35.『――意気地無し』
「俺は、ルリのことが――」
時が止まったように静かだ。
俺の首を伝う汗も、ルリの頬を伝う涙も、全てを関係なく静寂が包み込む。
俺は、この後にどう言葉を続けるのだろう。
俺は、ルリのことをどう思っているのだろう。
そもそも俺に、答えを出すことなんて――。
「…………私の、ことが?」
ルリの催促に心臓が跳ねる。
ここまで口に出しておきながら、俺は続ける言葉を持ち合わせていない。
腑抜けだ、俺は。逃げの一手しか打てない、弱虫だ。
「――っ。ごめん。わからないんだ……」
生まれてこの方、色恋沙汰には縁がない。
仲良くできた異性というのはいなかった訳では無いが、ルリ以外は皆俺の傍から離れてしまった。
だから俺は、恋というものがどんな色をしているのか、どんな形をしているのか、それがわからないのだ。
だけど、そんな言い訳よりも。
たったひとつの理由で、俺は答えを出せなかった。
そしてそれは、この場において最も愚かな選択だった。
「――――意気地無し」
ぐしゃぐしゃのルリの顔と、悲痛な声。
そして、ドアの閉まる乾いた音だけが、たったひとりの部屋にいつまでも木霊した。
■
街の喧騒は、何も変わらずに騒がしい。
往来を行き来する人たちを見ても、ただ胸の寂しさが増すばかりだった。
「お待たせしました。ヌルリイカサンドとコーシーです」
「どうも」
ルリの行先はわからない。
彼女はS級冒険者だし、今までも一人で生きてきた。
だから、忽然と姿を消されたらそれが終わりの合図なのだ。
この気持ちは、2度目だ。
奇しくも、ここセドニーシティで。
共に歩みたいと思っていた人を、また手放してしまった。
しかも、今回のことは完全に俺が悪い。
俺の弱さと甘えで、ひとりの少女を傷つけてしまった。
「ほんと、嫌になるよ……」
「あらお客様。悩み事ですか?」
本当はこのカフェにも、ルリと来るはずだった。
約束をしていた。明日はあのカフェに行ってみよう、って。
俺はカフェというより酒場なタイプだけど、ルリはきっと楽しみにしてくれていた。
好きな人とカフェに行くことを。
「自分の馬鹿さに嫌気がさしていたところです」
「私でよければお聞きしますよ。こう見えて、聞き上手なんです」
本当に聞き上手な人は自分で言わないだろと思いつつ、今はその気遣いが温かい。
女性絡みのトラブルで悩んでいることを女性に聞かせるのが何となく気まずくて、その顔を直視はできないけど。
「……ずっと、心に引っかかってる人がいるんです。今は何処か分からない所にいるんですけど、いつか戻ってきてくれると信じている。別に恋人ってわけでも、ましてや夫婦でもないんですけどね」
「愛しておられるのですね、その方を」
「そう、なんでしょうか。これは俺の独りよがりで、向こうはもう俺の事なんて綺麗さっぱり忘れてるかもしれない。なんとも思ってないかもしれない。もし戻ってきてくれても、気持ち悪いと思われるんじゃないかって」
日に日に、想いが強くなるのがわかる。
だけどこれは、彼女と共にいる時に育った感情ではないのだ。
いなくなってから、心の底で微かに灯り始めた感情の存在に気付き、知らないうちに自分で制御出来ないほどに大きくなりつつある。
そんな身勝手で我儘な感情だ。この感情の名前が分からなかったから、俺はルリを傷つけた。
「ふふふ、この世で一番独りよがりで押し付けがましい感情のことを、愛と呼ぶのですよ」
「これが、愛……」
「そうです、愛です。その気持ちを初めて知った時は、誰だって困惑するものです」
この歳になって、こんな命題で苦難するとは思わなかった。
だけど、そうか。俺は、愛を――。
「――今朝、女の子を泣かせました。その子は俺を好きだと言ってくれた。だけど俺は答えられなかった。俺の気持ちの在処がわからなかったんです。俺の心の中にあったつっかえと、その子に対する気持ちが同じだと思ったから」
「ふふふ、愛ですね」
