第17話 四日目 6/7
「シンタロー、いま時間……あ」
声がかかっただけなのに、僕はサイトを反射的に最小化した。画面を覗かれる前で良かった。
振り返ると、声の主は日の明るい居間からひょこっと頭を出している。
その手に、参考書と筆記用具を用意して。
「? なにか聞きたいことがあるんじゃないのか」
「んーん。いまはいいや、なんでもないっ」
彼女は申し訳なさげに目をそらし、ぷいと居間へ帰っていった。
日乃実ちゃんらしくないな。
僕が書斎でパソコン作業をしているとなれば、それは仕事に手を付けているときになる。
わざわざ「仕事してます」なんて伝えたことはないけど、四日間を共に過ごすうちに、いつしか日乃実ちゃんはそういうところも察してくれるようになっていた。もっとも、今は仕事に手を付けていたわけじゃあないけど。
だから、遠慮することないのになと思う。それとも僕は振る舞いのどこかしらで、知らず知らずのうち日乃実ちゃんに遠慮させてしまっているのか。
結局、日乃実ちゃんの様子が気になって作業を中断する。中断させられたことを迷惑とも思わなかった。
書斎を出て居間へ。窓際の明るい日差しは見ているだけで気持ちいい。
対照的に、日乃実ちゃんはそんな陽気を押し返すが如し負のオーラを放っていた。
参考書を広げたテーブルに突っ伏している。意気消沈の理由は、察するに設問に敗北したからだ。
「さしずめ解き方教えてほしいっていうのが、さっきの用事だったんだろ?」
日乃実ちゃんの対面に腰掛けてやると、小さなつむじの下から上目遣いの両目が救いを求めてこちらを覗く。
「仕事してたんじゃないの?」
心細そうに潤む目を見ていると、なんだか背中のあたりがむずがゆくなる。
「ちょこちょこ有休取ってるから、あれは仕事じゃない。とりあえず見せてみろって、わからないところ」
「教わろうとしといてあれなんだけど、シンタローにわかるぅ? シンタローの学生時代って五十年くらい前でしょっ?」
「それこそ愚問だな、なんたって僕は――」
大仰に眼鏡を押し付け、尊大に鼻を鳴らしてみせる。
「――教員免許、持ってますから」
「じゃあここ。公式? 定理? の応用っぽいんだけど……」
「はぁ、反応薄いね……どれどれ」
手渡されたのは数学のドリル、示された問題は図形の角度を求めるもの。
それなりにサプライズなカミングアウトをスルーされた寂寥は追いやって、僕も設問と睨み合う。
やがて日乃実ちゃんの理解度を測って。理解度の添ったヒントを伝えて。あとは……自力で考えさせる。
幾ばくかの時間を経て、
「ここの二問ができたんだから、残り五問もできるようになってるって」
「えーそれマジで言ってるぅ?」
「まじまじ。確認問題だと思ってやってもらって」
覚えなきゃいけないポイントはちゃんと押さえられているから、やれるって。計算ミスは気をつけるしかないな。シンタロー私もー疲れたーっ。シンタロー出来たよっ、ほらっ。
そんなこんなで一時間が過ぎた。
「ありがとシンタロー。あとは私だけでダイジョブだよっ」
「了解。っていっても、手を借りたかったら今度こそ遠慮しなくていいんだからな」
「そーするっ。じゃ次はどうしよっかなー、まだ理科も残ってるしー」
日乃実ちゃんは思っていた以上に利口で、新しいことへの飲み込みが早く、彼女が一度理解すれば僕なんてあとは見守るだけだった。
日乃実ちゃんは勉強に強い。
なので書斎に戻ろうと立ち上がったときには安心しきっていた。
「うわぁー、英語からも課題出てんじゃんっ。多いなー」
安心、しきっていたのに。
「こっちは何だっ、漢字と……読書感想文なんてあったんかーおいっ」
思わず振り返れば想像以上の光景だった。聞こえたほかにもプリントやらドリルやら、優に数学の五倍くらいの紙がテーブルは愚か床にまで展開している。
「まさかとは思うけどさ、その課題の、期限、とかって訊いても……?」
てへっ。
それが彼女の答えだった。
顔が引き攣る。コレら全部がゴールデンウィーク期間の課題なのか。
「いやはやっ、私ってばずっとオープンキャンパスとか料理のことで頭いっぱいでさっ! 宿題はその、つい……ねっ? ネッ?」
「すっぽかしてたと?」
「ですですっ」
「よしわかった。夕飯は僕が作る。その間、日乃実ちゃんは宿題な」
今日と明日で地元に帰って、明後日には登校。五日間のうち丸三日サボったことで、宿題は文字通りテーブルに山積み、になっている。
だが、あとの予定もご飯は全部僕が作って、日乃実ちゃんはできた時間を宿題に充てれば、残り二日でも踏破できそうな山ではある。
「ええ~! いいっていいって、料理するのを我慢するくらいなら提出遅らせてやるもんっ!」
「駄目に決まってるだろ」
夕食準備のため駄々っ子を押しのけて野菜室を覗く。
おおっ。
色味豊かな野菜室に少し感動する。以前はきゅうりと豆腐だけだったのに。
さぁて何を作るか。調理器具に触ること自体実に〇ヶ月ぶりなのでパッと思い浮かばないが、いつまでも野菜室を開けっ放しで悩むわけにもいかない。
とりあえず食材はフィーリングで選んだ。
あとはキッチンに先回りした駄々っ子に宿題をやらせるだけだ。
「シンタロー」
「だから駄目だって」
「まだなんもゆってないっ」
「言わなくともわかる、わかるとも」
抗議の目は止まない。初遭遇なレベルで存外頑固だった。
「宿題やりながらシンタローの料理監修するから。それならいいでしょ?」
疑問形だが、答えはイエスしか許されないようだ。
「わかったよ、料理長」
「ヘマした人は選手交代だからねっ」
「それだと日乃実ちゃんは一生交代しないね」
たったいま、失敗も許されなくなった。
「まぁでも、日乃実ちゃんに見てもらえるってのは、ちょうどいいかもしれないな」
「おうよ。なにが?」
「お礼だよ。ほら、」
それは、可能なら日乃実ちゃんがいる間中に済ませたい用事だった。
「日乃実ちゃんクイズ第三問の。せっかくだから、ついでに作っちゃおうかなと思って」
お礼に作るとなれば下手は打てないが、日乃実ちゃん監修ならその点は安心だろう。
「手料理渡すってこと!?」
「そういうこと。だから僕からも頼むよ料理長。出来れば胸晴ってお礼しときたいからさ」
だが彼女から否とも応とも反応がなかった。キッチンに妙な沈黙が下りる。僕はおかしなことを口走っただろうか。
にやにや。
ニマニマ。
振り向くと彼女の口は楽しそうな形に歪められていた。
「あら~まっかせなさいっ! シンタローは私が立派な男にしたげるからっ!」
愉快だと言わんばかりにバシバシと背中を叩かれる。肘でウリウリこのこの~と小突かれもした。
「シンタローも隅に置けませんなぁ~」
「なんか勘違いしてないか、なあ」
本当にお礼の挨拶だけのつもりで、それ以外の意図はないんだけど。
日乃実ちゃんの黄色い興奮は、夕飯の献立とお礼の一品が肉じゃがに決まるまで収まることはなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます