アンビバレンス

不可逆性FIG

Ambivalence.

「切れるものなら切ってしまいたいよ、雫にはわからないだろうけど」

 まるで他人事のように姉は過去を振り返る。屋上は25時を過ぎた深い月夜と、冷たい白色灯に照らされた1匹の蛾が醜く舞い踊っていた。


 この1年で多くのことが起きた。私が高校生になったこと、大学生の彩夏あやかねぇが一人暮らしを始めたこと、そして最近だと母が入院したこと。医者によれば容態は大事ではないが、様子を見て3日ほどの検査入院。それよりも気掛かりなのは、母のことを伝えたのにも関わらず未だ連絡の無い姉のほうだとは両親に口が裂けても言えない。

「──だからって、何もこんな遅くに来なくても」

「もし、彩夏ねぇが死んでたら最後に連絡取った私の落ち度になるじゃん」

 深夜23時過ぎ、もう終電には間に合わない。数センチ開いたアパートの扉越しに会話する姉と妹。用心深いのかしっかりとチェーンが付いたままなのが少し悲しいが、女性の一人暮らしならば当たり前の行動なのだろう。

「姉の心配よりも雫自身の保身を優先するなんて、お姉ちゃん悲しいよ」

「はいはい、泣き真似はいいから早くチェーン外して」

 渋々といった感じで、姉は自室へと招き入れる。もう何度目かの玄関の匂い、トイレのドアにはへこみ傷、白い壁には縦長で楕円形の時計。そして、もう見慣れた明るい金色に染まった長い髪。

 姉は高校生の頃から髪の色が変わり、家を空けることが増え、姉の部屋から使いかけのライターが見つかった。いわゆる不良だった姉は、母とよく衝突していた。4歳離れている私は反面教師として家庭では従順であるという仮面を身に付けることをいち早く覚えてしまうのだった。だけど、その仮面を私は一度だって誇ったことはない。

 なぜなら憧れは常に姉だから。現状への反抗をもって、どこまでも自由で、いつだって縛られることを嫌がっていた。しかし、私が憧れの姉に続くことはなかった。それは姉の生き方を両親は良く思ってなかったからに他ならない。姉のようになりたい、両親の期待に応えたい。相反する私が同居する心が選んだのは仮面を被ることだった。正確に言うなら結論の先延ばし。ただ、それだけ。

「はは、そんな立派な志なんてないって。あの家族から距離を置きたかっただけだし」

 いつだったか姉に不良の生き方について訊いたことがある。困ったように笑いながら、目を逸らして伏せる姉。なんとなく察してはいる。私には気付けなくて、姉だけが気付いてしまうもの。──きっとそれは血の繋がりだろうことも。


 姉の部屋に上がり、ベッド兼ソファーの左側に私は腰掛ける。

しずく、喉乾いたっしょ。あーでも冷蔵庫には水くらいか……」

「お酒あるんでしょ? 彩夏ねぇがいつも買ってる美味しいの頂戴よ」

「あんたまだ未成年でしょうが」

「それ、彩夏ねぇが言うセリフ?」

 たじろいで言葉が詰まり苦笑する姉。別にお酒が欲しいわけじゃない、少しは気になるけど。

 私ね、そこまで良い子じゃないんだよ? とは言わない。たとえ家族でも私のイメージというものがある。それは両親が望む私、姉が望む私、それぞれの期待に少しでも応えたい打算的な私が妥協点を探り合ってるのだ。