「――これも、愛」
「愛です。お客様、女たらしですねぇ」
ルリに対するこの想いも、愛。
いかに色恋沙汰に疎い俺でも、一度に2人を愛するのはおかしい事くらいわかる。
「俺は、どうすれば」
「それは、お客様が決めることですよ。今まで正体がわからなかった感情に名前がついた。ならば、あとは選ぶだけです」
わからない。余計にわからなくなった。
タマユラに対する想いも、ルリに対する想いも、どちらもが同じ愛だと言うのなら。
同じ感情を向けた2人に、どう優劣をつけろと言うのか。
少し考えてみよう。
俺は、タマユラを尊敬している。俺が前を向くきっかけをくれた相手だからだ。
ルリも、同じS級冒険者として尊敬している。あんなに強大な魔法は、俺には扱えない。
俺は、ルリのことを可愛いと思っている。整った容姿はもちろん、親しくない人には見せない素直な内面が、たまらなく愛しい。
俺は、タマユラのことを可愛いと思っている。人によっては『可愛い』よりも『美しい』の方がしっくりくるだろうが、俺は彼女が実はうっかり屋で天然なことを知っている。
ルリは、俺を好きだと言ってくれた。俺もルリを好きなのだろうと思う。
タマユラは、タマユラは――。
――あぁ、恋に悩むというのは、こういうことか。
こうやって恋は人をダメにしてきたんだな。
それはとても面倒臭くて、苦しくて、魅力的なことだ。
「ダメですね。俺が偉そうに選ぶ立場ではない。心に引っかかってる人が、俺のことを好きなのかすら分からない。それなのに、それを理由に蹴ることも受け入れることもできないでしょう」
「それは違いますよ。どうあれ、欲しいのは答えのはずです。それがどっちに転んでも、お客様の意思が見えないよりはずっといいかと思いますね」
「――確かにその通りです。聞き上手というか、人の心をよくわかっておられるんですね」
「ふふふ、勉強しましたから。――私、実は1年ほど前以前の記憶が無いんです。自分がどこで何をしていたのか、自分の名前すらも。あてもなくふらふらとさまよっていたところを、ここのマスターに拾って頂いたんです」
衝撃だった。こんなに整然とした大人の女性に、そんな過去があったとは。
まぁもしかしたら、俺を励ますための作り話なのかもしれないが、俺にはどうしてもそうは思えなかった。
「新しい名前も付けてもらって、温かく迎え入れてくれて。その時、自然にわかったんです。――人を、想う気持ちが」
「――大変でしたね。記憶が無いと、不安でしょう?」
「いえ……以前の私が何者だったのかは、もうどうでもいいんです。大事なのは、今とこれからです。失った過去に悩むより、未来の自分に期待した方が得ですから」
ストン、と心の中で何かが落ちる音がした。
あるいは、カチッと何かが噛み合う音がした。
驚くほど視界はクリアで、今自分が何をすべきか、何を伝えるべきかを理解した。
全く、この店員さんには頭が上がらない。
こんなところで料理を運ぶより、貴方の言葉を必要としている人間が沢山いますよ――なんて言っても、この人が揺らぐことは無いだろう。だから、俺の救いになってくれたのだ。
俺はずっと見られていなかったその顔を、初めて真っ直ぐ見つめた。
「――やっぱり君だったか、アリア」
「――?」
「いえ、なんでもありません。本当にありがとうございました。俺の進む道は、決まりました」
「そうですか。では、行ってあげてください」
「はい、ごちそうさまでした。また来ます」
■
「探したよ。まぁ最終的には、ギルドで受付嬢に聞いたんだけどさ」
「…………ヒスイ」
セドニーシティから徒歩10分。
月明かりが照らす大木の下で、泣き腫らして真っ赤な顔のルリを見つけた。
「今朝は申し訳なかった。俺の気持ち、聞いてくれるか?」
「…………うん」
今度こそ、答えを出す。
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