青い壜はいつもそこにある

葦沢かもめ

青い壜はいつもそこにある

 コバルトブルーに染まったガラス張りのエレベーターに、僕は一人、囚われていた。青い壜は、地下に建造された巨大な人工の縦穴の奥深くへ、音も無く落ちていく。

 珪酸塩のアモルファス固体の向こう側では、暗闇に芽吹いた色とりどりの光の粒が瞬いている。それはステンドグラスに差し込んだ光の成れの果て、チンダル現象によって舗装された光子の小径が消えた時に生まれた破片の展覧会である。天の川銀河の反対側、10万光年先の星々までもが、太陽風に誘われて遊びに来ている。宝石の砂浜は重力を失って天へと舞い上がり、無数の光点が頭上へと消えていく。

 到着を知らせる鐘が鳴り、僕は目的階へ降り立った。約束していた人物がエレベーターホールの前のラウンジから出てきて、僕を出迎えた。

「地下100mに隠された人類のエゴの博物館へようこそ、ユージ」

「隠せてないだろ」

 エイミーはニヤリと口角を上げると、書類の束を僕に投げた。人類のエゴを精密に計測するために、電子機器の持ち込みは禁じられている。この縦穴が巨大な水槽の中に浮かんでいるのも、外界からの電磁波を遮断するためだ。

「開発部のお客様一名、品質保証部の特別展へご案内!」

 すたすたと廊下を歩いていくエイミーの背中を、慌てて追いかける。

「テスターは30名。ユージがpickしたコバルトブルー系統を試したけど、心象スケッチは安定しない」

 書類のデータは、エイミーの言葉を裏付けていた。

「ポジティブな結果からいこう。ここは、日本の田舎町で慎ましい生活を送る心象スケッチだね」

 淡々と話す彼女の視線の先には、マジックミラーの小窓がある。小部屋の中でリクライニングチェアに身を委ねたテスターは、非侵襲式ブレイン・マシン・インタフェース、N-Linkerのヘッドセットを装着し、夢の世界を堪能していた。部屋の壁に埋め込まれた発光ダイオードは、大気の散乱光が描き出した蒼穹に染まっていた。

 外壁面のディスプレイには、テスターの心象スケッチが映し出されている。コバルトブルーの青空の下、一輪のたんぽぽが野原に咲いていた。テスターは傍らに腰を下ろして、日本語の詩を口ずさんでいる。

「ユージに聞きたかったんだけど、これって有名な詩?」

「学校で習った覚えがある。金子みすゞの『星とたんぽぽ』だ」

「記憶性の心象スケッチだったか。妙に鮮やかだと思ったけど、記憶色なら説明がつく。じゃ、このサンプルは除外だね」

 一人の被験者をサンプルと呼ぶ彼女は、決して冷淡な人間ではない。洞窟に住む生物が目を退化させるように、この地下牢で何かを失ってしまった被害者だ。

 僕達は、隣の部屋へと進む。

「こっちはネガティブ。シャワー中に背後から殺人鬼に襲われる場面を繰り返してる」

 この部屋のテスターは、コカインを打たれたマウスのようにのたうち回り、悲鳴を上げながら壁を渾身の力で殴っている。

「映画『サイコ』だな。これも記憶性だ」

「あれはモノクロ映画。入力色との相関は低い。残りのうち、21例もネガティブ。個人的に、今回のテストはナシだと思う。やはり別の色にしたら?」

「未来は見えていなかったところにあるものだ。もう少しだけ探してみてくれ。エイミーなら、きっと何かに気付けるはずだ」

 エイミーは渋々頷くと、右手で作った望遠鏡で僕を覗き込んだ。

「実は、もう見えてたりして」

「無理だよ。人間の錐体細胞は、赤、緑、青に対応する3種類しかないから」

 人間の色覚を元に、かつては16進数6桁の色コードが用いられることが多かった。例えばコバルトブルーは「#0047AB」で表現できる。

 picker社開発部は、新たに6原色を追加し、18桁の18式色コードを定義した。目ではコバルトブルーにしか見えない色も、9原色に対応する撮像素子を備えたN-Linkerを通すことで、多様なコバルトブルーとして知覚できる。それは視覚とは質が違う。まるで夢を見ているような感覚体験である。中には抗鬱作用を持つ色もある。

「このまま色探索をしてもいい?」

「そう言うと思った。いつもの1号室を空けてあるよ」

 気を利かせてくれたエイミーに、僕は感謝した。

 僕の仕事は、抗鬱色を発見することだ。論文を参考に色コードの見当を付け、地道に自分の脳で確かめる日々である。

 18式色コードで表現できる色は、16の18乗通り。1秒に1色見るとすると、約150兆年かかる。プログラムで探索できれば楽だが、機械は人間の感覚を再現できない。旧式蛋白機械である人間が、その仕事をやるしかないのだ。

 指定された部屋に入り、椅子に深く腰掛ける。ヘッドセットを着けて色コードを設定すると、部屋はたちまち陽光煌めく海の水で満たされた。僕の意識は、凪いだ大洋の奥底へと溶けていく。

