第6話【ご主人様は優しい】
フェイとユーリの自宅はアルゲード王国の裏通りにひっそりとある、どこにでも建てられている
築年数が経過しているので、家賃が相場よりかなり安かった。
スキル発動の為に金銭が必要とするユーリが家賃をケチった結果、もう一〇年以上に渡ってこの集合住宅に住んでいる。SSS級
酒場での騒動を終えて酔っ払いを引き摺って帰ってきたフェイは、今日の汗を流していた。
「これ便利だよなぁ」
浴室に設置されているのは、
如雨露の形の装置には管のようなものが伸びていて、管の先には水が入った樽が置かれている。この樽に水を入れれば樽の中で温められ、適温となったお湯が管を通って如雨露から降り注ぐのだ。
ちなみに樽の中の水は有料なので、なくなったら専門店から購入しなければならない。清潔な水は高いのだ。
フェイは濡れた自身の金髪を掻き上げて、栓を捻ってお湯を止める。
あまりお湯の無駄遣いは避けたいところだ。このあともユーリが風呂に入るのを控えているので、フェイが無駄にお湯を使えばご主人様が浴びるお湯がなくなってしまう。
「マスター」
浴室を出て下着一枚だけを穿いたフェイは、
フェイとユーリの自宅は居間と台所、浴室と便所という基本的な設備の他に寝室として一部屋を占拠している。意外と狭いのだ。
居間に置かれた長椅子にチョコンと腰掛けた銀髪赤眼のご主人様――ユーリは、トロンと眠たげな赤い瞳で手元の硝子杯を見つめている。硝子杯の水はほんの少しだけ減っている状態で、自力で飲めたのだろうか。
ユーリはゆるゆると顔を上げ、風呂から上がったばかりのフェイに視線をやる。
「フェイ、ちゃんと温まったかい?」
「おかげさまで。マスターは俺のご主人様なんだから、先に浴びれば良かったのに」
「馬鹿を言いな、酔っ払った状態で風呂なんか入ろうモンならぶっ倒れるよ」
水をいくらか飲んだことで酔いが覚めたらしいユーリは、
「フェイ、こっちに来な」
「何だよ」
「いいから」
ご主人に呼ばれたフェイは、特に異論を唱えることもなくユーリのすぐ近くにまで寄る。
隣に座ることはない。フェイは奴隷なので、ご主人様と同じ目線で話すことが原則的に禁じられているのだ。
なので必然的に、ユーリの足元に座ることとなる。長椅子に腰掛けた美しき銀髪赤眼のご主人様は、流れるようにフェイが自分の足元に座ったことに対して嫌そうな顔をしていた。
「背中は大丈夫かい?」
「背中?」
「アンタ、今日の酒場での騒動でぶん投げられていただろう」
「ああ、あれか。別に何とも」
酒場でぶん投げられて、背中から落ちて机を薙ぎ倒したという騒動はあったが、不思議と背中に痛みはない。けれど自分では見ることの出来ない場所なので、特に問題はないと思っていた。
ユーリは白魚のような指先をくるんと円を描くように動かすと、
「後ろを向きな」
「うん」
フェイはユーリに言われた通り、後ろを向く。お湯でやや湿った背中を見せれば、彼女は「赤くなってるね」と言った。
「アンタはアタシの弾丸なんだから、自分の身体を大切にしな」
「はぁい」
「ッたく。薬を塗るよ、大事には至っていないけど対策をしておくことに越したことはない」
ユーリは自分の隣に置いてあった銀色の散弾銃を掴むと、
「三〇〇〇ディール装填」
自分の保有するスキルを発動させる。
「《傷薬を出せ》」
彼女の願いは三〇〇〇ディールで聞き届けられ、手元に傷薬の小さな壺が出現する。
どんな願いも金銭さえ捧げれば叶うので、無から有を生み出すことだって出来る。金さえあれば豪邸を建てられることも出来るし、他人の精神状態だって操れるし、何でも出来る。
ユーリ・エストハイムに必要なものは金だ。金さえあれば彼女はどんな願いだって叶えられるのだから。
フェイはその為の弾丸だ。彼女が願いを叶える為に必要な『価値あるもの』をこの【鑑定眼】を使って算出し、価値のないものを価値のあるものとしてご主人様に捧げるのだ。
「イデデ……やっぱり触られると痛い」
「我慢しな。男だろう、アンタ」
「そうだけどぉ」
「ほら、傷薬を塗り終わったよ。
傷薬を背中全体に塗り終えたユーリは、今度はフェイから
