【第二章】『目覚め』

数日後、この日から隼人は一般病棟に移っており、この日も優は隼人の見舞いに来ていたが依然として彼の意識は戻らずにいた。


しんと静まり返る空間に心電図モニターの機械的な音が響き渡る中、そこへ絵梨が見舞いにやって来た。


「優お見舞いに来たわよ、どう隼人さんの具合は」


「絵梨来てくれたの? ありがとう。だけどまだ意識が戻らないのよ」


「そうなんだ、じゃあ心配だね。そんな事より優一人なの?」


「そうなの、だけど仕方ないわ、昼間お義父さんは仕事があるし、お義母さんもパートがあるからそう何日も休んでいられないそうなの。でもお義母さんは仕事が終わったら必ず来てくれるわ」


「それは当然じゃないの? なんたって自分の息子なんだから」


 この時優は絵梨の突っかかるような言い方が気になってしまった。


「確かにそうに違いないけど何よその言い方、別にお義母さんたちが悪いわけじゃないじゃない、仕事で来られないんだから仕方ないでしょ」


 こんなつもりじゃなかったのにと思いながらも更に反論してしまう絵梨。


「パートなんかやめちゃえばいいじゃない、そしたらもっと見舞いに来る時間作れるのに」


「何言っているのそう簡単にいかないのよ、絵梨だって働いているんだから分かるじゃない」


「そりゃ分かるけどさ、でも自分の息子が事故に遭って入院しているのよ、意識だってまだ戻らないのに隼人さんの事心配じゃないのかな?」


「そんな訳ないじゃない! そう言う事を言うもんじゃないわ、絵梨一体どうしたのよさっきから、いつものあなたはこんな事言う子じゃなかったじゃない」


 優のその言葉通り、いつもの絵梨は活発な性格ではあるものの人の事を悪く言う事もなくあまり波風立てるような子ではなかった。


それなのにこの時ばかりは何故かいつもの絵梨と違っていた。


「良いじゃない別に、あたしだって隼人さんの事心配なのよ」


「心配してくれるのはありがたいわ、でもあまりお義母さんたちの事悪く言わないで、それに働かなかったら治療費だって払えないのよ、そのくらいあなただって分かるでしょ?」


