第12話 砂の城

 私の職場に急な連絡が回ってきた。


 ちょうど出張に出るところだったのを上司に止められ、ほぼ強引に談話室に連れていかれた。


 俺もよく分からないが、相手の方がとにかく急いでくれとしか言わないから、と部屋の前で言われて中に通された。


 部屋にいたのは以前京弥さんに彼の同僚だと紹介された男性で、何処か忙しなさそうに指を絡めたり組んだりしていた。


「お仕事中すみません、今藤さん」


 私に気付いた相手は慌てたように立ち上がった。


「取り敢えず来てください!事情は車で説明しますから」


「え、でも私これから出張で…」


 あまりに急なことなので困惑して上司の方を振り返ると、俺が何とかしておくから行ってこい、と急かされた。


 *


 まだはっきりしない頭の中で、だけが輪郭を取り戻していく。


 車の中まで照りつけてくる太陽の暑さとは裏腹に、悪寒のような寒気だけが私の周りに纏わりつく。


 べったりとしていて、吐き気がしそうだ。


 渡されたペットボトルの水を口に含むと、幾らかマシになったけれど。


「大丈夫ですか、顔真っ青ですけど」


 大丈夫…ではないか、と苦笑して、彼は車を走らせる。


「急だったのでびっくりしました…」


 そう言うと彼は依然平坦とした様子で、はい、とだけ答えた。


 彼のサバサバした感じは嫌な感じがしない。寧ろこの状況で私が辛うじて痛みを耐えるための鎮痛剤のような役割を担っている。


「…僕、平気そうに見えますか」


 突然の質問に、え、と短く声を発すと彼は苦笑した。


「いや…後輩に言われたんですよ。同僚が倒れたのに…と」


「そう…だったんですね」


 反応に困ってしまい、手の中のペットボトルを見つめて黙ってしまうと、彼は何かを察したように開きかけた口を噤んだ。


 病院に着くまでの時間がとてつもなく長く感じる。


 波が押し寄せては引いていくように、鼓動が早くなたり遅くなったりと不規則なリズムで拍を重ねていく。


「何故…私を呼んだんですか?」


 それは…と彼は口籠もり、少し間を開けて続けた。


「鈴峰が倒れた時に…今藤さんの名前を呼んだから」


 彼の口調からも態度からも、私は納得がいかなかった。それだけでは仕事中の私を呼ぶ理由にはならない。


「何処まで知っていて、何を知らないんですか、私は」


「すみません…」


 その一言を吐き捨てるように言ってから、彼はきゅっと口を引き結んだ。


 そうしているうちに病院についてしまい、彼は少し私と距離を取りながら受付を澄まして彼のいる病室に案内した。


「僕は、外で待ってますから。何かあったら呼んでください」


 少し素っ気ない態度の彼は、目を伏せて廊下の壁に寄り掛かった。私は小さく扉をノックして、ゆっくりと、扉を横に引いた。


「砂川か…?」


 天井を見つめたまま、彼が弱々しい声で問いかけた。私は返事もできずに、暫く扉の前に立った。声が出ない。認めたくないことを、今、この場で認めざるを得なくなることが怖かった。


「砂川…?」


 ゆっくりと首を動かした彼の表情が固まっていく。


「華…、何で君がここに」


 ぶぶ、と振動したスマホを見て、彼は溜息をついた。


「あいつか…」


 小さく頷くと、彼は小さく笑みを浮かべて──彼なりにそうしたようだった──私を見た。


「仕事中なのに、すまなかった」


 棒読みのような声が、小さな針に変わって私の心臓にチクリチクリと小さな傷跡をつけていく。途端に不安に襲われて、私は彼の元に駆け寄った。手を握ろうとして、直前でやめた。恐る恐る、触れてみる。思っていたよりも冷たくて、私は反射的に手を引っ込めた。同時に、涙が溢れてスカートに染みを作る。

