はじめてのおとまり~英国紳士とパンツ泥棒~

「ぎゃあああああああああ!?」



 合宿を終え、週の明けた放課後、葵はジムの更衣室で悲鳴を上げていた。

 現実を直視することができずにパンツ一丁で頭を抱えていると、ひょっこりと兎萌が顔を出した。



「葵うるさい。向こうまで聞こえて来たんだけど」

「嫌あああエッチいいい!?」

「何がエッチよ、バカ。別に試合の時のショーパンと大差ないでしょうが」

「あるの!」

「あんたは女子か!?」



 呆れたとばかりに渾身のため息で一蹴してから、兎萌は「んで? 何がどうしたのよ」と訊ねてきた。



「体重量ってこいって言っただろ。そしたら俺、六十六キロだったんだ……あああ、絶対ラーメンとチキンカツと焼肉のせいだ。確か舞流戦ってLWライトウェルター級なんだよな? やっちまったあ」



 ライトウェルター級。場合によってはスーパーライトともいわれる階級で求められる体重は、六十二キロ半ばから六十四キロ半ば。


 このままでは、釈迦堂舞流戦との決戦を迎える以前に終わってしまう。もっとも、別階級としての出場は可能であるから、留年回避のみを目的とするのであれば、むしろ僥倖といっても差し支えない。


 けれど、そんなことは絶対にしたくなかった。

 切実な問題である。しかし、兎萌はなんてこともないように肩を竦めてみせた。



「なんだ、そんなこと」

「そんなことって……あと一週間で一キロちょっと落とさないとダメなんだぞ」

「前日計量があるから、正確には三日半ね」

「何だそれ聞いてねえぞ! もっとヤバいじゃねえか!」



 絶望の淵に立ったような気がする。



「ちょっと落ち着きなさいってば」



 そう言って、兎萌は眉尻を下げた。



「これは予想の範疇なの。キックを始めた素人が、脂肪を落として筋肉を付けるまでの体重差はある程度予想がついていたし、常日頃からあんたの体の変化は見ていたから、ぶっちゃけプラマイ一キロぐらい誤差よ誤差。むしろ、水抜きの必要もなさそうだし、変に体調崩す要素を弾くことができて安心したくらいだわ」



 腰に手を当ててかっかっかと笑う彼女の言葉を、葵はにわかには信じられなかった。



「そんな『三日半で一キロ落ちます!』なんて、ダイエットサプリの広告でも見ないだろ」

「もう、そこまで弱気なら仕方がないわねえ。私が付きっ切りで監督してやろうじゃないの」



 高らかな宣言とともに、兎萌がずびしと指を立てた。



「今日から三日間、私が作った減量メニューで過ごしてもらうわよ! 安心しなさいな。材料費も私が持つし、デザートも付けるから飽きないわよ」

「ええと、つまり。どういうことです?」

「つまり、今日から葵の家に泊まり込むの」

「えっ、えええええええええ!?」



 今度はジム内に、葵の驚嘆がこだました。











 防波堤となってくれそうであった勇魚からはあっさり許可がおり、母からも快諾をされてしまった手前、後に引けなくなった葵は、帰り道のあいだじゅう、ずっと浮足立っていた。



「もっとちゃんと痩せていればよかった……」

「夏を目前にした女子か。それに、痩せちゃ駄目よ。あくまでポテンシャルを残した上で、絞り込むの」

「へーい」



 途中、スーパーで買い物を済ませる。案の定、上長や他の従業員に見つかって冷やかされまくった。いっそこれで体が縮み上がってくれればいいのにと嘆けば、兎萌から、質量は変わらないでしょうにと訂正された。そういうことを言ってるんじゃないやい。


 かくして我が家に彼女を招くと、いそいそと気持ちテンションの高い母が現れた。



「こんにちは兎萌さん。いらっしゃい」

「お邪魔します、英さん。すみませんが、水やらガスやら、お借りしますね。もちろん、そちらもお支払いいたしますので」

「そんなの気にしないでちょうだい。いずれはそれが当たり前になるかもしれないんだし」

「母さん!?」



 気が早すぎる母に、葵は思わず待ったをかけた。しかし、あちらが立てばこちらが立たず、もとい、こちらを防げばあちらを防げず。



「その時はその時ですよ。今は、まだ」

「兎萌!?」

「あらあら、まあまあ。じゃあ、楽しみにしてるわね」

「母さん!?」



 うふふおほほと口元に手を当てて笑う母と兎萌に、葵は観念した。


 女性はどうしてこんなにメンタルがタフなのだろうか。それこそ葵などは、『それが当たり前』になる未来がどこかへ弾け飛んでしまったりでもしたらどうしようかと、不安で仕方がないというのに。


