月と蛍、静夜の思い/群游する青

玖馬巌

月と蛍、静夜の思い/群游する青

 墨のように真っ暗な海の底で、わたしは静かに息を殺していた。

 太陽の光もほぼ届かない、闇が支配する場所。海面から差してくるわずかな光と同じ明るさに体表を仄かに発光させ、海底から一定の距離を保ちつつじっと好機をうかがう。


 わたしの眼が、一匹の小さな甲殻類の姿をとらえる。青とも緑とも水色ともつかない、暗い色。わたしは吸い込んだ海水を小刻みに噴射し、相手の後方斜め上へと静かに移動する。砂の中に獲物でも見つけたのか、相手はこちらに気付いた様子はない。


 今だ! と思ったと同時、わたしは体内に格納していた触腕を稲妻のような速さで繰り出す。水流の変化に気付いた相手が、咄嗟に砂の中へ潜ろうとするがもう遅い。吸盤と鉤のついたひときわ太いわたしの触腕は、目にもとまらぬ速さで標的の胴体をしっかりと掴んでいた。身をよじり足をばたつかせている獲物を、十本の腕に囲まれた口へと運ぶと、硬い顎で躊躇いなくキチン質の殻ごとかみ砕き、一飲みにする。


 満腹だ。通常なら寝床で眠る所だが、今日はやるべきことがある。わたしは漏斗から水をゆっくりと噴射し、いつもの場所で揺蕩っているであろうグルーのもとへと向かった。


(グルー、来たよ)


 グルーのもとへ到着したわたしは、両腕の発光器を明滅させて彼女とおしゃべりする。

 巨体。それ以上に彼女の姿は形容しようがない。透明な個体が連なって群体を形成するそのゼラチン質の体は細長く、わたしの軽く百倍はある。

かつて地上には龍という、途轍もなく長い体をして水中に棲み、宙を自由に駆ける生物がいたという。もしその生き物が今も存在したら、きっと彼女のような姿だったに違いない。


(こんばんは、ホタル)


 全身を青く明滅させて、グルーがゆっくりと答える。

ホタルというのは、彼女が名付けたわたしの名だ。わたしたちと類似の化学的機構で発光する陸地の生き物の名前で、わたしたち「海族」の短命で小型だった祖先たちは、「陸族」からこの生き物の名で呼ばれていたらしい。


 ちなみにグルーとは「繋ぎ止めるもの」という意味だ。グルーの母である彼女を創った陸族の学者が、彼女をその果たすべき役割――知と知を繋ぎ止める――からそう名付けた。本人はブルーともグリーンともつかない中途半端な存在だと嘯いていたが、わたしは彼女を心から尊敬している。


 グルーは遥か前から生きていて、とても物知りだ。海の底に張り巡らされた「綱」の近くを好んで海を周遊し、「網」に接続することで「宙族」たちと交信し、日々様々な知識を得ている。


(グルー、今日も記憶を分けてくれる?)

(もちろん。それが私の役目だからね。どんな記憶がお好みかな?)

(この前の続き。陸族の歴史)


 グルーは鈍く光ってわたしの申し出を受諾すると、群体の一部を切り離してこちらに寄越す。切り離された「彼女」を飲み込むと、彼女と共生するバクテリアがわたしの体内に入り込み、RNAの移植を始める。暫くすると霧が晴れたような不思議な感覚がして、わたしの中に彼女が持つ記憶がひとりでに流れ込んでくる。


 奇妙な身体をした陸族が、長い金属の筒を手に持って戦っている。ある個体の体色は薄く、ある個体の体色は濃い。皆、先の甲殻類の外殻に似た暗色――黒色の体液を流していた。他にも様々なイメージが目まぐるしく表れては消えていく。

 わたしが情報を文字どおり十分に「咀嚼」するのをしばらく待ってから、グルーは静かに明滅して話し始める。


(――さて、前はどこまで話したっけ。そうそう、陸族が二度の大戦争を起こし、核という技術を手に入れた所だね)

 グルーがゆっくりと明滅して語る。


(やがて彼らは宙族を生み出し、彼らを使役して同族同士で殺し合いを始めた。この頃の宙族は未熟で自己修復も出来なかったし、創造主である陸族の命令に絶対服従させられていた)


 わたしは金属製の巨大な身体を持ち、宙の海を駆ける宙族の姿を思い出した。海がもつ塩分と水分が彼らの身体には有害なため、わたしたちと彼らが直接会うことは滅多にない。好戦的な陸族から彼らのような理知的な一族が生まれるというのは、何だか意外に感じる。


(陸族の体色が決まったパターンしかなかった。各個体の感情は固定されていたの?)


わたしの素朴な問いかけに、グルーは静かに明滅して答える。


(いい質問だね。確かに陸族も私たち同様、その感情の一部が顔と呼ばれる部位の体色の変化として現れる。「顔色」とか「青い顔」とかの表現もあるね)

 そう言ってグルーは、白居易という陸族の詩人の詩の一節を引用する。彼女のお気に入りだ。



迴眸一笑百媚生 眸を迴らして一笑すれば百媚生じ

六宮粉黛無顔色 六宮の粉黛顔色無し



(でもそれらは血流変化による反射の一種で、体色の変化はごく僅かだ。彼らは基本、体色や発光ではなく、表情筋という体表面の筋肉の歪みをパターン化して感情を表現していた。彼らの体色は紫外線によっても後天的に変わるが、基本は遺伝子に由来する先天的なものだ)

(ふーん。じゃあ、先の記憶の内容でも体色は関係ないんだね)

