晴明の帰還
音澄 奏
第一章
第1話
春の夕暮れ。
陽も高く、まだ明るい。しかし、どこか物悲しげな空気である。その中に、まるで忍び寄る宵闇のような目をした男が一人、頭を垂れて帝の謁見を待っていた。
俯いた顔の、瞳はしっかりと開かれている。男の背中には妙な気迫がある。帝の御姿を、御簾ごしといえども決して逃してなるものか、という奇妙な気迫がある。
それが臣下達を不安にさせた。帝にお目通りできなければ、今ここで自害する、と騒いだ男の瞳はどこまでも透き通っていた。
臣下達は御所を血で汚すことを恐れて、男に帝の謁見を認めたが、辺りは奇妙な緊迫感に包まれていた。
その時。
御簾越しに衣擦れの音が聞こえて、男はびくりと背を震わせた。
「おもてを上げよ」
御簾越しに帝の涼やかな声が聞こえたが、それが自分に向けられた物とは俄かに信じられず、男は見開いていた瞳をきつく閉じた。まさか、生きているうちにお会いできるなんて…。
「聞こえぬのか。おもてを上げよ」
苛立ちを含んだ帝の声に男は我に返り、慌てて顔を上げた。まるで自分を射抜くかのような黒曜石の瞳をした男に驚いたのは帝であった。
「……清明!?」
帝の驚きは無理もない。そこにいた男は、15年前に失踪した安倍晴明に生写しだったからである。
「……否、清明のはずがない……」
そう呟いた帝の声には、隠しきれない苦しみが滲んでいる。
『もう二度とお目にかかりません』
星の降るあの夜。清明は言ったのだ。
『だから、どうかお許しくださいーー』
「わたくしは、」
男の声を聞いて、帝は我に返った。
男は、この青年は、まだ声変わりが終わったばかりではないかーー。
「私は、名を『晴明』と申します」
「は……?」
「親から貰ったものは、この名前といくらかの占星術の知識ばかりーーまだ頼りない身ではありますが、帝のお役に立ちたいと、京へやって参りました。どうか…」
青年の言葉を全て聞き終わるより前に、帝はピシャリ、と手に持っていた扇子を鳴らした。
青年の周りを控えていた検非違使達が取り囲む。
「これは…どうしたことでしょう…」
困ったように呟いた青年に、帝は言った。
「……『清明』と言ったか、青年よ。そなたを教えた『親』とは誰だ?」
その言葉を待っていた、とばかりに青年は嬉しげに答えた。
「安倍晴明と申します!」
青年の言葉をハッと笑い飛ばすと帝は検非違使達に言った。
「この者を捕えよ」
青年を検非違使達が取り押さえた。
「お待ち下さい!帝!」
検非違使達に組み伏せられた哀れな青年は、その場を去ろうとした帝に悲痛な声を上げた。
御簾越しに青年を見ようともせず、背を向けたまま帝は言った。
「……そなたにいいことを教えてやろう。安倍晴明は子を、特に継承者である男子を欲していたが、決して女を娶ろうとはしなかった。何故だか分かるか?」
「それは……」
言葉に詰まった青年に帝は続けた。
「男女の契りは、清明の陰陽師としての力を損なわせる物だったからだ。……その清明が子を為す訳がない。狐狸妖怪の類か、ただの香具師か知らぬが、私の怒りに触れないうちに去るがいい」
そう言って帝がその場から去ろうとした時だった。
「お待ち下さい!私を見捨てないで下さい!ーーー!!」
青年が思わず放った言葉に帝は足を止めた。
さて。
東宮が秘密裏にある男のところを訪れたのは、そんな騒ぎがあってから1カ月程経った頃であった。
「おや、どなたかと思えば、そこにいらっしゃるのは東宮様ではこざいませぬか。東宮ともあろう方がこんなあずまやにいらっしゃっては、御身が汚れまする。即刻立ち去った方がよろしいかとーー」
気ままに伸ばした黒髪に、キツネのような細長い目。決して豪華とは言い難い衣装だが、この男が着ると何故かそれなりのものに見えてしまう。そんな奇妙な男が蘆屋道満である。
東宮はぎろりと道満を睨み付けると言った。
「貴様、文は?」
道満はキツネのような目を見開くと「文ィ〜?」と素っ頓狂な声を出したが、ああ!と手を打つともしかして、と言った。
「差し出し人の名前もない、桃の花が付いた手紙ですか?……心当たりもないし、気味が悪いから塩で入念に清めた後、燃やしましたが?」
「……貴様、私の文を塩焼きにするとはいい度胸をしてるな!!」
「東宮様の出した文だったとは露知らず……でも、名前も書かずに文を送りつける、あわてん坊の東宮様が悪いのでは?」
「わざとだ!わざと!!……帝に都を追い出されたお前に東宮の私がおおっぴらに文を出すわけにはいくまい!」
「おお、それはそれは。東宮様も色々と気苦労がおありのようで」
ははは、と道満は笑うと
「しかし、桃の花…桃の宮で『とうぐう』などとは、ちょっと安易ではありませぬか?」
にやりと笑う道満を『この男……分かってて、文を塩焼きにしたな……』と東宮は睨みつけた。
「して、都を追い出された私めに東宮様はどんな文を書かれたのです??」
道満の言葉にぐっと東宮は言葉に詰まった。もとより、その話をしにわざわざ都より道満を訪ねて来たのだが、こんな庭先で大声で話すような話ではない。
「……とりあえず、上がらせてもらおうか」
「……東宮様」
「?なんだ」
「もしや、文というのは恋文」
「お茶の一つも出せと言うておるのだ!!」
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