第二章 陽光山の麓

第一話 早朝訓練

 爽籟の十一月らしい清らかで涼しい秋の風が、山肌に整然と並んだ樹々の間を、爽やかに駆け抜ける。美しいくれないに染まった紅葉が、風の鳴き声に呼応するように秋の音色を奏でる。

 そんな〈陽光山〉の中腹、小さな広場のように少し開けた場所に、二つの人影があった。


 一つは、少し小柄な黒髪の少年のもの。薄茶のシャツに七分丈のズボン、腰には短剣の鞘を結んだ革製のベルトを身に付け、やや中腰で右手を短剣の柄に重ねている。

 もう一つは、すらりと背の高い女性のもの。こちらは全身を黒の長袖で覆い、その上に薄手の外套を羽織っている。そして背中には、その背丈ほどもある錨型の大剣が背負われていた。


「それじゃあ、始めるぞ。目標の数は五十、範囲はここら森林一帯。目標を何らかの方法で充分に傷付ければ撃破とする。制限時間無し、時間計測式タイムアタックだ。用意は良いか?」

「はい」


 女性のテンポの良い説明に、少年は僅かの緊張を孕んだ声で返事を返す。それは決して行動を阻害する極度の緊張ではなく、これからの訓練に集中した結果の、柔らかで心地良い緊張だった。

 その声を聞いて女性も、左の口角をニヤリと引き上げる。


「良い返事だ。それじゃあ、始めよう」


 そういって女性は、右手に握られた小さな布袋を、予備動作無しで投擲した。投擲された布袋は視線を振り切って空を飛来し、適度な距離の木の枝元に当たる。ボフンという音を立てて、白い粉が白亜の枝に付いた。



 瞬間、少年が地面を蹴飛ばす。



 土煙はほんの少ししか上がらなかったが、少年の身体は不自然なほどに加速した。その速度は空から獲物を狩る猛禽類を彷彿とさせ、すぐさま風を置き去りにする。


 そうして加速した勢いを乗せて、少年は地面を蹴って飛び上がった。少年の背丈の数倍はある木の枝に、少年の身体が一直線に肉薄する。


 そして、焔色の弧が空に描き出される。


 少年の右手が抜き放った短剣が白い粉のついた枝を一閃し、幾つかの紅葉と共に彼方へと吹き飛ばす。その枝が地面に落下するより早く、少年は空中から短剣を投擲した。

 短剣は虚空を切り裂くようにして飛び、に綺麗に突き刺さる。


 それと同時に少年は、右脚で木の幹を蹴り飛ばした。慣性にまかせて宙に留まることなく、素早く切り返して地面へと舞い降りる。

 勢いを殺すために地面に転がり、立ち上がったと思った矢先、右手が再び鋭く閃いた。小石が先程の短剣と同じように宙を舞い、一見見当違いの方向へと飛んでいく。

 少年は地面に転がった時に、地面の小石を拾い上げていたのだ。但しそれは、空気抵抗で減速して若干の放物線を描き始めたその瞬間に、やはり白い粉の降りかかった木の枝を叩き折った。


 小石を投げたのとは別方向に、少年は素早く走り出した。スタートした地点から反時計回りに渦を描くように、森林を駆ける。

 適度な距離で樹々が生い茂る森林を縫って走りながら、先程同様に小石を投げて白い粉の付いた木を弾く。本人も本人で、近い木には素早く駆け寄って手刀や掌底を叩き込み、木繊維と白い粉を、時に紅葉も巻き込んで散らせた。


 そうやって走りながら、少年は次々に目標を撃破する。描く円は段々と大きくなり、目標を潰す速度は少しずつ遅くなり、そして少年の速度はみるみる加速する。

 やがて少年が最後の小石を投擲した瞬間、彼は投げ付けた短剣の突き刺さった木に到達した。


 走り出した時と同じく不自然に減速して、少年はぴたりと木の幹の側で止まる。少年は刹那の間その場で停止したが、急に少しだけ両目を見開いた。と同時に素早く右手で木の幹から短剣を引き抜き、流れるような動作で再び投擲する。

 短剣は最初と全く変わらずに虚空を走り……


 始めた場所で仁王立ちになったままの女性の、右の脛に突き刺さった。


「七分十四秒。新記録だな」


 短剣はかなりの速度で彼女の脛に深く突き刺さったが、女性は僅かにも気にした素振りは見せない。投げた少年の方も全く悪いとは思っていないようで、風のように戻ってきては女性に文句を言う。


「目標をつけるところに文句は言いませんけど、目標の〈意志〉を書き換えるのは狡くないですか?」

「目標を改変しないとは一度も言ったことがないぞ。むしろ全部改変してやろうかと思ったぐらいだ」


 女性が無造作に短剣を脛から抜き、少年へと投げ返す。少年は危なげなくそれを受け取り、刃に付いた木屑を軽く払ってから鞘へと戻した。なお、女性の黒服にも、少年の短剣にも、血液が付着した様子はない。


「そんなことをされれば幾ら僕でも気付きますよ。尤も、対処出来たかと言われればあまり自信はないですが…」

「まぁ、そこはこれからも訓練だな。焦らずいこう、アセラ」

「駄洒落なら酷い出来ですね、師匠」

「はっ、私相手に言うようになったねぇ!」


 そう言って女性は豪快に、少年の背中を叩く。バチンッ!と心地良い音が鳴って、少年が前につんのめった。思わず睨み返した少年を見て、女性は満足そうに笑う。

 そのまま二人は、談笑しながら樹々に包まれた山肌を登り始めた。

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