少女との初対面
「全く、お嬢様のお転婆にも困ったものです」
上の階で男の悲鳴や物が倒れ壊れる音が響いているが、全く気にする様子もなく、執事ラース・ベンダーは”幼い主”を窘める。
「人のお屋敷に勝手に入ってはいけませんよ」
それに対して、お嬢様――エリージェ・ソードルは「ごめんなさい」と抑揚のない声で返事をした。
上の方では「誰かぁ~! 誰かぁぁぁ!」という男の声が聞こえてくるが、その場にいるエリージェ・ソードルも、その護衛を含む使用人達も、男爵家の使用人達も、動かない。
まるで聞こえないかのような振る舞いだ。
執事ラース・ベンダーは視線を男爵家の執事に向けた。
「男爵家の方々にはご迷惑をおかけしております。
お嬢様を捜しに行った護衛の者がまだ、帰ってきませんので――」
ガラスが砕ける音と共に「痛い! 痛いぃぃぃ!」という叫び声が聞こえてきた。
だが、執事ラース・ベンダーは続ける。
「――もう少し、ここで待たせてもらいます」
「は、はい」
その場にいる男爵家の使用人も、護衛の騎士も動かない。
上の階で、間接的とはいえ自身の主が暴行を受けているにも関わらず、動かない。
元々、ラインハルト・マガド男爵を軽蔑していた事もある。
だがそれだけではないのだ。
男爵家と公爵家の身分差だ。
ラインハルト・マガド男爵が平民の女をいたぶることが罰せられる事がないのと同じく、公爵家が男爵家をどれほどいたぶっても、ほとんど問題にされることはない。
こと、オールマ王国ではそれが、”常識”であった。
まして今、ラインハルト・マガド男爵をいたぶっているのは、ただのソードル公爵家使用人ではない。
レーマー子爵家令嬢である。
要するに、自分の主より高き人物の親族なのである。
一介の平民執事がどうこう出来る次元の話ではなかった。
やれることと言えば、吹き荒れる嵐の中、木陰で小さくなる小動物のように、早く帰ってくれることを祈るだけであった。
「お母さん!」
落ち着き無く二階を見上げていた女の子が、突然走り出した。
そして、階段を駆け上がると怯えたように立ち尽くしていた女性に抱きついた。
その女性の衣服は粗末な上、胸元が裂かれており、エリージェ・ソードルは彼女が被害者なのだと理解した。
ただ、勿論哀れみ等の感情は湧いては来ない。
一つの仕事がそろそろ終わりだろうぐらいの心持ちで、執事ラース・ベンダーに指示を出して、女騎士ジェシー・レーマーを呼び戻そうとした。
その時である。
「クリス!」
という声が聞こえてきた、その次の瞬間、例の女の子がエリージェ・ソードルに抱きついてきた。
(クリス?)
エリージェ・ソードルの表情はほとんど変わらない。
だがもし、老執事ジン・モリタほどにこの女を見てきた者であれば、ギョッとするほどの剣呑なものを見いだしていただろう。
(クリス、そう、確かあの女の愛称……)
クリスとはエリージェ・ソードルが言う所の”あの女”、つまりクリスティーナ・ルルシエのことである。
この女、エリージェ・ソードルはそこまで頭は良くない。
せいぜい、人並み程度である。
ゆえにこの女、あれだけ殺そうと躍起になっていながらも、しかも、この屋敷の使用人の娘という前情報を持ってここまで来ておきながらも、今、ようやくそのことに気づいた。
ただ、仕方が無い面もあった。
実は、この女とクリスティーナ・ルルシエとの面識は無いに等しい。
火掻き棒で殴りつけようとしたのが唯一であった。
その時も、エリージェ・ソードルは少女の顔など見ていなかったのである。
(ここで殺そうかしら?)と普通に思った。
母親が酷い目に遭い、傷ついた少女に対してそこまで思うのは、平民を軽く感じているだけではない。
凝固し得ないドロリとした怒りだ。
愛する婚約者、弟、幼なじみ達を自分から”奪った”……。
かけがえの無い者達を奪い取った相手に対する怒気が、この冷淡ともいえる女を――女の手を――少女の首に向かわせたのである。
だが、その少女はそれに気づかない。
エリージェ・ソードルの細い体をぎゅっと抱きしめた後、顔を上げた。
「ありがとう……ございます!
ありがとうございますぅ!」
エリージェ・ソードルは目を大きく見開いた。
非常に珍しいことだ。
執事ラース・ベンダーが思わず「お嬢様?」と慌てて声をかけるぐらいに、珍しいことだ。
クリスティーナ・ルルシエの――小さめの顔はまるで精巧に削り取られた大理石の像のように艶やかであった。
パッチリと大きな目にある黒く縁取られた銀色の瞳は涙のため輝き、その白い頬は興奮のためか柔らかな赤みを帯びていた。
そして、それを撫でるように薄金色の髪が柔らかく波打ちながら流れている。
先ほどまで、エリージェ・ソードルは全く気づかなかったが、クリスティーナ・ルルシエという少女は愛らしさの中に美しさが混ざる、美少女であった。
そんな少女が満面の笑みを浮かべていた。
それは、エリージェ・ソードルをして「可愛い……」と呟かせるものがあった。
確かに、クリスティーナ・ルルシエという少女は美少女である。
ある意味で、ラインハルト・マガド男爵が幼女趣味を欠片も持ち合わせていなかったことを幸運に思えるほどに、だ。
というよりも、クリスティーナ・ルルシエの母親はそのことをかなり警戒して勤め先を探していたから、自分が狙われる場所に来てしまったとも言える。
だが、それ以上にエリージェ・ソードルという女に衝撃を受けさせたのは、この女が子供や小動物的愛らしさに触れる機会がほとんどなかったことに起因する。
エリージェ・ソードルの父親も義理の母親も屑である。
ゆえに、本来であれば他家の子供と交流を持たせたりする情操教育を、エリージェ・ソードルに全くしてこなかった。
なのでこの女の周りは大人の使用人ばかりであり、幼い子供と交じわう機会が”前回”も含めてほとんどなかった。
あったとしても、貴族令嬢の仮面をすっかりかぶった少女たちだった。
あとは、許婚であるルードリッヒ・ハイセルや幼なじみであるオーメスト・リーヴスリーぐらいなもので、彼らは男子であり、年不相応の洗練さがあった。
なので、確かに美少女ではあるものの普通の可愛らしさを越えることのないクリスティーナ・ルルシエを見て、”この世で一番愛らしい少女なのでは!?”と思いこんでしまったのだ。
その衝撃は殺意も憎悪も霧散させた。
ただ、なるほどと思った。
(殿下達が夢中になるのも無理からぬことね)
と素直に思えた。
この女、エリージェ・ソードルは公爵代理である。
”前回”も、そして”今回”もだ。
さらに言えば、特に”前回”でだが、優秀な人間を渇望していた。
広い公爵領は父ルーベ・ソードルによって腐り、人材が流出してしまっていたからだ。
ゆえに、この女、良い人材を見つければ必死になって確保する。
だからこそだろう。
この女、あれだけ憎んでいた少女を、可愛らしいという一点で(持って帰ろう)とあっさり思った。
「あなた、うちに来なさい」
「うち?」
エリージェ・ソードルの唐突な言葉に、クリスティーナ・ルルシエは――いや、今はただのクリスティーナだが――小首を捻った。
その仕草も愛玩動物のような愛らしさがあり、この女の胸に突き刺さった。
(可愛い!
なんて可愛い子なの!?)
「ええそうよ、うちの屋敷よ。
そうね……」
エリージェ・ソードルは顎に手を添えて、少し考える。
この少女は可愛い。
だが、ただ可愛いだけではない。
癒やしの魔術も使えるのだ。
しかも、将来聖女となるほどに。
これは非常に使える、と確信する。
「うちに来れば魔術を学ばせてあげられる」
「魔術!?」クリスティーナは目を輝かせる。
「火とか出せる!?」
「火?」
平民にとって魔術は遠い世界の奇跡である。
物語の中の奇跡と言っていい。
そして、物語の中に出てくるそれは、だいたい派手な火や炎が多い。
エリージェ・ソードルは少し考える。
人には魔術特性があり、それは多くの場合、魔力の色で分かる。
赤なら火、青なら水、などである。
クリスティーナは白なので回復に特化していた。
ただ、必ずそれのみしか使えない、とは限らない。
例えば、黒の魔力を持つエリージェ・ソードルであったが、”前回”、必要に迫られ青の氷結や白の癒しの魔術を覚えた。
「そうね、努力次第では使えるようになるけど、あなたの場合、どちらかというと癒しね」
「癒し?」
「そう、例えば」とクリスティーナの母親を指さす。
慌てて階段を下りてきた彼女は、自分の娘と高貴そうな少女の会話に入り込めず、困った顔をしていた。
その頬は、ラインハルト・マガド男爵に平手を受け赤黒く腫れていた。
「回復の魔術を使えるようになれば、あの顔もあっというまに癒すことが出来るわ」
「!?」クリスティーナは目を大きく見開いた。
そして、何かを決心したように頷いた。
「お母さんを癒せるようになれるんだったら、クリス頑張る!