もちろん絵梨だってこんな事言われなくても分かっていたが、何故か絵梨の気持ちが許さなかった。後にこの思いが何なのか気付く事となる絵梨。


「分かったわよ、悪かったわ」


「それよりあなたはどうしたのよ、今頃仕事中のはずじゃない」


「今はちょうどお昼休みだから様子見に来ただけよ、だからあまり時間がないの、もう帰るわね、どうかお大事に」


 そうして絵梨は静かに病室を出て行った。


更に四日後の土曜日、優がベッド脇で隼人を見守っているとそこへ再び絵梨が見舞いにやって来た。


「優見舞いに来たよ、どう隼人さんの様子は」


絵梨が尋ねるが残念な事に未だに隼人の意識は戻らないままだった。


「絵梨また来てくれたのね、ありがとう」


「良いのよ別に、それより隼人さんの両親は今日も来てないのね」


「またそんな言い方しないで、今は来てないけどお義母さんは毎日仕事が終わると駆け付けてくれるのよ、この前にも言わなかったっけ?」


「そう言えばそんな事言っていたわね、ごめんなさいもう言わないわ」


「別に謝る事ないけど、それより何か飲む? 買ってくるわよ」


「ありがとう、じゃあコーヒーでも貰おうかな?」


「やっぱりそう言うと思ったわ、絵梨はコーヒー好きだものね、確かブラックで良いのよね、ちょっと待っていて売店に行って買ってくるから」


「待って、わざわざ売店までいかなくてもこのフロアにも自販機あったじゃない」


「談話室の事? 確かに談話室にも自販機はあるけどそこにはブラックのコーヒー無いのよ、だから一階の売店までいかないとだめなの」


「なんだ、それならブラックじゃなくていいよ、わざわざ大変じゃない」


「良いよ気にしないで、あたしも少しは体動かさないと、散歩がてら行ってくるわ」


「ごめんねわざわざ」


「だから良いって、ついでに少し外の空気すって来るから絵梨は隼人の事みていて」


「分かったわ、優はゆっくりしてきて、あたし見ているから」


 優は散歩がてら飲み物を買いに一階の売店まで向かったのだが、これがあのような事態を招いてしまうなんてこの時は思いもしなかった。


 優が病室を後にしてから少し経つとそれは起きた。


 絵梨がふと隼人の指先を見るとぴくぴくと動いているのが確認され、その後顔の方に目を向けると隼人の目がゆっくりと開いたのが見てとれた。


「隼人さん、隼人さん目が覚めたの?」


 すぐにナースコールを押す絵梨。するとそれに対して看護師が応答する。


『佐々木さんどうされました?』


「隼人さんが目を覚ましたみたいなんです。すぐ来てください!」


『分かりました、すぐに向かいます』


 その後主治医の石川医師が看護師の橘と共に駆け付けると、石川医師の手により隼人に対し診察などが施されていく。


 身体的には問題ないようだったが、ところがこの時の隼人の一言によりまさかの事実が発覚してしまう。


「すみません、ここどこですか」


「どこって、ここは病院だよ」


絵梨が不思議そうに応えると更に続ける。この時の隼人の表情からは生気が失われており、事故に遭う前の彼とはまるで違っていた。


「隼人さんは事故に遭ってこの病院に運ばれてきたのよ、覚えてないの?」


「分からない、僕の名前隼人っていうの?」


そんな隼人のまさかの言葉にお互い顔を見合わせた石川と橘。すると石川医師は隼人に対しいくつかの質問をしていく。


「そうですよ、あなたの名前は隼人って言うんです。ではお聞きしますね、あなたの名字は何というのか分かりますか?」


「分かりません。自分の名前もわからなかったのに名字なんて分かる訳ないじゃないですか!」


「では年齢は?」


「それもわかりません」


「でしたら今は西暦何年何月か分かりますか?」


「分からない、何故僕はこんな事も分からないんだ」


「良いですよ慌てなくて、ゆっくりと思いだしていきましょうね」


 落ち着かせるように優しく語り掛ける石川医師。


 このやり取りに対して絵梨は一体どういうことなのかと石川医師を問い詰める。


「どう言う事なんですか先生! どうして隼人さんは自分の名前も分からないなんて事になっているんです」


 絵梨が声を荒らげながら問い詰めるように尋ねると、石川医師は俯きながらも申し訳なさそうに応える。


「どうやら隼人さんは一種の記憶喪失になっているようです。恐らく頭を強く打ったのが原因でしょう」


「それって今までの事を全て忘れてしまっているってことですか?」


「それは分かりません。忘れているのは一部だけかもしれないしもしかしたら全てかもしれない」


「隼人さんはこのままずっと記憶を失ったままなんですか?」


「それも分かりません。一時的なものかもしれないしこのまま一生過去の記憶を思い出せないかもしれない」


 がっくりとうなだれる絵梨であったが、まだ希望は残されていることでどこかほっとする自分がいた。


「そうですか、ありがとうございました」


 その後石川たちが病室を後にすると、絵梨に対し隼人が静かな語り口で尋ねてきた。


「あのっ!」


「なんですか隼人さん」


「僕の名前が隼人っていうのは分かりました。では名字はなんて言うんですか? 少しでも自分の事を知っておきたくて」


 それに対し優しく教える絵梨。


「名字は佐々木って言うんですよ、佐々木隼人。これがあなたの名前です」


「そうですか佐々木隼人。それで君はどなたでしょう? すみませんほんとに覚えていなくて」


「いえ良いんですよ気にしなくて」

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