第1話『オカルト少女と雨蛙』

 新刊書店雨蛙しんかんしょてんあまがえるは、この町の端っこにある、傾きかけた本屋である。規模は古本屋と見間違うほど小さく、店主はよわい88の、白い頭をした爺さんだ。名をウスイという。接客を生業なりわいとしているくせして、誰も彼の笑ったところを見たことがないと言われていた。それほど、不愛想な爺さんなのだ。せっかく来てくれたお客を出迎えることもしなければ、声を掛けることもしない。いつも店の奥のレジスターの向こう側に座って、本ばかり読みふけっている。

 店の近所に住むおしゃべり好き曰く、10年前に妻に先立たれてから、爺さんはずっとそんな調子なのだそうだ。それまでの爺さんは、口数こそ少なかったものの、ここまであからさまに不愛想な訳ではなかったのだそう。

 「でもね」と、お喋り好きは言う。「唯一、あの爺さんと世間話ができる人物がいるのよ」

 その人物の名は“リク”。中学2年生の少女である。

 彼女は今日も自転車にまたがって、誰も近寄らなくなってしまった辺境へんきょうの本屋へ向かう。


 季節は夏である。


 ちゃらん ちゃらん ちゃらん と、店のドアに打ち付けられた鐘が、客の来店を知らせた。が、ウスイは、読んでいる本から視線を上げようとはしない。まるで別世界にいるかの様に、安楽椅子あんらくいすに深く腰を掛け、うっとりと文字を追っているのだった。

「おじちゃん、おじちゃん! 」

 そう呼ぶ声が、聞こえるまで。

「ああ、リクちゃんか──」

 ウスイはやっと本を閉じると、声の主の呼びかけに応じた。彼の目の前には、健康的な栗色の長い髪の毛を、頭の上で団子にした、丸眼鏡の女の子が立っていた。

「こんなに早くから珍しいね。学校は休みかい? 」

「もう何言ってんのおじちゃん。きのうから夏休みだって、言ったでしょ」

 ウスイの言葉に、リクはそう言って眉間を狭めた。爺さんはその様子に、「ああ、悪い悪い」と謝ってから、質問を変えた。

「きょうは本を持っていない様だが、学校は夏休みになると、本の貸し出しもやってくれないのかい? 」

「ううん、本の貸し出しはやってるよ」

 リクは首を振った。

 この少女は学校でも有名な本の虫で、学校から借りた本を、いつも小脇に抱えて移動していたのだ。しかし きょうのリクは、背中にいつもの黒いバックパックを背負ったきりで、手ぶらだった。

「じゃあ、借りなかったのかな? 」

 ウスイは聞いた。

 先程からのウスイの声は、うわさのあの爺さんとは思えないほどやわらかい響きを持っている。

「うん、借りなかったんだけど、そうじゃないんだ」

 ウスイの質問に、リクは変な答え方をした。彼が首を傾げると、彼女は口を大きく開けて続けた。

「聞いてよ、おじちゃん。もう最悪なの! 私、学校の図書室の本を全部読み終わっちゃったんだよ。それでね、新しく入った本は無いのかって、そこの先生に聞いたの。でも、無いって! 私はこれからどうやって生きてゆけばいいの! 」

 リクはそう言って、特大の溜息をいた。

 そこでウスイは「教科書を読んでみるっていうのはどうかな? 」と提案した。が、リクは首を横に振って、「もう全部読んじゃったもん。生徒手帳も読んじゃった」と答えた。「じゃあ、夏休みの宿題をやったらどうかな? 」と提案したら、リクはまた首を振って、「もうほとんど終わっちゃった」と答えた。

「自由研究以外──」

 リクは自分でそこまで言って、目を見開いた。

「そうだ それだ! 自由研究があった! 退屈で長いこの期間を利用して、すっごい研究しちゃおう! 」

「あ、ああ……」

 この少女は、よくこうやって ひとりで会話して、ひとりで解決するくせがある。そうしている時の彼女は、もう完全にひとりの世界に閉じこもってしまうので、周囲の人間をよく戸惑とまどわせてしまうのだった。

「あ、そうだ」

 ウスイが薄く笑みを浮かべていると、何かを思い出したリクが、バックパックをカウンターに乗せた。そして中から、1冊の雑誌を取り出し、そこに置いた。

 それはリクが唯一この本屋から毎月買っていく、オカルト雑誌だ。中学生のリクのお小遣いは微々たるものだ。それはもう、すずめなみだと言ってもよいほどで、使い道が限られてしまう。そんな彼女が選んだ使い道が、この、毎月15日に発売される、オカルトの雑誌、『月刊オカルトマガジン』を買うことだった。

 ウスイはそんな彼女の事情を知りつつも、こうして付き合いを続けているのだ。それは彼女が、自分と同じ様に、本にりつかれてしまった人間だったからというのもそうであったが、他にも理由があった。

「それはきのう買っていったものだね。どうかしたかい? 不備ふびがあったなら、取り換えてあげよう」

 ウスイが言うと、リクは「違うの違うの」と首を振った。

 そして彼女は雑誌のページをめくると、ある記事を、指差した。ウスイは老眼鏡を持ち上げると、リクが示したそのページに顔を近付けた。

 そこには「読者の不可思議体験」という、いかにも怪しいコラムが掲載されていた。

 ウスイはそのタイトルを読み上げた。

「A県 海上で目撃! 瞬間移動する蒸気機関車! 」

「その記事を投稿したのは、A県 在住の画家。その人ったら、毎朝近所の海まで行って、浜辺でヨガしてたんだって。変な人もいるよね」

 記事の本文を暗記してしまっているのだろう。リクが、その後を引き継いで話し出した。

 ウスイは雑誌に視線を落としながら、リクの言葉に内心、首を傾げた。リクこそ、変な子だ。

「事件が起きたのは2年前の4月6日。その画家がいつも通りヨガしてると、近くで、汽車の汽笛きてきの音が聞こえたんだって──」

 画家が毎朝ヨガをしている浜辺の近くには、確かに線路が敷かれていたものの、蒸気機関車が走ったことなど無い。それに、その汽笛は、海の方から聞こえてきたのだった。画家は音のする方へ、浜辺を辿って行った。

「それからしばらくも行かないうちに、見つけたんだって」

「何を? 」

「タイトルにある通り、蒸気機関車をだよ! 」

 普段なら記録用のデジタルカメラを持ち歩いている画家だが、その時に限って、それを家に忘れてきてしまっていたらしい。仕方なく画家は、その肉眼で、汽車の細部までを記憶することにした。

 「その蒸気機関車なんだけど、型番が記されたプレートが無かったみたいなの。だからこの汽車を、雑誌の編集者は、“無番汽車むばんきしゃ”って名付けたんだけど、この汽車の驚くべきところは、そこだけじゃないんだよ」

 リクは続ける。

「線路の無い、海の上に停車してたの! しかも、その汽車、 ポー と汽笛をもう一回鳴らすと、画家がまばたきしているうちに、もう消えちゃってたんだって! 」

「まさか! 」

 その話を聞いて、ウスイは信じられないという風に、首を横に振った。その反応に、リクもうなずいた。

「信じられないよね。でもね、この“無番汽車”なんだけど、編集者の調べによると、他の目撃情報もあるみたいなの」と言って、リクはまた、バックパックを引っ掻き回し始めた。

「その目撃情報なんだけど、海外でのものなんだよね。日本では、その画家の、それだけ──」

 リクはそう言いながら、雑誌の横に、バックパックから取り出した、自身のラップトップを乗せた。その天板は、UFOやら典型的な宇宙人やら、彼女の愛読雑誌が発行しているオリジナルステッカーで、ゴテゴテに飾り付けられていた。

 リクはそのラップトップを開き、踊る様な手つきで画面にメモを映した。

「情報源が素人だし、編集者の言葉を鵜呑うのみにする訳にもいかないでしょ? だから私で、編集者の言う“世界中の目撃情報”っていうのを調べてみたんだけど──」

 ウスイはまぶしい画面に目を細めた。そこには、様々な国の文字と、その下に──リクがつけたのであろう──不自然な日本語の翻訳が並んでいた。どれも“無番汽車”の目撃情報について書かれた記事であった。

「いちばん上のが北アメリカのオカルト雑誌に載っていたもの、2番目が韓国のオカルト掲示板に書かれていたもの、3番目がアイルランド人の日記に記されていたもの、次がロシア、インド、フランス……」

 リクはそう言って、画面をスクロールさせていく。ウスイは滑っていく文字を、必死に追って、言った。

「いろんなところで、見られている訳だな」

「そうなんだよね。でもね、これ、よく見て欲しいのが──」

 リクはまた、メモのいちばん上のページまで戻ると、記事のいちばん後ろに記された、日付を指差した。

「ひとつめのアメリカの記事が1998年のもの、ふたつめの韓国の記事はつい2、3日前ので、3つめのアイルランド人の日記に至っては、16世紀に書かれたものなの! ねえ、これって不思議じゃない? 」

