前回の紙の生産
ルイーサ・ヘルメス伯爵令嬢の付き添いの侍女が、執事ラース・ベンダーと借用書のやり取りを始める。
すると、戸を軽く叩く音が聞こえた。
エリージェ・ソードルが視線を向けると、侍女ミーナ・ウォールが応対するために扉を開いていた。
そして、一言二言やり取りをすると、書状を受け取り、女の方に歩いてくる。
そして、ルイーサ・ヘルメス伯爵令嬢を気にしつつ言った。
「お嬢様、”こちら”が届きました」
エリージェ・ソードルはそれを受け取ると、表紙を読む。
そして、ルイーサ・ヘルメス伯爵令嬢の方に顔を向けた。
ルイーサ・ヘルメス伯爵令嬢は視線が合うと、茶器を置き、静かに立ち上がった。
「エリー、わたしはお邪魔なようだから、クリスの所に行っているわ」
エリージェ・ソードルはそれに頷く。
「悪いわね。
ミーナ、案内をして上げて」
「畏まりました」
侍女ミーナ・ウォールの案内で、ルイーサ・ヘルメス伯爵令嬢とその付き添いが退室するのを眺めていた、従者ザンドラ・フクリュウが言う。
「聡い方ですね。
ただ、ヘルメス伯爵令嬢は当主というより、補佐としての方が才を発揮するお方だと思います」
「そうなの?
もう少し年齢が近ければ、弟君を当主にしても良いかもしれないけど……。
まだ、六つだから流石に幼すぎて無理ね」
女の言に、執事ラース・ベンダーが苦笑する。
「お嬢様を見ていると忘れがちですが、十歳でも十分に幼い部類に入りますよ」
エリージェ・ソードルはそんな執事に視線を向けながら、書状を振ってみせる。
「そんな話は良いわ。
今は”こちら”が重要なのよ」
従者ザンドラ・フクリュウが紙切り用小刀を女に差し出してきたのでそれを受け取り、丁寧に封を切った。
そして、その中を読み、一つため息をついた。
「シンホンの職人への勧誘は手こずっているようね」
執事ラース・ベンダーが訊ねてくる。
「シンホンの職人というと、例の紙作りの職人のことですか?」
「ええ、そうよ。
植物紙の生産にはどうしても彼らの助けが必要なのよ」
そこに、従者ザンドラ・フクリュウが口を挟む。
「お嬢様、お嬢様がシンホンの紙作りについてご存じだったのには驚きましたが、しかし、改良の当てはあるのですか?
従者ザンドラ・フクリュウの言うことはもっともであった。
シンホン紙は荒く、表面がザラザラとしていた。
彼の国では動物の毛などで作られた筆を使い、塗るように文字を書くのでそれでも良かったが、オールマ王国で使用されている万年筆や付け筆といった、先が尖ったものでは非常に書きにくかった。
だが、エリージェ・ソードルは手をひらひら振りながら「そのあたりは大丈夫なのよ」とあっさり言った。
そして、”前回”を思い出す。
――
”前回”の事だ。
十二才になった頃、エリージェ・ソードルは悩んでいた。
エリージェ式が公爵領内でだいぶ浸透してきたそれの為に、執務の効率はかなり良くはなっていたが、指示者に義務づけた指示書の為に、それに使用する紙の問題が表面化してきたのである。
紙には大きく分けて二種類存在する。
一つは羊皮紙である。
羊の皮をなめて作ったそれは、昔から使われていた。
使用する素材が素材だけに、手間暇がかかる上に高価となった。
二つ目はセヌ紙と呼ばれる紙である。
羊皮紙より値段が安いそれは、近年になり普及し始めていた。
原料は謎ではあったが、羊皮紙より薄く軽い。
貴族間の契約書などでは、見栄え的にも丈夫さ的にも使えないそれではあったが、場所を取らない事と経費削減のために執務上のちょっとした書類や平民が読む安価な書籍などで使われるようになっていた。
ソードル領でも、指示書を初めとする多くの場面で重宝されるようになっていた。
とはいえである。
羊皮紙よりは幾分安いとはいえ、紙が高価なのは間違いがないところであった。
需要と経費が雪だるま式に増えている現状、将来的に問題になるのでは?