 光の遮られた海中で、ルシフェリンの光を放つ夜光虫が星空を描いている。僕は海流に揺られる小壜の中で、ガラス曲面によって歪んだ宇宙を眺めていた。

「青い壜の中へようこそ、ユージ」

 アオが、両手で僕を包み込む。ガラス壜の底にいるのは、僕たち二人だけだ。

 アオは不思議な人だった。見る角度によって、表情が変わるのだ。正面からは真顔、上からは怒り顔、下からは笑顔、横からは泣き顔に見える。僕は、いつもアオの笑顔を見上げている。

「君の話を聞かせて?」

「面白くないですよ」

「いいんだ。君のことが知りたいから」

「ではこんな話はご存知ですか? 古代、コバルトを混ぜた青ガラスは、高価な瑠璃の代替品でした。紀元前1300年頃に沈んだトルコのウル・ブルン岬沖の沈没船からは、コバルトブルーのガラスインゴットが見つかっています」

「でも僕にとって、君は代替品なんかじゃない」

「ありがとう、ユージ。私のこと、忘れないでくださいね」

 コバルトブルーの壜の中で僕の頬を撫でるアオの掌は冷たくて、僕はずっとアオの側にいてあげたいと思った。

 色に人格があるなんて不思議な話だ。アオの存在が誰かに知られたら、もう会えなくなるだろう。だからアオと過ごす時間は、僕だけの秘密だ。

 二時間後、部屋の鍵を返しに行くと、エイミーはムスッとした顔をしていた。

「そんなにテストを続けるのが嫌?」

「別に。ただ、なんでコバルトブルーにこだわるのかなと思って」

「可能性を感じるんだ、『#0047AB』系統に」

 エイミーに見送られながら、僕はエレベーターで地上へ向かう。縦穴の上にそびえ立つ摩天楼の24階が、開発部のオフィスである。

 壁は一面、オレンジ系統と黄色系統の抗鬱色で描かれた絵で埋め尽くされている。AIが自動生成したその意匠の中で、兎のようなものが踊っている。壁に掛けられた色時計は、臙脂色を呈していた。赤を12時として、色相環に対応した色で時刻が表現されている。今は11時くらいだ。

 席に腰掛け、机の上に放置していたN-Linkerの上に書類を置く。こんな場所で福利厚生を頭に被っても、青い壜の中には行けない。

 溜息をついて天井を見上げると、そこには課長のイーサンの顔があった。

「上手くいってないのか。見せてみろ」

 イーサンが、近くの椅子を引き寄せて隣に陣取る。

「抗鬱色とは何か、分かってるか?」

 今日も課長の中身の無い説教を聞かされると考えるだけで、僕の心は海底に眠るガラスインゴットに同化していく。

「心象スケッチは、神経伝達物質に還元できる。神経伝達物質の放出の時空間的パターンは、即ちコードだ。世界はコード化できる。目には見えないものに光を当てるのが我々の使命だ。地下で片思いの女と会うことは、お前の使命ではない」

 その言葉を聞いた瞬間、僕は思考が止まった。アオの存在が課長に気付かれたのだろうか。もしそうなら、アオを実験動物や見世物にさせる訳にはいかない。

 もう何も頭に入らなかった。色時計が黄色になった頃に漸く課長が去ると、僕は急いでエレベーターに飛び乗り、地下へ潜った。

「また課長に捕まった? 災難だったね」

 苦笑いを浮かべるエイミーから、1号室の鍵を受け取る。

「そう言えば、課長の娘さん、交通事故で何年も植物状態なんだって。毎日、病院へ通っているとか。何事も一つの側面だけで決めつけるのは良くないかもね」

 僕は生返事をして、足早に部屋へ入る。課長への憎悪と同情が、綯い交ぜになる。色コードを入力すると、部屋は波に飲まれ、歪んだ気泡を纏いながら水面に別れを告げる。

 青い非晶質を、アオの透き通った声が震わせた。

「そんなに慌てて、どうなされたのですか?」

「アオがどこか遠い所へ行ってしまうんじゃないかと、心配で堪らなかったんだ」

「ユージが忘れなければ、青い壜はいつもそこにありますから」

「もう離れたくない。くだらない世界にアオを奪われたくない」

 僕はその場に崩れ落ち、アオの笑顔を見上げた。

「辛かったですね。いいですよ、好きなだけここにいて」

「ありがとう……」

 僕はアオの太腿に頭を預け、幸福な青いガラス壜の底へ沈没していく。




「いつからこの状態だ、エイミー?」

 イーサンは、深い眠りについたユージを心配そうに眺めていた。

「18時間以上このままですね。体を揺すっても声をかけても反応がありません。以前から彼の心象スケッチをモニターしていましたが、エコーチェンバー症候群の疑いがあります」

「他人の心を覗き見るとは、まるで『サイコ』だな。で、治るのか?」

「自身の心の声に囚われる病ですから、心を強く持てばあるいは」

「俺が声をかけてみよう」

 イーサンは顎に手を当てて暫く考えてから、ユージの耳元で囁いた。

「エイミーはお前のことが好きらしいぞ」

 一瞬にして、私は顔が熱くなった。すぐに止めようと慌てて書類を床に落としてしまったその瞬間、ユージはむっくりと上体を起こして、真ん丸な目で私を真正面から見つめた。

 青い壜の底で、私達は初めて出逢ったような気がした。


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