第10話 新たな一歩
忙しかった仕事もひと段落し、
「君と休みがかぶる日があってよかったよ。この時期は忙しいから」
「お休みもらいにくい雰囲気ですからね…」
この時期の職場は戦場と化していて、仕事が次から次へと雨のように降り注いでくる。
「それにしても電車の中人多かったですね…」
いつもぎゅうぎゅうだけど…と漏らすと、彼は笑いながら前に並ぶ高校生カップルを見ながら羨ましそうに微笑む。
「学生は夏休みだからね。ほら、若い子が多い…」
その目は繋がれた手に注がれている。
「繋ぎたいなら、そう言ってくれればいいのに…」
小さな声で呟くと、彼はたちまち顔を真っ赤にした。
「まったく…君は…」
そう言いながらも、遠慮がちに私の手に触れてくるところは、本当に可愛いと思う。
「楽しみですね、水族館」
「ほんとにな…。それに、君と行けるのがすごく嬉しい…」
ぽわ、と身体の内側から熱が流れてくる。熱くなった頬を冷ますようにして手で仰いだ。
「水、いる?」
クスッと笑って、鞄から取り出したペットボトルを渡してくれる。受け取ったペットボトルを頬に当てる。ひんやりとした感触が気持ちいい。
「…華さん…華、行こう?」
「ごめんなさい、ぼーっとしてた」
呼ばれたから行こう、と言って手を引っ張られる。
「大人二枚で」
チケット売り場のスタッフが羨ましそうに少し目を細める。
「カップルチケットというものがございますが、どうされますか?」
少しお安くなりますよ、と彼女が付け加える。
「あ、じゃあ、それで」
私は耳まで熱くなって俯いた。
「知らなかったよ、ペアチケットがあったなんて」
二組になったチケットの片方を渡しながら彼がこちらを見て笑い始めた。
「ちょっ…と、笑いすぎですよ…」
「ごめん、君があまりにも顔を赤くするから」
謝りながら私を撫でながらもまだ笑っている。
「だって…カップル…って」
声が小さくなって途切れてしまう。
「君はいつになったら慣れてくれるのかな」
手の平をピタリと合わせられ、指を絡められる。手からじんわりと熱が伝わってくる。冷房の効いた館内で、手と顔だけが熱を帯びる。
「行こうか。暗いから、足元に気をつけて」
暗闇の中に水槽が浮き上がるように展示されている。
海月が丸い水槽の中でふわふわと浮かぶようにして漂っている。海月の主成分は殆どが水だという。ゼラチン質の身体はとてもデリケートで、少しの傷でも命を落としかねない。
多くの危険が潜む自然界とは違い、この海月たちは危険を知らない。荒れ狂う波も、異常気象も、背後から迫り来る危険も知ることなく、この水槽の中で一生を終えるのだろう。
それがどんなに恐ろしいことなのか、知ることもなく。
自分でも恐ろしくなる程に見入っていた水槽から顔を離す。
「綺麗…ですね」
「その綺麗さの中に、何が詰まっているんだろうな」
彼も、同じことを考えたのだろうか。
寂しさを纏う彼の横顔を見つめていると目が合って、彼は一瞬だけ、不器用な笑顔を見せた。
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