この女は懸念していた。
更に言えば、その紙の生産国であるセヌが問題だった。
オールマ王国にとって軍国セヌは、コブレッゲンでの数多くの死闘を引き合いに出すまでもなく、因縁浅からぬ相手である。
オールマ人が”侵攻”という言葉を聞くと、真っ先に思い浮かぶ国と言われるほど、警戒する相手だった。
そんな国の紙を使用する前提で業務などが組まれ始めている。
もしそれが、何かのきっかけで止められたならと、祖父マテウス・ルマを始め、多くの重鎮が危惧していた。
その危機は恐らくすぐに来る事は無いだろう。
だが、紙の開発費用などを回収しきった後は、セヌがどのように動くか分からない。
自身が考え付いたエリージェ式が煽る結果となったセヌ紙問題、それによって苦しむのは、敬愛する母国、そして、次代の王である第一王子ルードリッヒ・ハイセルになるのだ。
そんなある日、エリージェ・ソードルはとある男と面談をしていた。
その名をジェローム・ビという。
極東の国シンホンからの移民を祖父に持つ男で、シンホン、ガラゴ、オールマを跨ぎ商いをする、新鋭の商人であった。
そんな彼が持ってきた物に、この女、目が釘付けとなった。
商人ジェローム・ビが持ってきた物は、タケノコを漬けたもので、シンチクという漬け物だった。
コリコリとした食感が酒のつまみに合うとの事で、近年ではオールマ王国の年輩貴族の間でちょっとした流行になっていた。
だが、女にとってそんな物はどうでも良かった。
女が凝視したのはシンチク、それが入っていた白色の陶器、それの緩衝材として使われていた物だった。
それこそが、シンホン紙である。
エリージェ・ソードルは突然降って湧いてきた紙の出現に色めき立ち、ぐちゃぐちゃに丸まったそれを引っ張り出すと、早速、商人ジェローム・ビを問いつめた。
そんな女に対して、この穏和を絵に描いたような中年の商人は、穏やかに微笑みながら説明をしてくれた。
それがシンホン紙という、麻という植物から作られた紙であること。
シンホンでは羊皮紙よりも一般的に使われているものであること。
前記で従者ザンドラ・フクリュウが述べた通り、万年筆などで使用するのは向いていないこと。
そして、”それでも”良ければ紹介できる職人がいることを――語った。
”元々”、その話をする予定だったかのように、話してくれた。
エリージェ・ソードルは話を聞き終えると、「我が領で紙を作るわ」と即、決断した。
下手をすると外交的弱点になりかねない紙問題、それを自国で作ることが出来れば万事が解決する。
むしろ、
更に言えば、ソードル領の新たなる産業とする事も出来る。
だから、エリージェ・ソードルは、のしかかる仕事を必死に捌きながら、紙作りを始めたのだ。
家令マサジ・モリタを初めとする配下や、祖父マテウス・ルマ、ルマ家騎士団長ウルフ・クリンスマンにまで心配され、次代に回すように進言されながらも、執務に研究に、動き続けた。
シンホンの職人を数人、家族ごと呼び寄せてた。
国王オリバーや他の貴族に研究の有用性を説き、人や資金を調達した。
ブルクに多額の資金を投じ、研究所を作った。
実験結果などの論文に全て目を通し、女自ら寝る間を惜しんで試しもした。
その甲斐もあって、女が十六になる頃にはセヌ紙に匹敵する紙が作成できるようになったのである。
――
この女は、幸か不幸か研究に携わっていた。
なので、シンホン紙をどう改造すれば良いかは、頭に入っていた。
しかし、なのだ。
「わたくし改善する方法は分かっていても、自分では紙なんて作れないのよ」
と、エリージェ・ソードルは苦笑する。
この女、エリージェ・ソードルは大貴族である。
貴族の中の貴族といって良い。
故に、当たり前の事ながら肉体労働をした事が無い。
した事が無いし、そんな事、思い付いた事も無い。
あえて言うならば、邪魔な
なので、紙の研究している時も、実験する時も、手を動かすのは職人で、この女では無い。
それが当たり前だったし、職人としても雇い主がむやみやたらと手を出して来る事など、望んでいなかった。
なので、”前回”はそれで正解だったのだが……。
実際に行っていないので、大まかな作業工程は分かっても、細かい内容までは頭に入っていない。
”今回”になった現在、改善方法が分かっても、職人がいないので作れないという状態になってしまったのだ。
「取りあえず、一人でもいればなんとかなるんだけど……」
とエリージェ・ソードルがぼやくように呟くと、従者ザンドラ・フクリュウが少し考える様子を見せた後、視線を向けてきた。
「お嬢様、ブルクに戻ったら知人に相談してもよろしいでしょうか?
確実に――とは言えばせんが、当てがありますので」
エリージェ・ソードルは閉じた扇子を口元に当てながら少し考える。
そして、言った。
「その当ては、ブルクの商人なのかしら?
それとも、別の町の者かしら?」
女の問いに、従者ザンドラ・フクリュウは不思議そうにしながらも答える。
「ブルクの商会です。
トーン商会ですが、ご存じないですか?」
「トーン商会?
……何処かで聞いた事があるような」
「ブルクではそれなりに有名な商会なので、お嬢様も何処かで耳にされていると思います。
従者ザンドラ・フクリュウの答えに、エリージェ・ソードルは頷いて見せた。
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