんな女の言う事なんて信じないで」


「何言っているんだ仮にも実の双子の姉だろ、あんな女なんて言い方するな! ほんとは優さんが本当の婚約者なんだろ、だから優さんは結婚の為に仕事をやめてしまって無職になったんじゃないのか?」


「あの女がそう言ったの?」


「彼女だけじゃない、僕の母親だという人にも聞いたんだよ、そしたら本当の婚約者は優さんだとはっきり言ったんだ、それは最後の確認のために聞いただけでその前に決定的だったのは優さんと絵梨の会話を録音した音声を聞いたんだ」


その言葉に絵梨はとんでもない事を言い放ち、とても低い声で放たれたその言葉に隼人は自らの耳を疑ってしまった。


「なんだバレてたんだ。思ったより早かったわね、そうよ、隼人の本当の婚約者は優よ、それがどうしたっていうのよ。あたしの方が隼人を好きな気持ちは負けないんだから」


がっくりとうなだれ静かな声で絵梨に対し諭すように言う隼人。


「君が僕の事を好きでいてくれるのはうれしいよ、でも人の婚約者を奪うような真似をするような子を僕は好きになれない、それも自分の双子の姉から奪うなんて人としてどうかしてる」


隼人の言葉に絵梨は瞳に涙を浮かべつつ尋ねる。


「じゃあやっぱり隼人は優の事が好きなの?」


「それは分からない、まだ記憶が戻ってないからね。でも婚約していたという事はお互いに惹かれるものがあったんだろう」


「あたしが入る余地はないのね」


予想は出来ていたもののがっくりと肩を落とし尋ねる絵梨。


「申し訳ないがそう言う事になるな?」


「だったら残念だけどあたしは引き下がるしかないようね、もうじき優も来る頃だろうから帰るわ、お大事にね」


こうして肩を落とした絵梨はとぼとぼと病室を後にしたが、これで引き下がる絵梨ではなかった。


絵梨が病院を後にしてまもなくすると、隼人のもとにいつもの様に優が見舞いにやって来た。


「こんにちは隼人さん、お加減はどう?」


「いらっしゃい優さん。ちょうどよかった、ついさっき絵梨が帰ったところです。絵梨にははっきり言ったからもう心配しなくていいですよ」


「どういう事?」


優は小首を傾げつつ不思議そうに尋ねる。


「君の言う通り僕の母親だと言う人にも聞いたんです。そしたら言ったんですよ、僕の婚約者は絵梨ではなくて優さんだと、それにあんな音声を聞かされたら信じないわけにいかないしね」


「そうだったのね」


(何だか寂しいな? 本当の事が分かったならそんな他人行儀な言い方でなくてあたしの事は以前の様に呼び捨てにしてくれたらいいのに、それなのにどうして絵梨の事は呼び捨てなのよ)


隼人はまるで優のそんな思いを見透かしたように優に対し語り始める。


「ごめんな、本当の事が分かったのに優さんなんて言い方他人行儀だよな? これからは優って言うようにするよ、だから優も僕の事隼人って呼び捨てにしてくれ、その方がお互い心の距離が近い気がするだろ? もちろんこれからは妹さんの方は呼び捨てではなく絵梨さんと呼ぶようにする! もしかしたら前はそんな呼び方していたのかな?」


最後に放った隼人の問いかけに優は笑顔を浮かべ応える。


「そうよ、あたしたち隼人が事故に遭う前はお互い呼び捨てで呼び合っていたの」


「やっぱりそうなんだね、じゃあこれからはお互いそうしよう」


そんな二人のもとに担当医師の石川がうれしい知らせをもってやって来た。


「どうですかお加減の方は」


優しい笑みを浮かべ語り掛ける石川医師。


「先生もうどこも悪くないですよ、これで記憶が戻ってくれればいいんですが」


「そのようですね」


「実は今日は佐々木さんに良い知らせを持ってきたんです」


「なんですか、良い知らせというのは」


「身体的にはもうどこも悪くない、あとは記憶が戻ってくれればいいだけです。おめでとう佐々木さん、退院ですよ」


「ほんとですか先生、家に帰れるんですね」


これでもかというほどの満面の笑みで喜びを表現する隼人。


「そうだね、あとは記憶が戻るのを待つだけだから在宅での治療に切り替えましょう」


「ありがとうございます先生」


「退院の予定日は今度の土曜日にしましようか」


「分かりました先生、今までお世話になりました!」


「退院できることになってよかったですね、では私はこれで失礼します」


そう言うと静かに病室を後にする石川医師。


石川が病室を後にすると優がまるで自分の事のように嬉しそうに祝福の言葉をかけてくる。


「おめでとう隼人、これでやっと家に帰れるわね」


優からの祝福の言葉に対し笑顔で礼を言う隼人。


「ありがとう優、でも僕は記憶がないだろ? 帰れると言ってもいまいちピンとこないんだ」


「そっかぁ、それもそうよね、じゃあどうする?」


「何が?」


「帰る家よ、記憶がまだ戻っていないのなら実家で様子を見た方が良いのかと思って、それともあたしの家に来る? 今新居も建てているの、ほんとは新居が出来上がるまで仮住まいとして二人で隼人のマンションに住むはずだったんだけど隼人がこんな事になっちゃったでしょ? あたしが今まで住んでいたマンションもまだ解約前だったからもう少し様子を見ようって事になって引っ越さずにそのまま住んでいるのよ」


「優が僕の家に来たんじゃだめなの?」


「あたしも隼人のマンションの場所知っているし鍵も持っているからそれでもいいんだけど、何となくうちに来てもらった方が良いかと思って」


「そう言う事だったんだね、ごめんなこんな事になってしまって」


自分のせいで申し訳ないとばかりに、俯き謝罪をする隼人。


「良いのよ別に」


「そう言う事なら取り敢えず優のマンションでお世話になっていいかな? 何となく優と一緒にいた方が記憶を取り戻せる気がするんだ」


ところが突然考えが変わってしまう優。


「ごめんなさい、あたしの方から言っておきながら悪いけどやっぱりあたしが隼人のマンションに行った方が良いかも」


「どうしたの突然意見が変わるなんて?」


「あたし思ったのよ、隼人の家の中の光景やいつも見ていたマンションの周りの景色を見る事で記憶を取り戻す手助けになるんじゃないかって」


「そう言う事だったんだね、確かにその方が良いかもな? じゃあそれでお願いするよ」


「分かったわ、だったら隼人の退院の日までに引っ越しを済ませないとね」


「そうだね、よろしく頼むよ。でも慌てる必要ないんじゃないかな? 少しずつ荷物を運べばいいよ、退院してから僕が手伝っても良いんだし」


「そうだね、ありがとう」

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