 テーブルにグラスが2つ置かれる。姉は気遣ったのだろう両方に水を注いだ。

「で、雫は姉ちゃんを連れ戻しに来たってわけ?」

「そうじゃないよ。ただ一度くらいはお見舞いに行ったらどうなの、それに返信すらしないってどういうことなの、あとはもっと構って、ってくらいかな」

「最後のは関係ないよねー」

 まだまだ夏の残滓を感じる気温では、細かな結露が注がれたグラスの淵に沿ってくもり出す。

 冷水で喉を潤しながら、姉の姿をちらと観察する。羨ましいほどに華奢で細身のスタイル、手の爪にはグラデーションの映える薄紅色のマニキュア、右耳にはピアス穴が3つ。すっかり大人になった姉の姿にチクリと胸の奥が痛くなる。その痛みとは、姉のようになりたかった自分となれなかった自分とをまざまざと見せつけられている錯覚のせいだったのかもしれない。込み上げてくる何かを押し戻すためにもう一度、水を含んで喉を鳴らした。

「──まあ、でもあたしが行っても喧嘩するだけだし。母さんの精神安定のためには雫が話し相手になってあげるのが一番だと思うよ」

「彩夏ねぇはいつもそればっかじゃん。家族なのに心配じゃないの?」

「それはまあ……そうだけど」

 姉は決まりが悪そうに首元を触ったり髪を撫でたりし始める。そんな仕草でさえ綺麗と思えてしまうのだから現金なものである。

 母と姉の仲の悪さは今に始まったことじゃない。お互い長女同士だからなのか、それともA型同士なのか(ちなみに私はO型だ)原因はわからないが、楽しくお喋りしていた記憶が両手で収まる程度だったように思う。

 沈黙が室内を支配しかけて、このままじゃいけないと思った私は努めて明るい声でひとつの提案をした。

「あのさ、髪染めるのってやっぱり美容院行ったほうがいいのかな」

「は!? 雫、あんた染めるの?」

 眼を丸くした姉を横目に、肩くらいまで伸ばした黒髪を指で遊ばせながら毛先を眺める。

「だって彩夏ねぇみたいに格好いい感じになりたいし」

「高校1年生があたしと同じ色にするのは、さすがにマズくね? それに高校のときはもっと地味なピンクアッシュだったよ」

「あーその色も良いなぁ」

 今の明るい金髪から想像の中で暗めなアッシュに染め上げる。どの色でも似合うと思うのはさすがに贔屓が過ぎるだろうか。

「でもまあ、雫はまだ黒髪のままが一番似合うと思うんだけどな。雫には棘を持ってほしくないというか」

「棘? なにそれ……」

 この会話には不自然な言葉、棘。姉は髪を染めることに何か別の意味を見出していたというのか。

「うーん、強くなりたいとか、自立したいとか、早く大人になりたいとかそういう気持ちを一言で表現するなら、棘だったってだけ」

 深い意味はないよ、と私の黒髪を撫で、さらさらと指通りを確かめながら呟く。

 くすぐったいような気持ち良いような感覚が髪から伝わって、もっと姉にそのまま触っていてほしいとさえ願う。

「蜂みたいな?」

「別にそこまでじゃないけど……まあ、なんていうか大人になって気付いたのは当時のあたしは毛虫だったみたいでさぁ。結局、柔い棘で威嚇してる真似だけだったし、今だって成りたかった自分にはまだ成れそうにもないし。あ、ちなみに蜂は針だからね」

 所在無さげに自分のグラスに付着した結露を指で絡め取っている。

 自分は毛虫だと言う、そんな姉を憧れにしている私。本当に身勝手だと思うのだけれど、そんなことを零す姉であってほしくなかった。

「私は彩夏ねぇのこと好きだし、その格好も好きだからいつかは真似したいと思ってるんだよ? なのに毛虫ってさ」

「雫にはあたしみたいに成ってほしくないかなぁ。だってほら、成虫になっても蛾だしさ。頑張っても蝶には成れないんだよ」

 夜行性のクセに光が大好きなさ、と湿った言葉をぼたぼたと足元に零す姉。気丈な語尾が故に、私の知らない姉が垣間見えてしまいそうで怖かった。ふと横を見やると、ソファの上で膝を抱える姉がいた。

 一体、私は何をしに来たのか。これではまるで苦しめるために押し掛けたようではないか。本当はもっと他愛のないお喋りをして、姉妹の仲をもっと深くしたいと思っていたのに。

