思い出に還る

館西夕木

思い出に還る

 1



 尿意を感じ、私は目を覚ました。


 枕もとの眼鏡をかけ、時計を見ると時刻はまだ五時過ぎだった。けれど、窓から日射しが差し込んでいる。


「寒い……」


 もう四月も終わりだというのに、朝はまだ冷える。


 寒さに身を縮めながら部屋を出た。


 トイレに向かう途中、洗面所から明かりが漏れていることに気づく。誰だろう。


 中を覗いてみると、洗面台に上半身を預けた母――源道寺げんどうじ愛華あいかがいた。薄暗い中で、ちょろちょろと水の流れる音が反響している。


 疲れているみたい。髪もぼさぼさだし、昨日の夜に来ていた服のままだ。母はここ最近特に忙しそうにしている。ヘルパーさんと一緒だけれど、祖父の介護はかなり大変なようだ。

 

 今年の頭に仕事を辞めてから、母は認知症の祖父の介護をお手伝いさんやヘルパーの人と一緒に行っていた。


 父と鏡華きょうかは仕事が忙しいようで、ここ数年、家にいない日の方が多い。灯華とうかも海外にいる。母を助けられるのは私しかいない。


 なにか手伝えることはできるだけ手伝ってあげよう。そう思い、私は母に声をかけようとした。


「おか――」






「早く死んでくれ」






 その言葉が耳に届いた瞬間、冷たいものが私の背筋を貫いた。肌で感じる冷たさではない。なにか、体の大事なところが凍り付くような、そんな感じだった。


 頭が混乱する。母は私に気づかなかったのか、ずっと洗面台に突っ伏したままだ。


 尿意などどうでもいい。


 私はすぐさま部屋に取って返し、自分のベッドに潜り込んだ。体の震えが治まらない。


 死んでくれ?


 誰に向かって言ったの?


 考えなくても分かる。


 分かってしまう。


 祖父に対しての言葉だということは瞭然だった。


 胸の内で黒いものが渦巻く。


 あの優しい母が、「死んでくれ」なんて言葉を口にしたことが、私には受け入れられなかった。



 2



 それから数か月。夏休みを間近に控えた暑い夏の午後のこと。


朝華あさか、出かけるの?」


 母に声をかけられ、私はとっさに俯いた。


「……うん」


「車には気を付けるのよ」


「……うん」


 祖父は六月の中頃、梅雨入りの前日に亡くなった。翌日から降り始めた雨は、祖父の死が呼び寄せたような気がした。


 祖父の介護から解放されたからか、母も最近は笑顔が戻ってきた。


「朝華、今日は――」


「行ってきます」


 しかし、あの朝の出来事以降、母を避けてる私がいた。母の顔を見るのが怖い。


 母の笑顔の裏で、心の内ではもしかしたら祖父の死を喜んでいるのかもしれない。そんなことを考えると、とても悲しい気持ちになるのだ。


 祖父も母もどっちも私にとって大事な家族なのに。


 私はきっと、嫌な娘なんだろう。


 公園で未夜みやちゃんと眞昼まひるちゃんと合流し、私たちは〈ムーンナイトテラス〉に足を運んでいた。なにやら重大発表があるらしいのだ。


「えっ、ま、マジか!?」


 眞昼ちゃんが飛び上がり、大きな胸が上下する。


「おばさん、それ、ほんと?」


 未夜ちゃんが信じられないと言った表情で聞く。


「勇にぃ、帰ってくるんですか?」


 私は興奮が治まらない。


「うん、今年の夏は休暇を取れたって言ってたから」


 おばさんは笑顔で言う。


「いつ? いつ来るの?」


「八月の三日から一週間だって」


「やったぁ」

「やったぁ」

「やったぁ」


 重大発表というのは、勇にぃが帰ってくるということだったのか。たしかにこれは重大な発表だ。


 私たちが一年生の終わりの時に東京に行っちゃったから、勇にぃに会うのはおよそ三年ぶりだ。


 勇にぃ、成長した私たちを見たらびっくりするだろうな。


 眞昼ちゃんは背がすごく高くなってかっこよくなったし、未夜ちゃんは昔みたいにはっちゃけることが少なくなって、物静かになった。


 勇にぃはどんなふうに変わってるんだろう。大人だからそんなに見た目は変わらないだろうけど。


 あの突然のお別れから、一度も静岡に帰ってこなかったのは仕事が忙しいからだと聞いていた。


「楽しみだね」


 未夜ちゃんはにやにやしながら組んだ手をもじもじさせる。悪戯大好き未夜ちゃんも今では可愛らしい女の子だ。


「何年ぶりだろうな」


 眞昼ちゃんは腕を組む。その時、組んだ腕の上に胸が乗り、ちょっと窮屈そうだった。


「三年とちょっとかな」と私が答える。


「三年ぶりかぁ」


「懐かしいなぁ。ちょうど今ぐらいの時期に私が眞昼と朝華をここに連れてきたんだよね」


「そうだね、懐かしい」


「勇にぃが帰ってきたら何して遊ぶ?」


 眞昼ちゃんが尋ねる。


「やっぱプールだよ」と未夜ちゃん。


「そうだね、ウォータースライダー、みんなで乗りたいね」


 そして夏休みに入った。私たちは勇にぃの帰省を心待ちにしながら、まだかまだかと退屈な夏休みを過ごしていた。


 そして、あの日が来た。



 3



「朝華、お母さんと一緒にお出かけしない?」


「……夏休みの宿題をしないといけないので」


「まだ、夏休み始まったばかりじゃない?」


「早く終わらせておくんです」


「そう、偉いね」


「……集中したいので」


「あっ、うん。ごめんね」



 朝華の部屋を後にし、源道寺愛華は息をついた。最近、朝華とあまり話せていない。

 

