回帰

笑子

かえる場所

 雑踏と喧騒の中、充電が切れただの箱と化したスマートフォンからイヤホンを乱雑に引っこ抜いた。今の今まで私の鼓膜を占領していた音楽は消え去り、煩わしい人の声が勝手に耳へ飛び込んでくる。微かにだが、眉間に皺が寄っているのが自分でもわかった。

 都会は良い。素晴らしく便利だ。駅のすぐ側にある大きなバスターミナルでバスを待ちながらそう思う。バスだけでなく電車も、一本や二本そこら逃してしまったところでさほど到着時刻に変わりはないし、運賃も破格だ。コンビニまで往復二十分の道のりを歩く必要もなければ、車が無くて不便だなんてことは無い。大概のアーティストのライブだったり、何かのイベントなんかも、電車で一時間もあれば行くことのできる距離で行われる。仕事の数も多い。都会には様々なチャンスが多くあって、そして環境にも恵まれている。けれど、帰りたい。自然とそう思った。

 バスがターミナルに到着する。じわりと首筋にかいた汗が、効きすぎなぐらい冷えたクーラーの風で乾いていく。私の後ろからもどんどん乗客がやってきて、すぐに席は埋まった。疲れきったサラリーマンとOL、買い物帰りの疲れを知らない若いカップル、着物のおばあちゃん、作業服のツナギを着た中年男性、ド派手な髪の色をした細くて化粧の濃い姉ちゃん。

 窓の外を見る。ただの箱はとうの昔に鞄の底へしまい込んでしまって、やることも無い。「発車しまぁす、おつかまりください」とやる気のあるのかないのか分からない、聞き取りづらい声で車掌が言う。大きな道路を、悠々と走る。この土地に移り住んで十ヶ月、竹林のようにビルが建ち並ぶこの景色を、未だ見慣れることは無い。

 地元じゃこうはいかなかった。そもそも中央線すら引かれてはいなかったのだから。バスとバスがすれ違うことすら出来ないような急な坂道を、乗用車とバスと歩行者と自転車がそれぞれの勝手で歩き走り去っていくような、そんな所だった。

 少々荒めな運転で、一つ二つとバス停を通り過ぎていく。最寄りのバス停に到着し、バスを降りた。バス停の目の前には毎日通る公園がある。木々が生い茂り、遊具があって、ボール遊びも出来るような公園なのに、子供は一人も見当たらない。蝉の声だけが鳴り響いて、虚しい。この暑さだから仕方ないのかもしれない。Tシャツの胸元をパタパタさせながら、家路を急ぐ。吸い込む空気が重苦しくて、暑さが助長されている気がした。

 地元の暑さを思い出す。夏場は酷く蒸して、風も無く、じっとりとした汗をかくのだ。太陽も、容赦なく照りつけた。けれど、空は抜けるような青色を湛えて、入道雲は絵の具で描いたようにハッキリと白く、木々の緑はどこまでも濃く、空気は一切の濁りを許さなかった。朝日は淡く美しく輝き、夕日はくっきりとしたオレンジ色を携えながら山々のあいだへと消えていった。夜は星がきらめいて、昼間よりも少しだけ冷えた風が体を通り過ぎる。歴史的建造物なんかがある以外、コンビニも遠ければ駅までも遠くて坂道の多い不便なところだったのに、今ではそれが酷く恋しくて、泣きたくなる。

 家に着き、乱暴に靴を蹴っ飛ばす。靴下も服も全て脱いで、ベッドに寝転んだ。家の裏手にある工場がガシャンと音を立てた。うるさい。慣れたはずなのに、そのうるささが私を苛立たせた。

 この私の状態は、所謂ホームシックというものなのだろうか。そうだとしたら、子供のようだと思いつつも、それでいいと開き直りたい気持ちもあった。

 きっと私は、何年この土地に住んだとしても、あの日々の光景を忘れることは無い。あの蒸した空気を、思わず笑ってしまうほど鮮やかな青と白のコントラストを、泣きたくなるほど懐かしくて寂しげな夕日を。

 地元を離れてこちらで暮らすと決めたのは紛れもなく私自身だ。彼と一緒に生きていくと誓った。仕事も辞めた。遠く離れた土地でも、彼と一緒に居られれば、耐えられると思った。

 間違いではない。恐らくもう暫くすれば慣れるはずだ。この景色、言葉、人々、様々なものに。

 暫く、とは、いつだろう。

 枕に顔を押し付けて叫んだ。あーだとかうーだとか、言葉にならない獣のような声をあげる。どうしようもなく泣きたくなる。全て私の中の問題で、彼に非は一つとしてなく、話しても無駄なことだと分かりきっているからこそ、こんなことを口には出さない。でもそれが渦のように私の中をぐるぐると巡って、雲になって、黒い雨が降っている。

 夕飯の支度をしなければならない。その前にとっ散らかした服も片付けなければ。明日は休みだから掃除機をかけて、トイレと風呂とシンクを綺麗にして、ああ、本当にめんどうくさい。

 母の顔が思い浮かんだ。めんどうだと口では言いながらも、テキパキと身の回りの家事をこなしていた母は、元気に過ごしているだろうか。たまの連絡も寄越さない娘に対して、何を思っているのだろうか。喜怒哀楽の激しかった母だが、そういう肝心なことは何も言わない人だった。

 帰りたい。でもそれを口に出すことはしない。口に出してしまったら、ここで生きていくと決めた覚悟も、一瞬のうちにドロドロに溶けてしまいそうだった。横に置いてあったクッションを抱き締めた。潰れてしまうだとかそんなことは気にもならなかった。強く強く抱き締めて、カブトムシの幼虫のように丸まって、心臓の違和感を無視した。

 このまま眠ってしまっても、彼は許してくれる。夕飯の準備をしていないぐらいで怒る人ではないし、呆れもしない。むしろ心配してくれるだろう。

 そこまで考えて、私は重く、地面へ沈み込んでしまいそうな体をようやく動かした。涙を堪え、歯を食いしばり、故郷の風景を思い浮かべ、冷蔵庫を開ける。浅くなる呼吸も、鼻水をすする音も、震える手も、見て見ぬふりをした。


 そしてまた、今日と同じ明日に帰るのだ。


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回帰 笑子 @ren1031

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