思わず身震いをすれば、奪われた浴布が頭から被せられた。視界が洗濯したばかりの真っ白な浴布に覆われた次の瞬間、頭がガシガシと乱暴に掻き回される。
浴布越しに、ユーリの小さな鼻歌まで聞こえてきた。彼女は楽しみながらフェイの濡れた髪を拭いてくれているらしい。
「マスター、もういいよ」
「よくないよ。ちゃんと拭かないと風邪を引くだろう?」
「でも、俺は奴隷だし」
「アタシがやりたいからやるのさ。奴隷だから物のように酷く扱うのが常識って訳じゃないだろう? 好きにするのさ」
普通の奴隷のご主人とは、奴隷を物のように扱うことが当たり前だ。愛玩用であれば秘書仕事をさせたりするのが通例で、フェイはその辺りが曖昧だ。
フェイの存在意義はユーリの為の弾丸であり、物の価値を算出することが主な仕事だ。愛玩用として可愛がられる時もあれば、肉体労働用の奴隷と同じように荷物持ちを言い渡されたりする。
まあ、ご主人であるユーリが「やりたい」と言っているのだ。奴隷であるフェイに拒否権はない。
「フェイ、アンタの髪質はふわふわだね。動物の毛みたいだ」
「マスターの髪の毛は綺麗だよ」
「褒めても何も出ないよ」
「出なくていいよ」
ユーリはフェイの燻んだ金髪の感触を楽しみながら、
「ふあぁ、眠くなってきたね。アタシはもう寝るよ」
「寝る前に着替えろよ、マスター」
「分かってるよ」
ユーリは欠伸をしながら唯一の寝室に向かっていく。
寝室に消えるご主人の背中を見届けたフェイは、自分の寝巻き用の
明日も
さて、着替えたら明日の支度をしなければ。
早々に眠りについたユーリは、どうせ明日の朝にお湯を浴びるだろう。玄関の隅に置かれた小さめの樽を抱え、浴室に置かれた樽に水を足しておく。
明日の朝には熱いお湯を浴びれるはずだ。あとは朝食に使える食材を確認して、
いざとなればユーリにスキルを使って貰えばいいのだが、それではご主人の負担が増えてしまうのでダメだ。ご主人の弾丸にはなれるが、ご主人の荷物にならないようにしなければ。
「フェイ」
寝室からご主人様の声が飛んできた。
食材の確認の為に食料保管庫を開いたフェイは、背後から呼んできたユーリに「はーい」と応じる。
呼ばれたのであれば、全ての仕事は後回しだ。ユーリが寝るまで見届けなければ。
「何だよ、マスター」
寝室に向かえば、ユーリはすでに寝台へ転がっていた。
二人は余裕で寝ることが出来る寝台をたった一人で占拠するご主人は、ぽすぽすと空いている場所を叩く。
「アンタも寝な。明日も早いよ」
「いやいや、何度も言うけど無理だって」
ご主人様と奴隷では身分が違うのだから、同じ目線で話すことはおろか、同じ寝台で眠ることも許されない。以ての外だ。
フェイの寝床は居間にある
それなのに、ユーリは納得しなかった。毎度のようにフェイへ寝台を使うように言うので、優しくしてくれるのはありがたいのだが、奴隷と主人が
「フェイ」
今日のユーリは、強情だった。酒場での出来事が尾を引いているのか、譲ることはなかった。
こうなったらいつ希少スキルを使って殺されかねないので、大人しく言うことを聞いておくのが吉だ。奴隷に拒否権などないのだ、当たり前である。
深々とため息を吐いたフェイは「はいはい」と頷くと、
「寝るよ、俺も。寝ればいいんだろ」
「ん」
ユーリが叩く空き場所に身体を横たえたフェイは、
「おやすみ、マスター」
「ん、おやすみ」
そう言ったユーリは、いつものようにフェイへ抱きついてきた。
ユーリはいつもフェイに抱きついて眠るのだ。どうしてか不明だが、何かに抱きつかなければ寝られない性質のようで、迷宮区探索で野宿をする際も火の番をするフェイの腰に抱きついて眠る。
普段はあれだが、意外と可愛げのあるご主人様なのである。
「ふあぁ……寝よ……」
寝台に転がった影響で、眠気が誘われてきた。抱きついてくるユーリの体温も心地がいい。
うとうとと微睡んでいたフェイは、いつのまにか深い眠りについていた。
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