頑張って、魔術が出来るようになる!」
エリージェ・ソードルは大きく頷いた。
そして、クリスティーナの母親に視線を向けると、当たり前のように指示を出した。
「ここから出る準備をしなさい」
「え、あの」
「早く!」
「は、はい!」
クリスティーナの母親は背筋を伸ばして返事をすると、駆けだした。
自分の娘より一つしか違わない少女であったが、異論も疑問も口にすることが出来なかった。
これが、常に指示だしている者と常に指示を出されている者との、変えようのない関係性であった。
エリージェ・ソードルはクリスティーナに視線を戻す。
その目はこの女にしては珍しく、優しげなものが含まれていた。
「クリス、あなたも行ってきなさい」
「はい!」
クリスティーナは嬉しそうに頬を赤めると、母親の後に続いた。
「ずいぶん、お気に召されたようですね?」
執事ラース・ベンダーが少し面を食らった顔で訊ねてきた。
彼にとって自身の幼い主は、あまり何かを欲しがらない人間であった。
「ええ、気に入ったわ」
エリージェ・ソードルは少し微笑みながら頷いた。
執事ラース・ベンダーは表情を引き締める。
彼は非常に優秀な男である。
なので、これからすべきことを正しく理解していた。
執事ラース・ベンダーは護衛の一人に一言指示を出した。
その護衛は頷くと、階段を駆け上っていった。
――
ようやく階段の上に姿を見せた女騎士ジェシー・レーマーは、気まずそうに頬を掻きながら、駆け足で階段を下りてくる。
その右手にはラインハルト・マガド男爵の胸ぐらが掴まれていて、引き摺られる男の足がガコガコと音を鳴らしていた。
「すいませんお嬢様、窓から吊してたので、それを回収するのに時間がかかって……」
「いいのよ別に、それよりさっさと指輪印を押させて」
「はい。
ほら起きろ!」
「ぐはぁ!
ひぃひぃ!」
失神していただろうラインハルト・マガド男爵は背中を踏まれて意識を取り戻した。
その中で、痛みがぶり返してきたのか、床に伏せながら涙をぼろぼろと流す。
そんな男に、誰一人哀れみの視線を投げかけない。
淡々とした態度で話を進める。
「ほら、さっさと椅子に座れ!」と女騎士ジェシー・レーマーが、玄関前に置かれた椅子にラインハルト・マガド男爵を乱暴に就かせる。
「書類は出来ましたか?」
「は、はい、こちらに!」
執事ラース・ベンダーは男爵家の執事からそれを受け取ると内容を確認する。
そして、そのうちの一枚をラインハルト・マガド男爵の前にある机に置いた。
エリージェ・ソードルは目配せで、女騎士ジェシー・レーマーに男爵家の指輪印を受け取らせる。
「自分で押させるのよ」
魔力には色がある。
それは肉親であっても全く同じものはあり得ない。
なので、貴族の指輪印には押した人間の魔力の色を焼き付ける機能があり、それで誰が押したのか判別させるのだ。
因みに、時々現れる無魔力の人間にはこれらの指輪印を押しても何の色も出ない。
だから、そういった彼らは貴族にはなれない。
女騎士ジェシー・レーマーはラインハルト・マガド男爵の指に指輪印をつけた。
「これはあなたが暴行した女性に対する示談書と、今後対象女性に関わらないとの誓約書となります」と執事ラース・ベンダーは話し始める。
なんの説明もないまま、指輪印を押した訳では無いという実績づくりであった。
これは、”あり得ない”ことだったが、ラインハルト・マガド男爵が後日、クリスティーナの母親やソードル家を訴えた場合の予防線でもある。
ただ、エリージェ・ソードルが見た所、それも必要ないように思えた。
怯えきったラインハルト・マガド男爵は、言われる前に震える手で署名をしていき、指輪印もしっかりと押したからである。
「……」
その様子を見ていたエリージェ・ソードルは、執事ラース・ベンダーに目配せをした。
執事ラース・ベンダーはそれに頷いてみせると、ラインハルト・マガド男爵の前にもう一枚差し出した。
そして、説明をする。
「こちらは、使用人の女性を暴行した貴公の”当家”への賠償となります」
ラインハルト・マガド男爵は、そちらにも筆を走らせ、指輪印を押した。
エリージェ・ソードルはその間、視線を男爵家執事に向けた。
何か言おうとしていた男爵家執事は、その視線にビクリと体を振るわせ、視線を下ろした。
それらが終わると、エリージェ・ソードルは女騎士ジェシー・レーマーに手を拭くように指示を出した。
殴り続けたためか、彼女の手は真っ赤に染まっていて、ジェシー・レーマーは少し恥ずかしそうにラインハルト・マガド男爵の上着でそれを拭った。
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