 先月鬼籍に入った義父の写真に手を合わせる。


 義父――源道寺雲雀ひばりは、愛華にとって本当の父親のような存在だった。幼い頃に実の両親を事故で亡くし、愛華は実父の友人であった雲雀に引き取られた。


 両親を一度に失った悲しみと慣れない環境に戸惑うばかりだった私を、優しく迎え入れてくれた。華吉をはじめとする彼の子供たちともうまく打ち解け、特に華吉とは恋仲にまで発展するようになった。


 経済面で不自由したことはなく、大学、就職の世話までしてもらった。


 これまで育て続けてくれた恩を返すため、弁護士の仕事を辞めて本格的に介護にあたった。

 しかし、認知症に侵され、思い出を忘れ続けていく雲雀の世話をしていくことは辛かった。


 人格とは記憶の蓄積だ。


 思い出があるからこそ人は唯一無二の個人となる。


 愛華のことも忘れ、全くの別人となってしまった義父。


 彼女の知っている、優しく頼りがいのあった雲雀はもういない。

 目の前のその姿と過去の幸せだった時間を比較し、大好きだった雲雀が病によって奇行に走る姿を見続けることが辛く、いっそのこと早く死んでほしいと願ってしまったこともあった。


「お義父様……」


 頬を伝う涙をぬぐい、愛華はゆっくりと立ち上がった。


 車のキーを手に、外へ出る。


 朝華の好きなケーキを買いに行こう。思春期を間近に控えた女の子は親との距離感の取り方が難しくなってくるものだ。鏡華も灯華もそうだった。


 富士ふじ市にある洋菓子店で二人分のケーキを買い、帰路につく。


「大月線にすればよかったなぁ」


 夏休みに入ったからか、西富士道路はひどく混雑していた。大型トラックの後ろに着く。


「ふぅ」


 ここが最後尾だった。













































 *



 ――その夜。


「お母さんが、死んだ」


 そう告げた父の顔は、今にも死んでしまいそうなほど青かった。


 父の言った言葉の意味がよく分からず、私は『なんで?』と繰り返すばかりだった。


 鏡華が私を抱きしめ、すすり泣く。


「ねぇ、なんで?」


「朝華……」


「鏡華姉様、苦しいです」


「鏡華、灯華に連絡は?」


「しました。明日の朝に到着するそうです」


「そうか」


 父は目元を手のひらで押さえ、出て行った。


 姉に抱きしめられながら、私は呟く。


「なんで?」



 4



 母の葬儀が終わってから、ようやく私の目にも涙が溢れてきた。もう会えないんだ、という実感が湧き上がって来た。


「うぅ、お母さん」


 あれが最後になるくらいだったら、もっとちゃんとお話ししておけばよかった。


 後悔ばかりが胸に残り、体の外に出ていくのは涙だけだった。


 翌朝、目を覚ますと、枕は涙でぐっしょり濡れていた。


 目が痛い。


 顔を洗いに洗面所に足を踏み入れた。冷たい水で顔を洗い鏡に目を向けると、そこにはがあった。そして母は静かに呟いた。





『早く死んでくれ』





「ひっ」


 あの朝の冷たい情景がフラッシュバックした。


 寒々とした朝の空気の中で、重たい母の声が大気を震わせた。あの瞬間の――



「いやぁ!」



 私は家を飛び出し、ひたすらに足を動かした。自分がどこに向かっているのか、どこに行きたいのか、自分でも分からない。ただ、母のあの声から逃げ出したかった。


「はぁ、はぁ」


 気がつくと、私は〈ムーンナイトテラス〉にいた。


 今日は勇にぃが帰ってくる日だ。


 とにかく、勇にぃに会いたくてたまらなかった。


 この心の奥に留まる黒い塊を勇にぃに取り出してもらいたい。


 折れてしまいそうな心を支えてくれるのは勇にぃにしかできないから。


「……こんにちは」


 店に入ると、おばさんが誰かと電話をしているところだった。


「ちょっと、急に言われても、なんでそうなるのよ。忙しいったって……みんな楽しみにしてたのに――ちょっと、勇? 勇?」


「あの?」


「あ、朝華ちゃん、いらっしゃい。お母さんのことは――」


「もう大丈夫です。それより、どうかしたんですか?」


 おばさんはぎこちない顔で視線をあちこちに移ろわせる。


「えっとね」


「……?」


「いや、その……」


「なんですか」


「えと」


「勇って聞こえましたけど」


 おばさんはビクンと肩を跳ね上げる。観念したようにこちらを向いて、


「そ、それがね、勇、今年も帰ってこれなくなったって……」


「……え?」


「私も話はよく聞けなかったんだけど、当日になってやっぱり休めなくなったって……朝華ちゃん?」



 気がつくと、おばさんの顔が母の顔になっていた。




『早く死んでくれ』




「ひぃっ」


 私は踵を返して駆け出す。


「朝華ちゃん?」


 私は逃げ出した。


 体が熱い。


 今にもバラバラに崩れ落ちてしまいそうな、不安定な感覚。


 やり場のない悲しみとショックがじわじわと全身を侵食していく。


 それらを必死に忘れようと、体力の続く限り、走り続けた。


「はぁ、はぁ」


 涙で前がよく見えず、何度も転んだ。


 私はどこに向かっているんだろう。


 私は……


 



 *



 その時、彼女はたしかに聴いた。


 扉に鍵がかかる音を。


 そしてそれは、紛れなく彼女の胸の奥から聞こえてきたものだった。


 思い出だけが詰まった牢獄の扉。


 そこに一歩でも足を踏み入れれば、出ることは容易ではない。


 彼女の心の扉が開くのはまだ先の話……




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