 何故だろう。どうして、こんなにも心が痛むのだろう。混乱していてわからない。もう一度、両手で彼の手を包み込んだ。


「教えて…教えて、ください。京弥さん」


 彼の顔が見たいのに、怖くて見られない。自分の手で包み込んだ彼の手を見つめながら、私は震えていた。


「私は、貴方の何を知らないの」


 彼の指が小さく動いて、私は顔を上げた。困ったように笑う彼と目が合う。


「ごめん…君を泣かせないために、話さなかったのに…」


 一度、天井を見つめて、彼は目をつぶった。


「私のこと、嫌いになってしまったかい?」


 縋るような目線を感じる。


 ──答え?…わからない。わからない?嫌い?嫌いじゃない。でも…。


 そっと彼の手から自分の手を離す。


 ──好きと言える理由が、見つからない…見つから…ない。見つけたくない?そうなの?


 答えのないまま、次の問いが降ってくる。重なる声の中から、私は答えを導き出した。


「なりませんよ、嫌いになんて」


 嫌いになんて、なれない。なれるはずがない。


「ありがとう」


「うん…」


 何処からそんな自信が出てくるのか、自分でもわからなかったけれど。小さく微笑みを零して、頬に触れた彼の手に、そっと唇を落とした。


 波打ち際から、少し離れた場所に造った砂の城。壊れないように、手で固めて、固めて。

 ———その場所が、満ち潮で崩されてしまうとも知らずに。


 *


「本当ですか!良かった…」


 それじゃあまた、と弾んだ声で電話を切る。


「どしたの、華、めっちゃご機嫌じゃん」


 一緒にランチに来ていた祐ちゃんが、水の入ったグラスを片手に目を細めた。


「これは…鈴峰さん関係だな?」


 わかっちゃう?と問うと、彼女は羨ましそうに大きく頷いた。


「わかるよ、そりゃさ。華の顔見たらね」


「え、そんな顔に出てた?」


「…ま、親友だからわかるのよ」


 変な間を開けて彼女が答え、食べかけのデザートにスプーンを運ぶ。


「で、どうなの?」


 問い返すと、彼、退院するんでしょう?と聞かれた。


「え…まぁ…」


「手料理でも作ってあげたら?彼、きっと喜ぶと思うけど」


「退院してすぐだし…そっとしておいた方が…」


 それはないでしょ、恋人なんだし、と言って、彼女は惜しそうにゼリーの最後の一口をスプーンですくった。


 深く考えない方がいいよ、と佑ちゃんは言いながら大きく息を吐いた。


 *


 京弥さんが退院する日、私は定時で上がらせてもらい、事前に考えておいた料理を作りにかかった。


 彼は、和食より洋食派で、さっぱりとしたものを好む。


 野菜のゼリー寄せを作りながら、鼻歌を歌う。包丁がそれに合わせて動くいて、トントンと軽い音を奏でる。ゼリー寄せを冷やしている間に、低温でじっくりと焼いた牛肉を盛り付け、塩茹でしたブロッコリーを添えた。スープもちょうど良く出来上がって、マッシュポテトは湯気を立てながら、金色のバターの筋を頂上から滴らせている。


 完璧だ、と私は得意げに一人部屋で笑みを浮かべた。木のテーブルに、綺麗に見えるようにお皿を並べる。ぽた、ぽた、とティーポットの中の蒸気が凝固して蓋から落ちる音がする。


 しんとした空気の中で、部屋を見渡す。物足りなさに気が付いて、私は慌ててベランダに水切りしてある花を取りに行った。いつもの白い花瓶にプルンバゴと霞草を生けた。


 テーブルに置こうとした瞬間、スマホがメールの着信音を鳴らした。ふわりと紅茶の香りが漂う。高揚感を胸に、私は高揚感を胸に、スマホを手に取った。


「良かった、ちょうど——」


 言葉が出なかった。あの時のように、喉奥で止まって、出てこなかった。画面に映る私の表情が、みるみるひび割れていく。ガラガラと崩れる音がする。


 は、あまりにも呆気なかった。

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