 彼女たちの話に一区切りがついたところを見計らって、強引に引き剥がすことに成功した葵は、家の設備の簡単な案内を済ませた。



「仏間にお邪魔してもいい?」



 そうせがまれて連れていくと、兎萌は仏壇に飾られた遺影を見るなり、やっぱり、と呟いた。



「やっぱり?」

「ん。私が小さい頃に、葵のお父さんと会ったことがあるんだ」



 彼女は腰を下ろし「膝伸ばしでごめんなさい」と軽く手を合わせてから、線香に点けた火を振り消した。






 * * * * * *






「あ、黒――」



 気がついたときには、兎萌の視界でパンツが舞っていた。


 当時は幼いせいか、よく理解できていなかった。後になって、あれは下着泥棒が撒き散らした獲物だったんだと知った。


 ただ一つ、鮮烈に記憶に残っていたのは、その泥棒を成敗したヒーロー。

 色とりどりのパンツの中で、勇猛果敢に飛び蹴りを放っていた、品の良い黒のスーツ。そしてそこに螺鈿で細工をしたような、美しい金色の髪。


 何より印象的だったのは、着地して振り返った彼の、無邪気な笑顔だった。



「怪我はないかい、お嬢さん?」



 変な人だと思った。


 自分はただの通りすがりで、何の被害にもあっていない。今になって考えれば、そもそも下着泥棒からすれば小学生の自分はターゲットでも何でもないのでは? とも思える。

 守られた実感がないから、よくわからないけれど。


 ぎこちなく疑問形でお礼をした私に、英国紳士は、にっこりと温かく笑った。



「こちらこそ、ありがとう」

「どうしておじさんがお礼を言うの?」



 首を傾げると、彼は頭を撫でてくれる。



「男はね、女の子を守りたくて仕方がない生き物なんだ。その頑張りを認めて、お礼を言ってもらえたなら、これほど嬉しいことはない。君みたいにきちんとお礼を言える素敵なレディに出会えたことも、この上ない喜びなんだよ」



 変な人だと思った。


 父のように、自分が何かすれば『どうだ、やってやったんだから礼を言え!』といわんばかりにふんぞり返っているわけでもない。

 兄のように奥手なサポートをして、好きな子からお礼を言われれば『べ、別にお前のためじゃねーし?』と、嬉しい心を隠してしまうわけでもない。



 ただ、人を助けることは当たり前だと、行動しているだけ。

 お礼を言われることが当たり前ではないと、理解しているだけ。

 そうなれるように努めて生きているだけ。


 もっとも、その『だけ』がどれほど難しいことなのかは、当時の自分には想像もできなかったけれど。



 瞼の裏に焼き付いたキックに憧れるには、十分だった。






 * * * * * *






「形から入ろうとしたのかなあ。たまたまお兄ちゃんがキックジムに通っていたから、ついて行くようになってね。今ではご覧の通り」



 手を合わせたまま、近況報告のように話し終えると、兎萌は蝋燭の火を消して座布団から下り、振り返った。



「……なんでそんなぽけーっとした顔してるのよ」

「いや、その。パンツの辺りから話が頭に入ってこなくて」

「いっちゃん初めじゃないの!」



 呆れたとばかりにため息を一つして、彼女は苦笑した。


 葵は鼻を掻く。嘘をついた。もしかしたら、こちらを見上げる瞳には見透かされていたかもしれないけれど。


 『蹴り姫』を生んだきっかけが自分の父であることに、心が震えて仕方がなかった。



「お父さんのお名前、なんていうの」

「ジョージ」



 答えると、兎萌は何度かそれを口の中で反芻して、また仏壇の前にちょこんと腰を下ろした。



「ジョージさん。絶対勝たせますんで。葵をちょっとお借りしますね」

「そういうのは口に出さないか、俺がいないところでやってくれないかなあ!?」

「あ、間違えました。ちょっとじゃなくて、一生。死ぬまでお借りします」

「――っ」



 思わず顔を逸らした。

 一瞬、視界の端で、遺影の父が微笑んだ気がした。



「照れてる?」

「うるせー!」



 やっぱり自分は、この先も彼女に頭が上がらないらしいことを、葵はこの時悟った。

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