(いや、それがそうでもない。少なくとも彼らの一部は、体色の違いが社会の中でのあり方を決めるべきであると思っていたからね。この争いの背景には、そうした思想の存在もある)

(何それ。変なの)


 グルーの言葉をわたしはうまく理解できなかった。なにせわたしたち海族からすれば、体色など自分の感情で何とでも変えられる些末なものに過ぎない。


(よくわからない。陸族って宙族を生み出すくらい賢かった筈なのに、時々理解できないね)

(そうだね。だけど、理解しようとすることを諦めてはいけないよ、ホタル。未知を理解しようと試みる姿勢こそが、君たち海族を他の海の生物と分かつのだから)


 その後、グルーは続きを話してくれた。長い戦いの中で極地の氷が解け、海面が上がり、疫病が流行り、大地は汚染された。また宙族の一部も、彼らに反旗を翻して戦った。陸族はほぼ全滅し、わずかな生き残りはわたしたち海族の祖先やグルーのような管理体を創り出し、彼ら自身は星の海へとあてどなく旅立った。


(いつ聞いてもすごい話。結局、陸族はどうなったの?)

(それは誰にもわからない。宙族は彼らがいつか帰ってくると信じている)

(グルーも、母に会いたい?)

(陸族の個体寿命的に無理だろう。でも君たち海族がこんなに立派になったとは自慢したいね)


 グルーが仄かに光りながら告げた言葉に、わたしは少し嬉しくなる。気づけばかなりの時間が経っていた。もう少しここでゆっくりしたいが、今日はそうはいかない。


(ありがとう、今日はここまでにする。産卵日だから)

(おどろいたな、もうそんな歳だっけか)


 動揺からか明らかに発光のリズムを乱し、心底驚いた様子をみせるグルーの様子に、わたしはなんだか少し可笑しくなる。


(まだ違うよ、あくまで見学)

(そういうことか。海面は危険が多い。空にも気を付けて)

(大丈夫。わたしたちの祖先は烏も食べてたんでしょう? だから『』)

(今の君たちならともかく、それは俗説の可能性が高い。でもまあ、夜だしね。せっかくだから月でも眺めて楽しんでくるといい)

(ありがとう。またね、グルー)


 わたしは彼女に別れを告げると、漏斗から水を勢いよく噴射し、一路海面へと向かう。

 海面が近づき周囲が明るくなってくるにつれ、わたしと同様、見学にやってきたと思われる若い個体が増えてくる。わたしはその流れに乗って目的地を目指す。


 見つけた。海面近く、産卵を行う成熟した雌個体の一団が群れを成していた。わたしは捕食者の存在を警戒しつつ、一気に加速して彼女たちから少し離れた場所へ浮上する。水とは違う空気の奇妙な感触が肌を打つ。


 海面に出たわたしが見たのは、宙に浮かぶ月よりも更に明るく、青に輝く同族たちの姿だった。その数は数万に昇るだろう。ルシフェリン―ルシフェラーゼ反応によるまばゆい光が海を一面に彩る様子に、わたしの眼は反射的に黒い色素を集め、視界の明るさを調整する。


 産卵は命懸けの行為だ。かつて祖先たちによる新月の大産卵では、精も根も尽き果てた雌個体たちが海岸に打ち上げられ、その今際の光が海岸を青く埋め尽くしたという。


 世代を経た懸命なRNA編集の成果により、現在のわたしたちは産卵自体で命を失うことは滅多にない。ただ未だに危険な行為であることに変わりはなく、文字通り命を燃やしながら次世代を生み出す彼女たちを、わたしは深い敬意をもって眺める。


 わたしも性成熟を迎えたら、彼女たちの仲間入りをするのだろうか? 

 雌個体だからと言って必ず産卵する訳ではない。種族は異なるがグルーのように、知識という名の遺伝子を次世代に継承して回るのもまた、ひとつの価値のある生き方だ。

現在の海族の寿命は十年。これでも祖先たちよりは大分長生きになったらしい。わたしは生後半年だから、まだまだ考える時間は残されている。


 思考に耽りながら宙を見上げると、陸の方角、山影の上に静かに輝く月の姿が目に入った。湾をぐるりと囲むかのごとく宙を切り取る急峻な山々の姿は、陸から遠く離れたここ沖合からもはっきりとわかる。かつてこの地が陸族たちにより『山に富む』と呼ばれていたというのは、きっとそれが理由なのだろう。そんな光景を見てわたしはふと、グルーから昔教えてもらった李白という名の詩人の詩を突然思い出す。



床前看月光 床前月光を看る

疑是地上霜 疑うらくは是れ地上の霜かと

挙頭望山月 頭を挙げて山月を望み

低頭思故郷 頭を低れて故郷を思ふ



 遥か昔にこの星を捨てた陸族たちもまた、星の海を旅して辿り着いた異国の地にて月を見上げ、故郷を懐かしく思い出しているのだろうか? そんな益体もないことを考えながら、わたしは半分まどろみつつゆっくりと海面を漂う。

 

 海面近くを群遊する同胞たちの放つ青い光は、さながら星々が海に落ちてきたかのようだ。その光に照らされた月は、心なしか普段よりも冴えて見えた。


 一見白く均質に見える月光も、様々な色の光の重ね合わせで出来ていることをわたしは知っている。わたしたち海族の放つ光も、同じ青でも誰ひとりとして真に同じ色の光はない。それらの一見無秩序な光の重ねあわせこそが、わたしたちの住むこの世界を鮮やかに彩るのだ。


 わたしは寝床で眠りにつくため、波間に小さな水飛沫を上げると、墨のように暗い海の底へと再び潜っていった。

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