第三話 下山開始
朝食を食べ終わってから山小屋を出るまでに、恐らく一刻も掛からなかった。
如何せん、アセラは服以外のまともな所持物がなく、殆ど現地調達の予定。ヘレナはその大雑把で自由奔放な性格から、物を運ぶのが嫌いだ。金を使うことを除けば、彼女は生身一つで何処へでも行ける。
よって荷物整理などというものとは無縁で、彼らはむしろ一刻の大半を、世話になったゴッセルの小屋のために尽くした。アセラがゴッセルを手伝って家事を済ませる間、ヘレナは外で周囲一帯の落ち葉を集め、薪を拾う。そんなことをしている間に、気付けば一刻が経過していた。
「本当に、お世話になりました、ゴッセルさん」
「礼には及ばんよ、アセラ。困ったらまたいつでも来なさい。それとその首飾り、失くすんじゃないよ」
「命に代えてでも守ります」
今は亡き
「それじゃまたいつかな、爺さん」
「そのいつかには儂はもうくたばってるかもしれんがの。儂はまだ人間なんじゃ。其方と違ってな」
「はっ、私だって人間さ。ただまぁ確かに、純粋に
一方のゴッセルとヘレナの別れはさっぱりしたものだ。恐らくこれまでにも何度も、こんな経験をしてきているのだろう。もうお互いに慣れきったような顔で、やや不謹慎な軽口を叩いている。
「んじゃ、いくか、アセラ。ここともおさらばだ」
「分かりました。またいつか、お会いできますように」
「待っておるぞ」
そうして彼らは、世界で最も太陽に近い場所から、下山を始めた。
*
「ところで、師匠。そんな服、持ってたんですか?」
下山を開始して、そろそろ一刻。山頂の空のさらに上から輝く太陽の光が、美しい紅の葉を茂らせた樹々に舞い降り、木の葉を貫いて森林に光の樹海を重ね描く。下山を始めた頃から、もうずっとこの調子だ。費やした時間に対して、下山している実感は全くと言っていいほど湧かなかった。
降り積もる木の葉を蹴散らして、二人が全力疾走で駆け下りているにも関わらず、である。
「ん、あぁ、これか?」
全力疾走しながらにしてはのんびりとした口調だが、この程度の芸当はヘレナにとっては呼吸をする以上に容易いことであるし、アセラにとっても苦ではない。彼らの会話がこうも気が抜けているのは、ある意味当然のことだった。
返事をしたヘレナは、随分と服装が違う。これまではいつ見ても漆黒の上下に黒の外套だったのに、今は飴色の半袖シャツに七分丈、両手足には鈍色の手甲脚絆を付けている。トレードマークの黒の外套も、今は羽織っていなかった。
何より、いつも固定具もなしに何故か背面に背負われていたかの〈錨刀〉が、ごく普通の革製の大剣ホルダーに収まってしまっているのだ。
「そういや、言ってなかったな。流石の私も、いつでも〈錨刀の抜刀者〉として動いてるわけじゃない。そういう力を開放するのは、ほんとに必要な時だけさ。それ以外の時にこの
ヘレナにそう言われて、アセラは深く得心した。よく考えれば確かに、当たり前のことだ。
〈錨刀の抜刀者〉は、物語の時代の英雄たる〈神抗の王〉が一人、〈錨刀〉の一族が冠する称号。神と人間が入り混じった
それは神話と物語を読んで育つ現代の人々にとって、生きる伝説に他ならない。そんな
「今の私は女傭兵、〈剛腕の女傑〉ヘレナさ。服もそれ相応のもんに改変してるし、〈錨刀〉も今はただの大剣だ。それなりに名は上げてるが、まぁ派手なことは出来ないと思ってくれ」
尤も彼女の言う派手とは、単独で一個師団を相手取るとか、単騎で〈神級〉堕獣を討伐するとかそういうことなのだが、それを額面通りに受け取ったアセラは、師匠に頼りすぎてはいけないと再び決意を固めた。
「では、僕はどう呼べば?」
「いつも通り師匠で構わない。あと、そうだな……アセラ、お前はこれから〈女傑の弟子〉を名乗れ」
「僕も
〈山小屋の少年〉なんて、何の変哲もない
「〈山小屋の少年〉なんて、適当すぎて逆に怪しい。どうせ私の弟子だ、そう名乗っても間違いじゃないさ」
「分かりました。新しい
とはいえ
「よし、そうと決まればさっさと降り切っちまおう。太陽が裏返る頃には、〈
「了解です」
そう言うが早いか、二人の速度がぐんと加速する。
山林を緩やかに流れる秋の風を、二つの影が旋風を巻き起こして斬り刻んだ。
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