 しかもウスイが読む限り、これらの目撃情報と、今回の月刊オカルトマガジンのコラムに寄せられた目撃情報に書かれていた蒸気機関車の特徴は、全て一致していた。つまり、全て同じ“無番汽車”であることが分かった。

「確かに不思議だ──しかし、ひとつの汽車が何世紀も何世紀も、走るなんて。信じられない! 」

 ウスイは老眼鏡を再び目の位置に戻しながら、そう言ってうなった。

「そう、だから──! 」

 リクは パタリ とラップトップを閉じて言った。

「私、これを自由研究の題材にしようと思う! この汽車のひみつを暴いてやる! 」

「は、はあ……」

 目をキラキラと輝かせるリクに、ウスイは小さな声で相槌を打った。

「こうしちゃいられない! 」

 リクはラップトップをバックパックに詰め込み背中に担ぐと、オカルトマガジンを小脇に抱えた。

「おじちゃん! 」

「ん? 」

「ありがとう。やっぱり、困ったらおじちゃんに相談するのがいちばんだね! 」

 リクはそう言って、店の出入り口に駆けて行った。店の前に止めてあった自転車のスタンドを蹴り上げると、ウスイが確認できるところまでバックしてきて、手を振った。

「つぎに来る時は、とびっきりの研究成果持ってくるから! また絶対に来るから! 」

 そういって、炎天下の中、走り出して行った。

 ウスイは少女の姿が見えなくなっても尚、しばらく手を振っていたが、いよいよ手が疲れると、いつも通りの、不愛想な店主に戻った。


 ウスイの住処すみかは店の2階にある。10年前まで最愛の妻と暮らしていた、狭い狭いオアシスである。綺麗好きだった彼であったが、妻に先立たれてからというもの、すっかり魔窟まくつと化してしまった。まるで彼女の存在を埋めるかの様に、1Kの家の至る所に、食べ終えたコンビニ弁当のパックと、読み終えた本が、山積みになっていた。

 ウスイはもう何ヶ月も干していない布団に潜り込み、暗い天井を眺めた。

あと何度、明日が約束された夜を、こうして過ごすことができるのだろうか。思えば人生なんて、とんでもなく短かった気がする。

 新刊書店雨蛙は、もう何年も、新刊を仕入れていない。仕入れられないのだ。そんな彼が唯一仕入れるのが、『月刊オカルトマガジン』だ。他の書籍の仕入れを停止させている彼だが、その雑誌だけは、出版社に頼み込み、毎月彼の自腹を切って、入れて貰っている。

「あの子は、つぎは、いつ来るだろうか」

 ウスイは天井に話し掛けた。

「あの子の、楽しい話が、また聞きたい」

そのまま、目を閉じようとした、その時だった。

 店の戸が叩かれた。

 最初は風のいたずらかと思ったが、そうではないらしい。窓の外から、男女の叫ぶ声が聞こえてきたからだ。

 ウスイはそっと布団から出ると、こっそり窓から外を見下ろした。

 店の戸を叩いていたのは、黒縁の眼鏡に茶色のカーディガン、ジーンズを履いた細身の男と、濃藍色こいあいいろのワンピースに、白い肩掛けを左手で握りしめた、同じく細身の女だった。どちらとも、30代後半くらいだと思われるが、暗闇のせいか、どこかやつれて、もっと年老いて見えた。

 乱暴者らんぼうものや物取りとは思えなかったため、ウスイは窓を開けることにした。

「どうなされました。夜中ですぞ」

 ウスイが冷たい声を掛けると、男女は彼を見上げた。そして目を輝かせた。

「うちの、うちの子知りませんか! 」


 ウスイは男女を店の中に通した。

 男女は自らを、“リクの両親”だと名乗った。

「リクちゃんが、どうかされましたかな」

 ウスイが聞くと、父親の方が、カウンターに身を乗り出した。この仕草、あの子に似ている。そう爺さんは思った。

「そちらにいますか! 」

 父親が大きな声で聞いてきた。

「いや……おりませんが──」

 ウスイはそう答えながら、自分の心臓がバクバクと激しく脈打つ音を聞いた。嫌な予感がそこをかすめたのだ。

「あの、あの子がどうしたのです? 」

 思わず、声が震えた。が、震えているのは母親も同じな様で、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。しかし彼女は口を開いた。

