彗星とグリザイユ

廉価

彗星とグリザイユ


 未来は青みがかって見えるのだといいます。彼女にとって。

 なんでも、近づいてくるものは波長が圧縮されて短くなるのだとか。青方偏移。

 彼女の生まれつきのモノクロの視界。そこに色彩は層をなしてオーバーレイされるのだそうです。事後的に、後天的に。グリザイユ画法のように。対象の過去や未来が、考えうる限り最も微細なマチエールとして刻印されるのだそうです。光の波を濾し取る櫛として。


 いとも簡単にあっけらかんと、未来を観るなどとは言い条、どちらの方を向けばよいのか、何を見ればよいというのか。戸惑いはごもっとも、未来はあなたの全方向からやってくるはずですから。

 しかし彼女は無数の変数を平均化した後で現れる単一の変数〝t〟としての未来方向を見つけました。彼女が首を捻って物憂げな視線を中空にやるとそちらが未来方向なのだそうです。

 彼女が授業中に頬杖をついて、美少女なのです、首が一寸変な方向に傾いている以外は。

 その弄れた視線が、こともあろうに私のほうを向いていたことを加味しても。


「彗星さんのことを描きたいな」頬杖をついたままそう言った彼女の小指が目尻のほくろを載架しています。その微小な黒点が重いから、あるいはいつも首を傾げているのでしょうか。

 彼女は、森声さんは、絵を描くのでした。拡張現実に直接。画材は指先と時空間、メモリセル内の電荷のパターンに符号化されたキャンバスを使って。

「わたしなんか描いても」私は断りました。

「彗星さんは青く見える。人間が青く見えるのは初めて」それが彼女の口説き文句のようなのでした。「彗星さんは私の未来?」

「じゃあなおさら、肌が青いなんて気持ち悪いよ」そんな風変りな絵として彼女のアーカイヴに残るなんて。

 しかし森声さんは私とは逆様に、もっぱら見ることに拘るようでした。どう見られるかではなく。

「肌だけがじゃないよ。全体が。青い部屋にいるように見える。午前5時くらいの」

「そんな感じならいいけど」

 私はモデルになりました。

 

 ところでグリザイユ画法のメリットとは。ご存知ですか?わたしは知りませんでした。最初にグレースケールで絵を描いて、後から色をつけるなんていうその技法自体を。

「デジタルではそんなことが出来るんだ」

「このほうがラクだから」

 もちろん、起源はアナログの技法です。しかし加法混色が可能なデジ絵では光そのものが画材であるような新しい描き方となります。今どきアナログで描くのは贅沢な酔狂だと彼女は嘯きます。

 彼女はモデルに絵の描き方を講釈しながら描く種類の絵師でした。私が不用意に、自分も絵が上手くなりたいと言ったからなのですが。講義は執拗でした。

 彼女が言うには、この画法を選ぶ利点とは、最初に形態と陰影に集中できることだそうです。つまりデッサンそのものに。

 形を面で捉え、逆光によるリムライトで輪郭を強調します。線画から先に描かないことは輪郭を意識しなくてよいということではありません。輪郭は誇張したほうがネットでは受けがよいのだと彼女は言いました。ぼやけていいのは、カメラとの距離によってピントが合わない部分だけです。距離、つまり被写界深度は部分的にぼやけを手動でかけることで実現されます。これらの作業をしながら色調も同時に整えるというのは酷な作業ですから、最初に色彩レイヤーを分離するのは効率的です。後から気に入らなかった場合、色調だけを変えることもできますし。


 まず形と陰影があり、色彩は後から付加される情報。この画法は彼女の世界の見方を象徴しているようです。彼女はまさにグリザイユ画法のように世界を見ているのです。その世界では、色彩に本質的な意味はなく、あくまで付加的な情報でしかありません。

 そもそも色彩は恣意的なタグ付けであり、樹上生活を営む猿にはあらゆる真理そのものの表出、自分と宇宙との関係のもっとも直接的なアレゴリーだったわけですが、それ以上のことは教えてくれません。たとえゲーテが言うように青は卑俗で橙色が高貴だったとしても、それ以上のことは。素粒子に色はなく、ガンマ線を見ることもできません。一つの波の長さが銀河系ほどもある重力波の色は何色でしょうか?それは熟した果実より赤いのでしょうか。熟して木から落ち、分解されて原子が惑星中に散逸した後の果実の色でしょうか。それを果実と認識できるとして。

 便宜的にそれら不可視の存在に色を当てはめるにしても、きまりの悪さを感じます。人間の色覚の範囲内に貶めることに。私にとって色は記号のように恣意的に交換できるものであってほしくないのです。

