『川樋葵は勝つ』という偏見(*兎萌視点*)
兄のテンカウントが告げられ、模擬試合はKOで終わった。
決着しても、勝者の腕を取り掲げる人間はいない。セコンドとして控える百目鬼も、当たり前のような顔をしているだけだ。
そうでしょうとも。あんたたちが勝つだろうことは、私だって解っている。
腕組みをしたまま動かず、兎萌は黙っていた。
リングの中央では、葵がうずくまり、立ち上がれずにもがいている。
「ルーキーの介抱はしなくていいのか?」
リング際までやってきて見下したような目の釈迦堂に、兎萌はめいっぱいに口角を吊り上げた。努めなくても、自然とそうできた。何故なら、わざわざ案内しなくても、鴨は葱を背負ってSランク席に来てくれたのだから。
「別にいいんじゃない? 意識はあるようだし」
「薄情だな。他の奴らも動きやしない。こんなジムがあるとは思わなんだ」
「私が事前に根回ししたんだもの。『川樋葵がKO負けをしたとしても、意識がある限りは手を貸すな』ってね」
「何……?」
釈迦堂の顔が歪む。痛快だった。あんたのように強者ぶっている人間に、理解できないものをぶつけた時の表情と来たら、糖分で飽和させたシロップよりも、ずっと甘い蜜の味。
ごめんね、葵。兎萌は心の中で頭を下げた。もう一つだけ、隠していたことがある。上野に喧嘩をふっかけた理由は、そういう趣味もあったということ。ほんのちょっぴり、一割くらいだけ、だけれど。
だから、誤解を招かないように、一応、これだけはホントだって、言っておくね。
「葵は、釈迦堂舞流戦には負けない」
「お前は何を言っている。既にKOは決まって――」
そこまで言いかけた舞流戦が、拳統王の焦った声に振り返った。
兎萌は胸を反らす。すごく誇らしいから。
「な――ん、だと」
見開かれた釈迦堂の視線の先には、もう目の焦点も合わず、ふらふらとなっているものの、立ち上がった葵がいた。
「…………ここぞと思った時にだけ……全力で……」
それどころか、少しずつ、しかし確実に歩き出している。
やがて釈迦堂の目の前まで辿り着いたチャレンジャーは、拳を振り上げ、ぽすん、と弱々しい音を立てた。
いいえ、前言撤回。物理的には弱々しい音を立てた。だって、今のパンチで、誰かさんの心は大きな音を立ててひび割れたのだから。
「やっぱ最っ高だわ、あなた」
カッコ良すぎて涙が出そうになる。
今この瞬間、川樋・ホーリーホック・B・葵という人間は、釈迦堂舞流戦にとって、唯一の存在になった。彼がそうさせた。成し遂げた。これ以上の歓びがあろうか。
兎萌はリングによじ登り、葵の体にタオルをかけ、リングに寝かせてやると、体中に噴き出た汗を一つ一つ、丁寧に拭いていった。お疲れ様、お疲れさまと、念じながら。
「防具着用の上、手心を加えたとはいえ。逸材の言葉に偽りはないようだ」
「当たり前よ。百目鬼くんにコテンパンにあしらわれても、目の前で『羽付き勇魚』のKOを見ても、キックをやりたいなんて言ってのける
ざまあみろ。まるで旦那を自慢する嫁の気分で、兎萌は釈迦堂に中指を立てた。
釈迦堂たちを追い返した後、会員の皆には早めに上がってもらい、クローズの札をかけた。
「いくらなんでも、勝てないわよ」
照明を間引きした薄明かりの中、壁にもたれていると、帰り支度を済ませた明日葉から開口一番、お小言を言われてしまった。
ボブの夕方の散歩がてら、兄には先に帰ってもらっている。つまり、ガールズトークだ。
「兎萌さんだって分かっているでしょう。絵本のように上手くなんて行かない」
「でしょうねえ」
杖を弄びながら、兎萌は答える。
「でしょうねって、貴女……」
「けれど、私たちって、別に勝ち負けで勝負しているわけじゃないじゃないですか。あの日の先輩だって、そうでしょう? 勝てる勝負だったから、机、ぶん投げたんですか?」
問いかけると、明日葉は押し黙った。光の反射で遮られていて、眼鏡の奥までは窺えない。
少し、ズルい言い方をしてしまっただろうか。けれど、仕方がない。こちらとて考えを変えるつもりはないし、そもそも、そんな権利もない。
決めていいのは、彼だけだ。
