第6話 体育祭の支え方 1
第六話 体育祭の支え方
机の上に広げたプリントの端を両手でつまむ。手が湿っぽい。手にかいた汗のせいでプリントがふやけていた。汗をかいているわりに手も足も冷たくなっている。これは、教室内の暑さや湿度の高さからくる汗ではなく、緊張感からくる冷や汗だった。
ああ、やだ、もう帰りたい。何度この言葉を頭の中で繰り返したことだろう。あたしはプリントから手を離して、手の平をスカートに擦り付けた。足にもなんだか力が入らない。緊張をほぐそうと目を閉じて、何度も小さく深呼吸をしてみる。吸い込んだ空気は溜め息になって吐き出された。
高校生になってから、こんなにも緊張する場面に出くわしたのは初めてだ。両手をゆっくりグーパーグーパーと握ったり開いたりを繰り返し、必死に自分で自分に暗示をかける。大丈夫、心配ない、きっと上手くいく、すぐに終わる、問題ない。
目を開けて机の上にあるプリントに目を落とした。教室内の全員の机の上に配られているプリントだ。B四サイズの裏表印刷。表面の左上には「第三十五回 星塚高校体育祭 要綱」と書かれている。
その下には体育祭の開催を表す定型文と詳しい日程、プログラム、競技種目などについての詳細が書かれている。体育祭を一週間ほど前に控えた六時間目のロングホームルーム、つまり今日この時間に体育祭についての詳しい説明、およびそれぞれの生徒が参加する種目を決定することになっているのだ。
そして、このクラスでの体育祭に関する説明や種目決めの進行を務めるという大役を担っているのが、他でもないこのあたしなのである。
クラスで最も目立たない、いや、浮いているという意味では目立つのかもしれないあたしが、クラス全員の前に出て進行しなければならないこの状況。どれだけ荷が重くて潰れそうな思いかお分かりいただけるであろうか。
何故、進行役なんて全然器じゃないはずのあたしがこんなことになっているのかというと、それは春の委員会決めにまで遡る。
春の日のロングホームルームで行われた委員会決め。選挙で選出される生徒会を除き、図書委員会、風紀委員会、美化委員会、保健委員会など、数ある委員会の中に、体育祭実行委員会というものがあった。
体育祭実行委員会はその名のとおり体育祭を運営するための委員会で、その仕事は約三週間という短期間ではあるが、体育祭まで昼休みと放課後が全て潰れるというかなりハードなものになる。体育祭の企画、準備、運営など、その仕事内容は多岐に渡るが、どれもかなり地味で目立たない。おまけに体育祭の花形である応援団にも入れないので、他の生徒との距離感が半端じゃない。体育祭を楽しみたいのであれば、まず入ってはいけない委員会だと言われている。そんな委員会だ。クラス中の誰もが入るのを嫌がった。そして、一年一組では余り者のあたしと鈴木忍が当然の如くそのポストに収まったわけである。
「じゃあ、実行委員、前に出て進行頼む」
体育祭の種目決めに時間がかかると見て、先に体育祭以外の連絡事項を終わらせた担任の山崎先生は、あたしの方を見て言った。
「は、はい」
あたしは机の上に置いてあったプリントを手にとって立ち上がった。後ろを振り返り、小さい声で「行きますよ」と鈴木忍を促す。鈴木忍には今日の六時間目には何があっても遅れずに来るよう言っておいた。そのおかげで、ちゃんと五時間目の終わり頃にはやって来ていた。こんな白髪ダサオタク眼鏡でも、いないよりはマシだ。
緊張して手汗ぐっしょりのあたしに引き換え、鈴木忍は眠そうにゆっくりと机から顔を上げた。こいつ、これから何をしなきゃならないか分かっているのか。多少不安になるが、今更どうしようもない。寝起きで動きの遅い鈴木忍に苛立ちながら、その腕を引っ張ってあたしは教卓と黒板の間に立った。
「い、今から、六月二十六日の日曜日に行われる、体育祭についての説明と、参加種目を決めたいと思います」
ぐるりと教室中を見回すと、こちらに注目している人はほとんどいなかった。配布されたプリントを先さき読み進めている人、五時間目に出された数学の宿題をしている人や携帯電話をいじっている人、文庫本や雑誌を読んでいる人もいれば隠れてゲームをしたり、居眠りをしている人もいた。先生が立つこの場所は、思いのほか生徒の行動が把握できる。
しかし、注目されていないことはあたしにとっては返って都合がよかった。ほんの少し緊張が緩む。あたしは手に持っているプリントに視線を落とし、そこに書かれてある通りに体育祭についての説明をはじめる。その間に鈴木忍が黒板に白いチョークで競技種目を書き上げていった。説明が終われば、あとは黒板に書かれた種目の中で自分が参加したい種目の下に名前を書いてもらい、参加種目を決めるという手筈だ。
「説明は以上です」
あたしの説明が終わるのとほとんど同時に、すぐ後ろで聞えていた黒板とチョークが擦れ合う音が止んだ。全ての種目を書き終わったようだ。あたしは黒板を振り向いてそれを確認する。鈴木忍の字は外見に似合わず綺麗だ。習字を習っていただろうと思わせる正確な止め撥ねに、バランスの取れた字の間隔。背が高いので黒板の高い所でも安定した文字になっている。チョークが掠れることもなく、ヘタな先生が書くよりもずっと読みやすい。
