8 挿話 19××年×月~×月
家には母と子が住んでいた。
本棚や机がある書斎部屋は父の部屋。
化粧台のある部屋は母の部屋。
玩具やぬいぐるみ、勉強机がある部屋は子の部屋。
しかし、なぜか父は家に住んでいなかった。
「お母さん。お父さんはいつ帰ってくるの?」
子は言った。
「大丈夫よ。明日か明後日には帰ってくるわよ」
母は言った。
しかし発言の内容とは裏腹に母親の声は弱々しかった。
母は憔悴しきっていた。
「昨日も、おとといも、お母さんそう言ってたよ」
母は子を抱いた。
子は母親の温もりを感じると同時に母が以前より痩せている事に気が付いた。
「お母さん、お腹減ってない?最近ほとんど食べてないよね?」
子は心配そうに母を覗き見る。
「大丈夫よ。あなたこそお腹へってない?」
子は大丈夫と答えた。
子は食事はいつも通りちゃんと食べていた。
だが、母は食欲が無く、食事が喉を通らない様だった。
子は思いついた。
そうだ。自分が食事を作ってあげて、お母さんに食べてもらおう。
子は隣の建物にある売店に行って缶詰やレトルト食品を買った。
それを温めたご飯の上にかけ、母に出した。
とても料理と呼べる代物では無いが、子にとっては自信作だった。
母は子の作った食べ物を生気の無い眼で眺めていたが、ふとした気の迷いからか箸を伸ばして一口食べた。
「・・・おいしい」
一口食べると、母はそう呟いた。
もう一口、さらに一口・・・母はむさぼり食う様に箸を進めた。
「おいしい・・・。こんなにおいしいご飯、初めて」
母は食べながら涙を流した。
ポロポロ、ポロポロ泣いていた。
次の日も、そのまた次の日も、子は食べ物を作った。
レトルト、缶詰・・・。
隣の売店の女性に作り方を聞いて、味噌汁も作れるようになった。
母は、それをおいしそうに食べてくれた。
蒼白い顔をしていた母の顔色は良くなっていた。
痩せていた体も元に戻っていった。
数日たつと、母と子は一緒に台所で料理をするようになった。
子は身長がまだ小さいので踏み台を使って台所に立った。
料理は母が教えてくれた。
母には笑顔が戻っていた。
一緒に笑顔で楽しく作った。
カレーを作れるようになった。
炒め物を作れるようになった。
煮物を作れるようになった。
穏やかな、楽しい日々。
母と子は幸せだった。
ある日、母がいなくなった。
外が騒がしかった。
母の名を叫んで呼ぶ声。
母以外の名を叫んで呼ぶ声。
騒がしかった。
「かわいそうに。もしかして母親は幼い子供より、夫を選んだのか?」
そんな声も聞こえた。
・・・騒がしかった。
母がいなくなって数日間、子の食事は、隣の家の売店に住む女性が作ってくれた。
だが、子は食欲が無く、食事が喉を通らない様だった。
子は、次第に痩せていった。
子は、次第に顔色が蒼白くなった。
数日後、子は病院に移された。
点滴を打たれた。
流動食を無理やり食べさせられた。
カウンセリングも受けた。
子は何もしゃべらなかった。
数か月後、子は児童養護施設へ移された。
そこには沢山の孤児がいた。
けれども、子は誰とも話さなかった。
友達を作ろうとしなかった。
一人でポツンと絵具で絵を描いているだけだった。
施設の職員が子に話しかけた。
「何の絵を描いてるの?」
職員は子の絵を見た。
その絵には四人の人間が描かれていた。
下手な絵だった。
大きな人間が二人。
小さな人間が二人。
「この大きい人たちは誰?」
職員は聞いた。
「お父さんとお母さん」
子は言った。
職員は改めて絵を見る。
大きな人間二人の顔は、赤い絵具で塗りつぶされていた。
職員は首を傾げた。
「じゃあ、こっちの小さい人たちは誰?一人は君かな?」
子は頷いた。
小さな人間の一人を指差してこれが自分と教えた。
絵の顔はニッコリと笑っていた。
「もう一人は誰かな?」
「大切な、大切な人」
子はもう一人の小さな人間を指差した。
その顔は白くて、何も書かれて無いように見えた。
「お友達?」
職員は聞いた。
「友達より、大切な大切な人」
子は答えた。
職員は勝手に解釈して納得した。
この子にも大切な親友が出来たのかもと。
職員が去った後も、子は一心不乱に絵を描き続けた。
顔に何も書かれていないように見えた、もう一人の小さな人間の顔。
子は、その顔に白い絵具を沢山、沢山塗り続けていた。
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