「世の中、偏見で溢れすぎなんですよ。あいつの髪が地毛だろうが、母子家庭のお母さんを支えるためにバイトしてるとか、そんなのお構いなしに、皆よってたかってあいつを不良と決めつけて。葵が何をしました? 明日葉さんが三年の時に私たちが一年でしたけど、悪いことをしている金髪クンの話なんて、聞きました?」
「ないわね。たまに後ろ姿を見かけたことがあるくらい」
「でしょう? それでも葵は受け入れて、向こうの土俵(じょうけん)で戦う覚悟まで決めたってのに、次に出てくる言葉は『勝てない』だ。何ですかそれ」
笑ってしまう。きっと、彼が勝利を手にしたところで、外野は「時の運」と言うに違いない。馬鹿馬鹿しい。時の運とは、勝った者だけが口にしていい言葉だ。負けた者が口にする場合、それは「運で負ける程度の努力しかしてきませんでした」と、白状しているようなものなのに。
そしてそれは自分たちの下馬評にも言えることだと、どうせ奴らは気が付けないから。明日もまた、石を投げる。主は「罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と仰ったそうな。その世界はきっと平和なのだろう。だって、民衆は罪を自覚しているのだから。
現代社会にイエス・キリストが現れたとして、果たしてどれほどの人が立ち去るだろうか。
「一人くらい、『川樋葵は勝つ』という偏見を持ったっていいじゃないですか」
兎萌は絞り出すように言った。私は、石を民衆に向かって投げる人間になりたい。
「でも本当にいいの? もしも負けたら、兎萌さんは」
「別に絵本じゃないんですから。私のために争わないでえ、なんてお姫様気取るつもりはありません。それに――」
言葉を切って、壁の後ろを指さす。
打ちっぱなしのコンクリートの裏側は、男子更衣室から繋がるシャワー室だ。
「あいつなら、本当にやってのけるかもしれませんよ」
「えっ……?」
口の前で指を立てて見せると、明日葉もそれに倣った。
静まり返るジム内で耳を澄ませば、小さな声が漏れ聞こえてくる。
葵の嗚咽だ。
大抵の音は遮断される設計で、事実シャワーの音さえ聞こえないのに。慟哭のような魂の大雨は、壁を突き抜けて、こちらの胸まで届いてくる。
「ただの素人が、全国一位に打ちのめされて、わんわん泣くほど悔しがります?」
肩を竦める。すると、顔の位置を変えたことで見えるようになった明日葉の目が、見開かれるのが分かった。
「まさか、釈迦堂さんとフルスパさせたのは……」
「正解です」
にやっと、蹴り姫は笑って返す。
「仮想敵がいないとシャドウができないんじゃあ、その仮想敵を作ればいいでしょう?」
「じゃあ、負けた葵くんに手を貸すなって言っていたのも」
「正直、賭けでしたけどね。ただボッコボコにされるのと、一発かませたのとでは、折れた後の心のくっつき方が違いますから」
格闘技は新規の選手が入りにくいと言われる。それもそのはずで、殴り合うだなんていう野蛮な行為に、進んで参加したい人間は少ないからだ。その点は、自分がキックをすることに反対した両親の気持ちも、分からないではない。
そうした敷居をひょいと超えていく筆頭が、やんちゃな方々。けれど弱者を見繕ったカツアゲやリンチとは訳が違うから、調子に乗った鼻先を叩き折られて、辞めてしまう。
そこまでの通過儀礼を経て残るのは、存外、馬鹿真面目な人間ばかりだ。その思いを載せなければ、拳なんて振るうことができないと知っている、優しい人たち。
ただそれも、経験の機会さえなければ、いたずらに潰してしまうだけになりかねない。
「そっか、そこまで考えていたなら、降参だなあ」
んっと伸びをして、明日葉は置いていた鞄を拾い上げた。
「私は先に帰ってるから、鍵はよろしくね」
「はあい。……っと、明日葉さん。最後に一つだけ」
「ん?」
歩き出したところで、首だけこちらに向け、傾げる。
「明日葉さんの力を、私たちに貸してくれませんか」
「うん。私で良ければ、ぜひ」
そう言って明日葉は、ふわりと髪を揺らして、ジムから出ていく。
一人残った兎萌は、じっと、静寂が戻るのを待っていた。
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