 青いものは、青であることの必然性を持っていてほしいのです。人間以外にとっても。


 だから彼女が未来が青みがかって見えると言うとき、私はそれが記号的にタグ付けされた青ではなく、実際に青いのだと思っています。信じています。

 もし私にも絵が描けたなら、あの子のように上手く描けたなら、きっと最初から色を載せるでしょう。色だけで絵を描くのに。

 不思議です。人間の感性に対して冷淡なあの子が、数学はてんでだめで絵を嗜む。私は人間の感覚の必然性を信じたいのに物理学の道を志向している。ちぐはぐです。


「最近彗星ちゃんが赤みがかって見える」森声さんはキャンバスを注視したまま言いました。「私から遠ざかろうとしていない?」

「そんなことないけど」私はポーズを崩さないように答えました。「理数科に行くから会う機会は減るかも」

「過去の女になるの?」

 そんなことを言われても私にはどうしようもありません。時間軸を彼女方向に進めと言われても。彼女にとっての秩序であれと言われても。

 私はむしろカオスで、バラバラに壊れゆく物体で、彼女に与える秩序などありません。

 森声は深刻な顔で言いました。

「私から未来が失われていく」

「新しく未来の人を見つけたら?そのへんで」

 私は彼女に冷たいつもりはなく、私の代わりなどいくらでもあるということです。青は卑屈とはよく言ったものです。

「それでは意味がない」

「じゃあギャンブルでもしたら?未来予知のちからを有効活用しないと」

「私はエントロピーの局所的な減少を見るのであって、あらゆるギャンブルの情報は恣意的に決められたものだから、私にとって特殊な情報勾配ではない。どのカードが選ばれようが、どの馬が勝とうが、そこでは等しく情報が失われていくだけ」

 彼女は私の物理学の言葉を盗用して説明しました。

「じゃあ何かの発明とか特許を未来から取り寄せたら」

「言ったでしょう。私という系にとって何が情報で何がノイズかは定義できない」

「じゃあなんの役に立つの?その能力は」

「酔歩すること」

 よくわからない。そう思った私が覗き込んだ彼女の瞳は、嘘のようにたくさんの色を分光する鉱物のように揺らめくのでした。


 宇宙は微視的には未来と過去を区別せず、巨視的に熱のような形で現れる散逸が時間を生みます。

 時間がこのように流れるのは、わたしたちが宇宙のある状態をもっとも秩序の高い状態、つまり始原の究極の過去の一点として定義する形で認識しているからです。変化するに従って、エントロピーが増加し続けます。それは散逸過程ですから、わたしから離れていく形で宇宙は推移します。負の曲率を持って。赤方偏移を伴い、過去が赤みがかって見える理由です。

 彼女は秩序を再定義していると思われます。それが色彩と同様、物自体の本質ではないとでもいうように。

 色彩という欺瞞を暴くように。 


 いつものように私を描いていた森声さんは仮想キャンバスを睨んでいた顔を不意に上げ、言いました。

「私は正気じゃなかった。色彩に惑わされそうになった。私の未来が人間の形をしているはずがない」

「どうしたの?」

「無駄遣いした。愛は有限なのに」

 いそいそと仕事道具をかき集めて架空の画材箱に放り込む彼女を見て私は思いました。彼女は今、散逸した愛という資源を再回収して過去方向へ撤退する準備をしているのだと。

 わたしは彼女を引き止めるように、「一度発生した愛は回収できないよ。冷たいものから熱いものへの熱の移動は起こり得ないのと同様に」

「追いかけるのはやめた。未来は勝手についてくる。彗星のように何度も戻ってくる。なぜなら時空がそのように歪んでいるから」

「わたしは別にあなたを追いかけないけれど。そうしたくても、そんな能力がないし」

「知ってる」

 そのようにして、森声さんは美大への進学を決断しました。


 色彩という虚像は、時間の矢の一方向性という錯覚から生まれたものでした。色彩は静止した絵には存在せず、時空の泡状構造体が静止しているなら生まれないはずのものでした。それを定義しているのは、結局のところ、わたしたちがノイズとしてしか捉えられない限界、被写界深度のようなぼやけなのです。


 私達のどちらも、これを別れだとは考えませんでした。分岐し続けるほど出会う確率は低くなるけれど、隘路に突き進んで孤絶していくけれど、それを始まりと再定義したら、宇宙が円環状をしていたら、一方には破壊と見えるものが、他方には創造だったら。

 最もお互いにとって無関係に見える進路を私達が選んだとしても、私達はまた出会うでしょう。ほとんど確率的な必然として。目も開けていられないような青の中で。



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