敗北の淵の笑み

 勇魚が用意してくれていたパンツに着替えて、葵はリングに向かう。

 リングロープからよじ登ってきて脛当てを装着してくれていた兎萌が、不意に目を伏せた。。



「先に謝っておくわ。これから葵には大変な思いをしてもらうことになる。ごめんね」

「次に謝ったら張り倒すぞ。俺も、あいつの敵に回っただけのことだ。文句あるか?」

「そ、そう? そっか。うん、ありがと。葵のくせにカッコいいこと言うじゃん」

「だろ。すっげー奴からの受け売りなんだよ、コレ」



 笑って見せると、彼女は顔を真っ赤にして、肩に拳を打ち込んできた。こちとらスパーリングとはいえ試合前だぞ、おい。



「なまいき」

「お前もな」



 ぷくうと頬で怒ってますアピールをしていた兎萌は、すぐにじっと真剣な目に戻って、



「今日の葵の課題。攻撃していいのは一回だけね」

「一回だけ……?」

「そ。それ以外はとにかく守る。ここぞと思った時にだけ、全力で、ぶん殴りなさい」



 それだけ伝えると、「生存を祈る!」と拳を突き合わせて、リングの外へと下りて行った。

 そんな彼女の背中に、葵は何も言えずにいた。健闘じゃないのかよ! だなんてツッコミをしたところで、今の自分では、いっぱしの戦いにさえならないことは理解していた。


 けれど、許された。たかが一発。されど一発。



「……うしっ!」



 グローブで頬を叩き、立ち上がる。

 こうしてリングに立ってみると、想像していた世界と、感覚が随分違うことに驚いた。


 練習を切り上げて見物に来た他のジム会員は、一体どうなるものやらと口々に予想を立て合い、盛り上がっている。けれど、最高潮となった会場の熱気! 高まるボルテージ! なんていう高揚感は、葵にはなかった。


 興奮していないわけじゃあない。気概と、ある種の怒りはたっぷり腑に落ちている。


 対角で喉を鳴らしている獰猛な獣に、特別怯えているわけでもない。

 ただ、夏の咽返るような日差しと湿気の中で遠くに聴こえるセミの声のように、むしろ雑音のようにさえ思えてしまう。それでいて、相棒セコンドの「落ち着いてかませ!」という声はちゃんと拾えるのだから、不思議な感覚だった。



 審判を請け負った勇魚の呼びかけで、葵と舞流戦はリングの中央へ向かう。


 まず、説明がなされた。二分一ラウンドで行うこと。顔面への膝蹴り禁止、グローブ内側でのひっかけや、抱え込みの禁止。後頭部や金的はOKなのかと思ったが、後で訊ねたところ、その辺りの基本ルールに関する部分は割愛されるらしい。



「以上です。よろしいですか?」



 頷く。もう一度、小さく頷いた。視界の端に映る勇魚の目が、心配げな色を孕んでいたからだ。ああ、こういうところも兄妹そっくりだ。



 一度別れてから――ゴングが鳴る。



 素早く構えの姿勢をとった舞流戦が、左拳を伸ばしてきた。


 思わず顔を庇うようにして下がった葵だったが、すぐさま二度目のジャブが飛んでくる。



「(早いッ!?)」



 パンチを繰り出すことに一拍の時間を浪費している相手と、躱すことに徹底しているこちらとで、何故か縮められていく距離に、葵は混乱した。


 風を切るグローブに腰が抜け、前につんのめったグローブが殴り落される。


 見えなかった。大きく振り抜くのではなく、手元に引き込むような抜き方のパンチ。コンパクトでいて、力強い。思いがけない重さを得た葵の手が、重力のままにバランスを崩す。