「では、各自で参加したい種目の下に自分の名前を書いてください。定員オーバーの場合はじゃんけんで決めます」
あたしが言い終わる前から教室中がざわつき始め、言い終わると同時に席を移動するなどして友人同士の相談が始まる。そして、話がついたところからチョークを取り合うようにして黒板前に人が群がった。しばらくすると、あちこちでじゃんけん大会が開かれはじめる。順調に進んでいく種目決めに、あたしは安堵の溜め息をついた。
あたしと鈴木忍は教室の隅っこの方で黒板が人の名前で埋まっていくのを見守る。あたしたちは何か余った種目に入ればいいと適当に考えていたのだが、それがまずかった。
全員が席につき、黒板を見ると、誰の名前も書かれていない種目が一つだけあった。定員は二名。もうあたしと鈴木忍が入るしかない種目だ。何の競技かと、鈴木忍が書いた綺麗な文字を読む。
「……ら、ラブラブ、愛の障害物競走……?」
綺麗な文字で書かれたふざけた言葉。ラブラブの上に愛だと。この繊細なお年頃にラブラブなんて言葉をくっつければ、誰だって避けて通る。こんな言葉に食いつくのはよほどのバカップルかバカだけだ。こんな競技あるはずがない。あたしは慌てて手に持っていたプリントの種目一覧を見る。だが、残念なことに黒板と同じ文字を発見してしまった。「ラブラブ 愛の障害物競走」誰だ、こんなバカな種目名を考えたのは。少し考えてから、自分たち体育祭実行委員だったことに気づく。あの時、反対していればと今更悔やんでももう遅い。
せめて名前がただの障害物競走だったらよかったのに。何故あんな余計なものをつけてしまったのか。こんな名前の競技に男女ペアで出場すれば、笑いのネタにされるに決まっている。
何やら視線を感じて顔を上げると、こそこそと話しながらこちらを見て笑っている人が何人かいた。早くも笑いのネタにされているらしい。
「あの二人で『ラブラブ 愛の障害物競走』だって、ウケるー」
「お似合いなんじゃなーい」
「ああ、クラスのはみ出し者同士だし?」
きゃらきゃらと甲高い笑い声が上がる。本人たちはひそひそ話しているつもりなのか知らないが、全部丸聞こえだ。それともわざと聞えるように言っているのだろうか。恥ずかしさと苛立ちと悔しさが込み上げてきて、何か言い返してやりたいが直接言われているわけでもないので言い返せない。何より、何を言えばいいのか言葉が見つからなかった。
「では、『ラブラブ 愛の障害物競走』は、この運命共同体の私たちに任せて下サイ。実行委員の名にかけて必ずや優勝してご覧にいれマスよ」
鈴木忍は中指で眼鏡を押し上げながらそう言って、黒板に鈴木、如月と書いた。鈴木忍の外見とそれに似合わぬ恥ずかしいセリフに教室中から派手な笑いが起こる。ひやかすような口笛が鳴り、バカじゃねーの、と大きな声で笑う人はいても、コソコソ陰口を叩く人は誰一人いなくなった。
教室での鈴木忍は不思議な存在感を持っていた。それは、もちろん見た目が白髪であったり、服装がだらしなかったり、表情の読めない瓶底眼鏡をかけていたり、ジリヒンジャーオタクであったりするせいもあるだろう。しかし、それだけではない何かがあった。自ら馴染もうとはしないが、だからといって他を拒絶するわけでもなく、また他から排除されるわけでもない。クラスで浮いていながら、その気になればいつでも溶け込めるような存在なのだ。
そういえば、スズ兄も前に「あいつは人を惹きつける何かを持っている」と言っていたっけ。スズ兄は鈴木忍と室長を完全に同一視しているみたいだが、あたしにはやはり鈴木忍と室長は違って見える。外見だけではない、何かもっと根本的なところで違う気がするのだ。自分でもよく分からないが、たとえるならこの間相談に来た秋月薫さんの多重人格と同じような感覚だ。外見の変装だけでなく、すっかり人格まで変えてしまっているような。
分厚い眼鏡で素顔を隠し、考えも行動もまるで読めない。そういう意味では室長よりも鈴木忍の方がよっぽど謎な人物に思える。一体どちらが本当で、どちらが演技なのか。
鈴木忍がルーズリーフにさらさらと種目と参加者名を書き込んでいる様子を眺める。相変わらず綺麗で読みやすい字だ。「あいつ、学校来ないからさ」ふとあたしの頭に鈴木忍のことを心配するスズ兄の言葉が浮かんだ。「なんでだろうな」
――もしかして、鈴木忍は学校に来ないからクラスで浮いているのではなく、クラスで浮くために学校に来ないのではないか。
「如月サン、書き終わったのでもう黒板消してもらって結構デスよ」
室長と同じ声で「如月サン」と呼ばれると、どうも違和感を覚えてしまう。あたしは、「あ、はい」と答えて黒板消しを持った。
クラスで浮くために学校に来ないなんて、意味が分からない。一体何のためにクラスで浮く必要があるのだ。クラスで浮いたって良い事なんてありはしない。あたしは今の自分の状況を思い出し、先ほどの考えを消し去るように黒板消しで黒板を擦った。鈴木忍の綺麗な字はただの白い粉になった。
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