獅子の背中(*兎萌視点*)
一瞬、途中まで唾を呑み込みかけていたということを忘れてしまっていた。せり上がったままで放置された喉が、生命の危機を訴えてきたことで、ようやく兎萌は、大きく息を吸うことをした。
「今の、何……?」
目を擦る。頬を抓る。夢を見ているわけではないのだと確かめる。
これまでのキックボクシング人生、自慢じゃあないけれど、ビビったことなんてなかった。
それが今は、どうだ。
あいつの後ろ姿を見ているだけで、震え慄いている。
ヘイ、『蹴り姫』なんて呼ばれた私。まだお呼びじゃないのよ。ここは戦地。彼の腕の中でもなければ、じっと目を見て囁かれる紅閨の中でもない。だから、お姫様気分はまだずっと先の話のはずでしょう。
なのに。
「あれっ……何で……」
どうして私は、涙を流しているんだろう。
勝利を告げる鐘が鳴ったわけでもないのに。
けれど、二つだけ、分かっていることがある。まず一つ、これは嬉し涙だということ。
そしてもう一つ。羽付兎萌は今、川樋葵という男に、平伏してしまっているということ。
兎萌は思わず、名目上のメインセコンドとして隣にいる、勇魚の袖を引っ張った。
「……ねえ、お兄ちゃん。私、とんでもない男を選んでしまったかもしれない」
どうしようもなく、乾いた笑いが込み上げる。
あの日は、正直、ほんの気まぐれだった。捨て犬を拾うような感覚で、ただ、川樋葵という青い果実に憐憫の情をかけただけ。
それがあっという間に、果実が赤く色を変えるように熟していって。捨て犬みたいだった彼は、気が付けば、大空を吹く自由な風の中でたてがみを遊ばせる獅子になっていた。
「あいつ、今、世界に立ってる」
夢見心地のように上気した頬で、兎萌はうわ言を口走る。
「この会場に集まる選手たちはみんな、高校生として結果を出して、その先に進んで……なんて段階を踏んで、世界を目指そうとしている『挑戦者』。そんな中で、あいつだけがもう世界に立ってる」
ある程度の現実とやらを知ってしまった『
「どうしよう。私、空に溺れそう」
女として、これほど身に余る光栄があるだろうか。
頬を叩く。上等じゃないの。あなたほどの男が前を歩くっていうんなら、三歩後ろを付き従うのも、悪くない。
けれど、私は羽付兎萌だから。そんな風には尽くしたげない。
だって、柄じゃあないもの。
「うしっ! その博打、乗った! あんたが世界に立つって言うんなら、私はその隣に立ってやろうじゃない。セコンド舐めんじゃないわよ!」
拳を突きあげる。心だけでも、リングに上がれるように。
「なるほど、『きゅん』超えて『じゅん』だな」
「ほんっとにこの駄目兄は……」
兎萌は頭を抱えた。やっぱりうちの男性陣は、デリカシーがないらしい。
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