 ……あまりこの手は早々に使うつもりはなかったけど仕方がない。2人だけの秘密を利用して、急カーブを切るように暗い話から軌道修正をすることにした。

「あ、そういえばまだ屋上の鍵って持ってるっけ」

「あるけど……また忍び込むつもりなの?」

「だって、秘密基地みたいで楽しいんだもん。それとも大家さんに鍵を複製してるって言いつけちゃってもいいんだよ?」

 微笑む私に慌てふためき「シャレになってないよ!」とかなんとか。こうして姉の困ったり焦ったりする表情を見ると心底愉しくなる私はたぶん、屈折してるのだろう。真っ直ぐに慕う気持ちに嘘偽りこそないけれど。


「はー、あたしだけの秘密だったのに」

「だったらもっと上手く隠しなよ」

 鍵を持っている詳しい経緯は知らないが、以前に少しの時間だけ大家さんに鍵を渡されたことがあったらしい。悪知恵が働くというか何というか。

 3階建てアパートの最上階に住む姉の部屋から屋上へ通じる扉までは誰に会うこともない。錠を外し、錆びついてギギと鳴る音にさえ注意すれば侵入は容易だった。錆で剥げかけた塗装の扉を押し開くと、真っ暗な景色と灰色のコンクリートが平坦に敷かれるだけの空間がぽっかりと現れる。パチリと音がして、頭上が頼りない白に照らされる。姉が扉の外側に設置された蛍光灯のスイッチを入れたのだった。

「わかってると思うけど、騒ぐと下の階の人にバレるからね」

 姉は静かに扉を閉める。目敏いもので灯りが付いた蛍光灯にはもう1匹の蛾が光を求めていた。


 屋上の、この何もない空間が私は好きだ。


 壁のない密室とでもいうのか、唯一の繋がりである扉を閉ざすと──まるで圧倒的な空白に放り出され、重ねた月日の分だけ静寂が降り積もり、ここだけが世界から切り離されたかのように感じるのだ。幸い、今日に限っては雲の薄い月夜。完全なる闇よりは安心感が幾分違ってくる。

「そういえば、彩夏ねぇの今のカレシと何ヶ月になるんだっけ」

「んー、もうとっくに別れたよ」

「ええ、はやっ!」

 野ざらしのコンクリートに直接座り、くだらなくて愛おしい会話は私たち姉妹の間で途切れることはなかった。互いの近況、増えた趣味、街の移り変わり、恋愛についてのアレコレ。きっと明日にはほとんど覚えていない程度の内容、それでもこうしていくつになっても姉と変わらずにお喋りできることが何よりも心を潤してくれた。

「あーおっかしー。まさかそんなことになってたとはねー」

「ホントまさかの2人がくっついちゃうんだもん」

 今ではもう両親に見せることが無くなってしまった姉の笑顔を私が独占できている優越感。入院している母には悪いが、こうやって姉に逢える口実ができたことには感謝をしている。──願わくば、この満ち足りた月夜が永遠に終わらないことを。


 止めどない雑談はふとしたことから家族の話題に触れる。

「でもさ、それにしたって少しくらい帰ってくればいいのに。今はママだって居ないわけだし、パパとなら話せるんでしょ?」

 冗談交じりに帰省を促す私。

「まあ、ね。んー、でも父さんと2人はちょっと無理かも、雫にも居てほしい」

「……まだ反抗期やってんの?」

「ちーがーうー! そういうんじゃないの!」

 そんなことは知ってる。

 私だって今までぼんやりと生きてきたわけじゃない。意外と子供だって賢いのだ。歪みに気付いてなお、気付いてないフリで日々を騙し騙し過ごしていたりする。

「もう雫も知ってると思うけど、あたしさ、父さんとは本当の家族じゃないじゃん? だからっていうのか、わからないんだけどなんとなく家に居づらくてね……」

 母さんいないとなおさら、と小さく付け加える。斜めに向かい合う姉の姿が心なしか、か細く映る。やはり私たち姉妹にとってデリケートな問題なのは、どれほど年月が経っても変わらない。