「リクが、見当たらないんです……私らが仕事から戻ったら、いなくって、それで、しばらく待っていたのですが、全然帰ってこなくって、こんな時間に……」

 そしてふたりは、リクが良く通っているこの店に来たのだと言う。

 ウスイは首をかしげた。

「何故真っ先にうちへ? お友達の家かも知れないのに」

「あの子には友達がいないんです! ひとりも! 」

 ウスイの言葉に、母親が大声で訴えた。

「いじめられては いないのですが、あの子はちょっと変わっていて、唯一お話ができるのが、あなたなのだと言っていましたので──」

 だから と、母親は言って、溜息を吐いた。どこに行っちゃったのだろう、あの子。そう言ってまた、メソメソと泣き始めた。

 リクに友人がいないことは、ウスイも知っていた。いつの日か、あの子本人が、そう打ち明けてきたのだ。「同い年の子たちとは話が合わないの」と。「でも、おじちゃんがいるから、つまらなくない」と、あの子はそう言って笑っていた。

 ウスイは、そんなあの子によく似た顔の母親に、自分の椅子を勧めると、あの子の様に落ち着きを知らない父親に向かった。

「警察には、通報しましたかな? 」

「あっ……」

「私の電話を貸しますから、早く通報しなさい。私にも話せることがあるかも知れませんから、一緒に家についていきます。さあ早く」

 ウスイの指示に、父親は脚をこんがらかせながら、店の奥に走って行った。

「扉のすぐ右だ! 」

 ウスイは低くしわがれた声を父親の背中にぶつけると、安楽椅子でうずくまっている、母親の顔をのぞき込んだ。

 いつもなら笑顔が美しいのであろうその女性は、顔中を涙や鼻水で ベトベト に濡らし、幾度となく、か細い嗚咽おえつらしていた。

「今日は、あの子と、隣町のお祭りに行く約束をしていたんです。あの子って、屋台のやきそばがすごく好きで……それで、食べに行きたいって言うので、仕事を、早く上がらせてもらって……」

 うっうっうっ と、彼女は涙の粒を3つ、ほおに流した。

「車も飛ばして、帰って来たんです……本当は悪いことですけど」

 ジュルル と、彼女は鼻水をすすった。

「でも帰ったら、リクはいなかったんです……! 」

 わっと、彼女は両手で顔を抑えてしまった。

 ウスイはその場にしゃがみ込んで、母親の膝に右手を添えた。その手で、赤子をなだめる様に、トントンと、静かに打った。

「そんなに落ち込みなさるな。あの子なら大丈夫。あの子は賢い子だ」

 それは、自分にも言い聞かせている言葉であった。


 リクの家の前には、白い箱を背負った自転車が止まっていた。

 リクの部屋で、リクの両親、ウスイ、そして若いお巡りが、顔を突き合わせ、立っていた。

「今まで家出をした経験は? 」と尋ねるお巡りに、リクの父親は、「ありません」ときっぱり答えた。

「それじゃあ、そのう、いつもと違っていたことって、ありますか」と頼りなく聞くお巡りに、リクの母親は丁寧に答えた。

「あの、あの子が出掛けたにしては、変なことがあるんです。あの子、ノートパソコンを置いて行ってるんです。いつもならリュックに入れて、片時も離さずに持ち歩いているのに、リュックも、パソコンも、全部 部屋の中にあるんです」

 母親は、リクの勉強机に乗ったラップトップを指して言った。その画面には、動画サイトの再生ページが表示されていた。

「あの子、この動画を見ていたと思うんです。だって、私があの子の部屋に入った時に、この動画が再生されていたんですから! “アカメ”っていう動画投稿者のものなんですが、なんていうか、そのう──」

 そこで母親はさらに声を小さくして、「オカルトの」と付け足した。

「それで あの子、この、アカメって人のファンだったんです。でも、この人、もう何年も前に活動を休止してしまっていて。あの子、その時は、何日も悲しんでいたのですけど」

でも今では新たに、お気に入りの動画投稿者を見つけており、最近では、アカメの名前も聞かなかったのだと言う。だとすると、今更どうして、リクは、彼の動画を見ていたのだろうか。

 ウスイはそこまで聞いて、ハッとした。

「奥さん、その動画、今見れますかな? 」

「え、ええ、たぶん──」

 興奮した様子のウスイに、母親は驚きつつも、動画の再生ボタンを押した。

 待機カーソルが1周2周して、動画が再生された。白い背景の真ん中に、キツネの面を被った青年の姿が、こちらを見つめて座っていた。

「これが、アカメか」

「はい」

 狐の面の青年“アカメ”は、10秒の沈黙の後、ゆっくり、話し始めた。


『こんにちは、アカメです。いつも動画をご覧いただき、ありがとうございます。今日は皆様に、お知らせしなければならないことがございます。わたくしアカメは、本動画をもちまして、活動を、一時休止させていただくことになりました──』


ウスイは動画の投稿日を見て、目を見開いた。

「2年前の4月6日……まさか──! 」

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