「そっちに気を取られていていいのか、ルーキー」



 ハッと顔を上げると、舞流戦の右拳が眼前に迫っていた。


 グローブの赤が視界いっぱいに広がる、そのわずかな瞬間に、体が竦んだ。場所の感覚も、相手も視認できず、ただコンマ数秒後にうちのめされる未来が待つだけの恐怖。


 バチンと顔が熱くなり、葵はたたらを踏んだ。涙が出そうになるのを堪えてどうにか瞼を開くと、うっすらと見えた舞流戦の足下が、地を蹴った。



「(上か!)」



 顔を上げ、大砲のように飛んできた膝へ防御姿勢を取る。だが直後に思い出した。顔面への膝蹴りは禁止事項だったはずだ。


 かといって、ならばどうすればいいというところまでは考えが至らない。そうこうしているうちに、中途半端なところでもたつく葵のグローブに、膝が突き刺さった。

 まるで鉄球でも当てられたみたいだ。グローブ越しでなければと思うとぞっとする。


 吹き飛んだ体はリングロープに当たり、跳ね返された。掠った頭が反動に揺れる。葵はまた、認識の違いを理解した。リングロープは安全のための柵なんかじゃない。壁まで押し出された敗北者を無慈悲に押し返す、棘の壁だ。



「ほう、止まれたか」



 ダウン判定となり、仕切り直される直前、舞流戦がほくそ笑む。



「(止ま、れた……?)」



 テンカウントの中、葵は手の痛みを庇いつつ、必死で頭を回した。



「そうだ。カウント中はすぐ構えず、考えるといい。――ヒントをやろう」



 そう言って奴は挑発するように、グローブを顔の部分まであげたガードの姿勢を取って見せる。その意味を理解した葵は、戦慄した。



 素人の習性だ。頭を庇って、ダンゴムシのように丸まるガード方法。つまりあの時、禁則事項を思い出せずに顔までガードを上げていれば、膝の鉄槌がぶち当たっていたのは、露出した前腕部分となる。あんなものをまともに喰らっていたら、最悪腕が折れていたかもしれない。


 そして、釈迦堂舞流戦はそれを狙って飛び膝蹴りを放った――?



「葵、構えて!」



 兎萌の声で我に返る。そろそろテンカウントが終わりへ近づくことに気付いて、慌てて拳を立てた。だが、身構えはおろか、心構えすらできていない。



「(怖い、怖い、怖い!)」



 一瞬で距離を詰めてくる舞流戦の拳も、打ち所を間違うだけで大怪我に繋がる膝も、鼻先を掠めてくるつま先も、逃げた先で待ち構えるリングロープも。


 周囲の歓声だって、もはや全身にのしかかる重圧でしかない。


――ここぞと思った時にだけ、全力で、ぶん殴りなさい。


 悪い、兎萌。それどころじゃねえわ。



「折れたか。思ったよりはったた方だが」



 嘆くように舞流戦が呟き、パンチを放ってくる。


 葵は、頬が波打つのを感じていた。視界がぐるりと回転し、天井が見えたかと思うと、リング外のギャラリーが視界に映った。皆、痛ましさに同情するような表情で、こちらを見ている。


 ああ、俺、やられたんだ。このまま無様にぶっ倒れるんだ。



「――まだ終わらせんよ」



 それは、地獄からの囁きだった。


 諦めに閉じかけた目が、再び赤で埋まる。


 ヘッドギアの隙間ギリギリ、鼻の根本からこそぎ取るように打ち上げられ、葵の視界はテープを巻き戻しするかのように逆流していき、やがて、反対方向へと投げ出された。


 足が地に着いている感覚などもうとうに無くなっている中、他人事のように映る景色は、まるでゲームオーバーを告げる死亡ムービーのようで、すべてを無に帰していく。


 ぼんやりと、舞流戦の異名が『二殺拳』であることを思い出す。もっともそれは、二度刺して殺すのではなく、二度刺して二度とも殺す、二撃両殺の技。一発目だけではテンカウントで復帰できる選手も、もう一発喰らってリングに沈む。一発目を耐えられない選手は、もう一発ぶち込んで完膚なきまで砕き折られる。


 葵は、巻き戻しの次にスロー再生をしてくれる残酷な演出家いしきの中で、一人だけ、ギャラリーとは違う、自信たっぷりな目でこちらを見ている少女に気が付いた。



 なあ兎萌。どうしてお前は、そんな風に笑っていられるんだ?

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