降ってきたパンツ

「あ、黒――」



 気がついたときには、川樋かわといあおいはパンツに顔面を蹴りつけられていた。

 受け止めようと身構えてはみたが、横からおまけに飛んできた松葉杖に足を取られ、そのまま雪の上へと倒れ込む。


 頬を挟むなめらかな感触は、筋肉の付きがよくて少し首が締まりそうである上に、スカートに顔を覆われたことで、絶対に息をしてはならない魅惑の香り空間。そんな生殺しの牢獄に閉じ込められた葵の思考回路は、このまま物理的にも社会的にも死んでしまうのではないかと、一抹の不安にぐるぐる渦を巻いていた。



「あー、いたたあ……」



 週末の土曜日に担任教師から呼び出され、残酷な宣告を突き付けられただけでも気が滅入るというのに。夜の待ち合わせ時間まで気を紛らわせようと散歩した結果、女子高生のスカートの中に顔を突っ込むなど、泣きっ面に蜂もいいところである。今は冬だぞ、くそ。



「ごめん、大丈夫? ってあなた、川樋くん……よね?」

「ああ……いっそこのまま社会的に死ぬのもアリかなあ」

「はっ? ちょ、ちょっと。変なところ打っちゃった? ごめんね。ほんと、大丈夫?」



 降って来た少女が手早く雪を払って、体を起こしてくれた。



「どっか痛くしてない?」

「えっ、ああ、うん。問題ねえよ」



 葵はそう言うと、自分がひっかけたことで飛んで行ったらしい松葉杖が、歩道の縁に寄せられた雪の塊に突き刺さっているのを見つけ、引き抜いた。


 少女に渡そうとしたところで、首を傾げる。

 自分と同じ高校の、女子の制服。そして、松葉杖。


 振り返ると、ほんっとごめんねと両手を合わせている、見覚えのある顔と、雪に濡れて乱れた長い黒髪。顔立ちは清楚系美少女のそれでありながら、下校時の服装は制服の上にジャージを羽織る、着崩したガーリィなもの。



「お前、羽付はねつきか!」



 葵は手を打った。彼女は羽付兎萌ともえ。クラスメイトだ。



「今っ更気付いたんかーい! 隣の席でしょうが、私ら!」



 彼女は松葉杖を受け取るや否や、杖の先でターンッ! と地面に突いた反動を利用して、鋭い右のミドルキックをかましてきた。


 内臓がこそげ取れたかと錯覚するような痛みが脇腹を襲う。かなり力を抜いているだろうことは分かるものの、それでも一般ピーポーには馴染みなんてあるわけがない。



「ごふっ……さ、さすが、『蹴り姫』……」

「蹴り姫言うなし。そのあだ名、あんまり好きじゃないのよね。かわいくないもん」

「そうか姫ってかわいくないのかー。じゃあ、元・天才キックボクサー?」

「元じゃないが! まだまだ現役よ」



 羽付はつんと顔を逸らし、松葉杖にもたれた。

 ハムスターのように膨らませた頬で主張する怒ってますアピールがどこか可愛らしくて、つい、葵の悪戯心が首をもたげる。



「そうかあ? 今さっきハイキックかまそうとして滑って転んだ奴が、現役ぃ?」

「そのおかげで私のパンツを拝めたんだから役得でしょーが」

「み、みみみ見てねえし!」

「ふうん? 『あ、黒』」

「申し訳ありませんでしたあああ!」



 見事な返り討ちに玉砕した葵は、真っ赤になった顔を冷やすべく、雪へ頭が突っ込まんばかりに土下座した。



「まあ、いつもはトレパン穿いてるんだけど、怪我して練習どころじゃないからってテキトーこいてた私も悪いんだけどねえ。うりうり、頭が高いぞ、もっと伏せろー」



 けらけらと笑いながら、松葉杖で周囲の雪を飛ばして追撃されるのを、慎んで受ける。



「ところで羽付さん」

「んー? なんだね変態さん」

「変態じゃねえし。当のハイキックかましそこねたお相手さんは、どうすんだ?」



 立ち上がって、指をさす。


 そこには、こちらのやり取りに置いてけぼりになりながらも、未だこの場を離れようとはしない、眼鏡をかけた青年がいた。男の自分から見ても整った顔立ちをしている。今日の祭にかこつけて女子高生を狙いに来たのだろうか。イケメンめ。


 青年は眼鏡の端を挟むようにつまんで直し、挑発的に目を細めてきた。



「ああ、百目鬼どめきくんのことを忘れてたわ」

「なんだ知り合いかよ。てっきりナンパかと」

「なーるほどねー。私を助けようとしてくれたんだ」

「べ、別にお前のためじゃねえから」

「はいはい。私と気が付かないでも駆け付けてくれたヒーローさんだもんねー? ま、実際アレは、ナンパみたいなもんだし、正解」



 髪を指で梳きながらため息を吐いた羽付だったが、ふと、こちらを見てにやりとした。蹴りさえなければ美少女だなんて印象が一瞬にして吹き飛ぶような、悪魔的な笑みである。


 まずいまずいまずい。俺はこの笑みを知っている。父が何かを企み、子供の自分をを巻き込んで何かをやらかした――後の、母の顔だ。とてもとても、写真写りが良さそうで。はい。


 脳が打ち鳴らした警鐘に、葵は思わずたじろいだ。彼女が戦闘民族キックボクサーだということを、自分で言いながら失念していた。彼女は蹴り姫などという生ぬるいものではなくい。今目の前にあるのは、粉うことなき狩人である。



「ねえ、葵」



 語尾にハートが付きそうな甘い声色の圧力に、葵はついに一歩も動けなくなった。

 これは、逆らえば殺される。



「ナ、ナンデショウカ、羽付さん」

「やだなー、兎萌って呼んでって言ったじゃん?」

「は、はいぃ?」



 おいおいおいおい、そんなこと言われた覚えはねえぞ!


 返答に戸惑っていると、彼女は表情をそのままに、ドスの効いた低い声で囁いてきた。



「ぱ・ん・つ」

「なんでしょう兎萌様!」

「と・も・え」

「はいっ、なんでしょう兎萌……さん!」

「さん?」

「サーと言ったのでございます、サー!」



 葵がぴんと背筋を正し、軍の訓練のように応答をすると、羽付も松葉杖を教鞭のように手で弄びながらよろしい、と満足げに頷いて、青年の方へと向き直った。



「と、いうわけなんで。あいつにはそう伝えておいてくれる?」

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