 母は再婚で今の父と結ばれ、しばらくして私が産まれた。母の連れ子だった幼い姉には、新しい父親というのは子供の瞳にどう映ったのだろうか。

「血の繋がりなんてくだらないと思ってたけどさ、いざ雫が産まれて愛情が赤ちゃんに半分持っていかれちゃうと……疎外感っていうのかな。子供ながらにすごく苦しかったような思い出があるんだよね」

 姉は淡々と語りだすと、一呼吸置いて真上に光る欠けた月を見上げ、弱々しくふふっと笑うのだった。パパは私にとって父で、姉にとっては義父になる。言葉にしてしまえば陳腐で有りふれた家庭のひとつだけど、本人にとっては世界の全てだ。

「訊いてもいい? 彩夏ねぇは家族をどう思ってる?」

「切れないってわかってて我が儘言うのもアレだけど、切れるものなら切ってしまいたいよ。きっと雫にはわからないだろうけど」

 息を呑む。その返答はショックだった。心の奥では他人にしたいと言っているのだ、姉は家族を。

「……もしかして私の存在が彩夏ねぇを苦しめてるの?」

 訊いてどうする、と深い後悔した私の傍らにそれでも姉を好きでいたい私がせめぎ合っていた。こんなときでさえ自分に素直になれないのだ。これほどまでに姉が次に発する言葉から逃げたかったことはない。

 25時の暗闇がたっぷり時間を吸って、ゆっくりと答えを紡いでいく。

「ううん違う、シンプルな気持ちになりたいだけ。むしろ救われてる。仮に雫の居ない3人家族だったらもっと馬鹿みたいにグレてた、たぶん絶対。雫が居なかったらなんて考えたことないよ、これっぽっちも。だって、可愛い可愛い妹が出来たからあたしはようやくお姉ちゃんになれたんだもの────」

 思わず唇を噛む。

 そうでもしないと、押し寄せる感情の濁流に喉の奥が涙で灼けそうになるからだ。

 姉の切なくも優しい独白は私の存在を赦し、妹がいて良かったと、そう言ってくれている。その言葉にこそ私が救われているのだ。

「出来の悪いお姉ちゃんだからさ、どんなに間違った人生になってもせめて家族──というより雫だけでも大切にしようと思ってるわけさ。あー、酒が回ってきたかな。すげーハズいこと言ってる、もう忘れて?」

 はは、と頭を掻きながら困ったように笑う姉。さっきまで一緒に水飲んでたし、そもそも玄関開けたときから酒気を帯びた息はしてなかったクセに。

「バカなんだから……もう」

 こうでも言わないと泣いてしまいそうだ。

 ありがとうの代わりに、伝わればいいなと思う。熱い目元に滲んだ視界で仰ぐ月夜は、砕けた光の粒子が散らされているみたいで奇妙に美しかった。

 ああ、そういえば本当は母のお見舞いに来るように説得するはずだった。なんだか、もういいかなという気分になってくる。

「あのさ、彩夏ねぇ」

「ん、なに?」

「ううん、やっぱなんでもない」

「──そっか」


 優しい沈黙がひんやりとした風をそよと運んでくる。

 アパートの何もない屋上には燃えるほど冷たい月夜が蒼く白く輝いていて、支える手の平に押し当てたザラつくコンクリートの感触だけが確かなものだった。背後にある頼りない蛍光灯の、紛い物の光にはきっと相変わらず1匹の蛾が誘われているのだろう。

 私はこのまま夜明けを姉とここで迎えようか考え、明日は9月最後の雨が降る予報を思い出して「そろそろ部屋に戻ろう」と優しく微笑むことにした。



〈了〉

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