第23話 というわけで半年後

 冬が過ぎ、春も過ぎ、初夏。木々はすっかり緑に染まっている。



*****



 鍛え抜いた両脚を回転させ、森の小道を疾駆する。道は緩い上り坂だが、凸凹でこぼこしている上に石やら木切れやらが落ちていて、決して走り易くはない。

 しかしゴキブリにとっては、アスファルトの上を走ることと大差ない。


 それにもかかわらず必死なのは──


 走りにくいからではなく、迫りくるプレッシャーが凄まじいからである。


「あと十歩」


 聞こえるはずのない声に、どくん。


「あと五歩」


 着実に近づいてくる足音に、ぞくり。



 ついには真横から、声。ゴキブリは横を向かず、さらに加速しようと足に力を込めた。

 強く踏み込み、弾く。ぐんと体が浮かび上がるような感覚。確かに加速したはずだった。しかし彼女はすでにゴキブリの二歩前を走り、余裕の表情で顔をこちらに向ける。


 まだまだだね。


「くっそぉー!」


 それから走る女子高生ゆるふわ痴女を追いかけながら、長く続く坂道を上り続けた。



*****



「だいぶタイム伸びたねー」


 チュンチュンと鳥たちが鳴く。まだ早朝と言っても良い時間、場所はケトル公園である。

 ゴキブリ女子高生ゆるふわ痴女は、クールダウンのため軽く流すように走っていた。この半年ですっかり心肺、足腰は強くなり、1キロや2キロ程度の距離なら走っても大して疲れることはない。


 もちろん先程のように全力疾走すれば疲れるが、しかし全力で走らなければならないような相手は──この街なら、今ここにいると女子高生ゆるふわ痴女くらいしかいない。半年間、朝から晩まで走り続けた変態たちの末路である。


「そういえばそろそろだよね。また勇者が来るのって」

「勇者ってなんだっけ?」


 ゴキブリの言葉に、手でひたいを押さえる女子高生ゆるふわ痴女


「どうした? 第三の目でも開かれたのか?」

「開きかねない……。ねえゴキブリ。あたしたち、なんのために走ってるんだっけ?」

「え? 風になるためだろ?」


 今度は両目を押さえる彼女。俺、なにかおかしなことを言っただろうか。


「あのね、半年前に会ったでしょ。勇者」

「半年前……? え、どんなやつ?」

「うさぎの耳が生えてる白いゴリラだよ」

「お前……冗談ならもう少し考えて言えよ。そんなやついるわけないだろ」

「いや待って、あなたこそ本気で忘れてるの?」

「忘れるもなにも知らないぞ。もしそんなインパクトのあるやつがいたら、一度見たら二度と忘れないわい。つまり会ったことがないということだ」

「いやいやいや。待って、本気の本気で言っているの? あたしたちが毎日トレーニングしているのも、勇者に言われたからだよ?」

「いや違う。俺たちは風になるために走っている」

「いやいやいやいやいやいや。待って待って。あなたは本当に本気で、あの語尾に『にゃん』を付けて喋る人狼ワーウルフのうさ耳の白ゴリラ──勇者タコのことを忘れてしまったの?」

「猫なのか狼なのかウサギなのかゴリラなのかタコなのかはっきりしてくれないか? というか何度も言うが、そんなやついるわけないって……痛っ!」


 話に夢中になりすぎて、なにかにぶつかってしまった。大木にでも体当たりしたかのような感触だった。道の真ん中にそんなもの生えてたっけ。そんなことを思いながら立ち上がると──



 うさ耳の白ゴリラがそこに立っていた。胸筋をひくひくさせながら。


「内緒で見させてもらっていたにゃん。どうやらにゃんと鍛えられているようだにゃん。合格にゃん」


 その語尾に『にゃん』を付ける白ゴリラを目の前に、ゴキブリはあることを思い出していた。それはこの世界に来る前のこと。


「そういや友達から借りた一万円、返さないで来ちまったな」

「それは今思い出すことなのかにゃん?」

「いやいやそうじゃない」


 そう。借りた金のことなど思い出している場合ではない。ゴキブリは白ゴリラに近寄ると、その太腿を思う存分に撫でまわす。力強さだけじゃない、とんでもないバネを持つ素晴らしい筋肉だ。


「これほどまでの脚力を持つとは、貴様、只者ただものではないな」

「まあ伊達に人類最強を名乗ってはないにゃん」

「人類最強だと! なるほど、どこの誰かは知らないが、とんでもない大物のようだな」

「そろそろ面倒だから思い出しておけ」


 大袈裟なリアクションを取ったゴキブリの後頭部にスコーンとフライパンの打撃が炸裂する。殴ったのは、いつの間にか近寄ってきていたリンである。


「リンさんナイス!」

「ナイスじゃない! 痛えな……ん? あ! お前は半年前に会ったリンが恋焦がれている勇者──」

「急に明瞭に思い出すんじゃない」


 またパコーンとフライパンで殴られるゴキブリ。その様子を見て女子高生ゆるふわ痴女がくくくと笑う。


「相変わらず騒がしい連中だにゃん。でも嫌いじゃないにゃん。さてにゃ、これから拙者は冒険に行く準備をするにゃん。お前らも準備するにゃん」


 白ゴリラはウホウホと笑いながらそう言った。そしてゴキブリたちに背を向けると、彼は街の中心部に向かって歩き始める。

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