普通に彼のこと、わたしの場合

オカザキコージ

普通に彼のこと、わたしの場合

 “あれからだいぶ経つというのに…”

録りためたビデオを見ながら、しつこく頭に浮かんでくる、様々な光景を振り払う作業に気をとられていた。

 “あのときは正直迷ったけど、けっきょくあの選択しかなかった”

間違っていなかったと、自分に何度も言い聞かせた。このままメールを返さなかったら、傷つかずに終われる。三、四カ月もすれば忘れられるだろうと思っていた。

 “なぜ、こんなことになってしまったの?”

自分でも分からなかった、理解できなかった。よく言われるように、頭が気持ちに追いつかないというか、感情が先へ行ってしまって置いてけぼりになってるって感じ。これまで、そうした話は何度も聞いてきたし、そのたびに「うまく、いかないものね」って返していたけど。実際に、自分がそうなってみると…

 “どこからともなく思いがこみ上げてくる、抑えれば抑えるほどに”

いっそ、からだにべったりと絡んでくれるほうがいいのに、と思った。表面に軽くさわるような感触がやっかいだった。あのとき、しっかり向き合って強く払いのけていればこんなふうになってなかった? ここまで引きずらずに済んでいた? いや、そんなかんたんには…

 “思い出というより、何かの断片というか”

どうしても記憶から消え去ってくれない、はっきりとした輪郭があるわけじゃなく、ぼんやりとした、たいして意味のないイメージ。でも、これがまたやっかいだってこと、はじめて分かった、身に染みた。ずっとやられっ放しで手足を縛られてる? 途方に暮れてる? ひとつのところをぐるぐると、抜け出せない? どうしても前へ進めない。

 “誰かか前にいても、話しかけられても、笑顔を向けられても…”

見えているのに見ていない、聞いているのに音がしない、微笑み返しているつもりでも…。うわの空って言葉もしっくり来ない、重たい、この感じ。つねにフィルターを通した半透明、もっといえば白濁した気分、透明なはずの空気のなかで。かすみの彼方に見えるものは? 手を伸ばしても、からだを前へ傾けてみても。

 “ぐっと沈み込んでは少し浮び上がる、その繰り返し”

漸減の法則? 結局は水平を保つどころか、少しずつ転がり下っていく。螺旋(らせん)を解いても巻き戻ってしまう、少しずつゆるんで垂れ下がって…。いつかゼロに行き着くの? 境界に近づくだけなの? それって死ということ? 楽になれるのなら…

 “どこへ行こうとしているの? このまま立っていられるの?”

遠近法で描かれた小道、その前に立ち尽くしている。行くも戻れぬ、ただ過ぎて時を感じるだけ。タブローの中へスポイルされていく、この縮小感。いつか点になり見えなくなるってこと? エターナル、そこは望んでいた地点、押しつけがましい空間に左右されないユートピア。それでいいの? わからない。


 こうして気を使ってくれるのはうれしかったけど、どこか、さらし者というか、慰められている感じが正直、不快だった。きっと、返す言葉にも表情にも、そんな感じが出ていたのかもしれなかった。わたしが場の空気を悪いものにしていた。

 「そろそろ帰る? ちょっと疲れた」

 「そうね、明日も仕事あるし」

 学年は一つ上だが同い年の女友だちが、皿の隅に寄せたパスタをフォークですくいながら言い出すと、横にすわるもう一人がうなずき、紙ナプキンでテーブルを拭き始めた。

 「きょうはごめんね、みんな忙しいのに…」

“…こうして集まってもらって”と続けようとしたが、やめた。そのあとのやりとりが面倒に思ったからだ。よく分かっているはずの彼女らにしても言葉の端々に哀れみというか、いまの自分らより不幸な者に対する、少し余裕のある話しぶりになっているの、気づいてないの? 慰められると分かっていて、次に放たれる言葉を素直に受け入れられるほど、わたし度量が備わっていない。とにかく、早く一人になりたかった。

 「じゃあ、また…」と言ったあと、思い出したかのように「…今日はありがとう」と言うのが精一杯だった。思いのほか、ダメージが強いと感じとったのか、彼女らも「それじゃあ」と言葉少なに店の前から離れていった。いつものように仲良し三人組が会せば、少しは気分が晴れるだろうと思っていた。彼とうまく行かないとき、勝手にもう駄目だと思ったとき、もう別れるしかないと居たたまれなくなったとき…。二人に話を聞いてもらい、愚痴に相槌を打ってもらったり、ときにダメな部分を指摘されたり。これまで何度も慰め励まし合ってきたが、今回はどうも効果がないらしい。

 空いた穴を塞ごうとすればするほど広がっていく。もしかしたら埋め合わせる術がないのかもしれない、そう思った瞬間、視界が歪み、軽い吐き気がした。自宅マンションのある最寄り駅に近づいていた。車窓から見える、点々とした灯りの連なりがいつも以上に無機質に感じられた。改札を出て、習慣のように入る駅前のコンビニを通り過ぎようとしたが、三メートルほど過ぎて引き返した。そういう気分でないはずが、まぶしい明かりに誘われるように中へ入った。デザート棚の前に立っていた。新作が並んでいないか、確かめるのが習慣だった。なぜ先週と同じラインナップなの? 落胆というほどのものではなかったが、今日は新しいものが居てほしかった。いつものやつを買う気にはなれなかった。

 けっきょく何も買わずコンビニを出て足早に自宅へ向かった。マンションのエントランスを通り抜け、郵便受けのチラシを無造作につかんでエレベーターの前に立った。きっと請求書の入った封書やダイレクトメールも混ざっていただろうが、いつものようにエレベーター内で仕分けする気になれなかった。チラシをつかんだ手をそのままに落ちないよう力を入れて通路を進んだ。自宅のドアの前までたどり着いた。カバンの中からうまく鍵を取り出して安心したのか、入った瞬間、思わず玄関先でチラシをばら撒いてしまった。しっかり握っていたはずなのに…。同時に涙がこみ上げ、抑えることができなかった。その場にへたり込み、動けなくなった。


 「お昼どうする? お弁当だっけ」

同期入社のとも子がめずらしく声をかけてきた。高卒の彼女は四つ年下だったが社内では気が合うほうだった。

 「今朝は作る気がしなくて。何か買いにいく?」

座ったまま振り向きざまに返事すると、彼女はわたしの腕にそっと手をやって「たまには外へ食べに行こうか、もう十分過ぎてるけど」

 意識して倹約してるつもりはなかったが、外でお昼を食べるのは、たいしたことでもないのに妙に気持ちが萎えているとか、これもはっきり原因が分からないけど変に気持ちが浮ついているとか、そうしたときに誰かがタイミングよく誘ってくれて、とけっこう条件が重ならないと行かなかった。今回はこれに該当しなかったが、女子社員がお弁当や菓子パンなどを持ち寄って集まる談話室へ行く気になれなかった。

 「何にする? 食べたいものある?」

 とも子は薄いベージュのカーディガンをはおって腕を組み、寒そうに背を丸めて顔をのぞき込んできた。今日にかぎったことでなかったがべつに食べたいものもなく、相手に合わすつもりでいた。「洋食でもいい? 少し離れてるけど待たなくても食べられるから」。そう言うので付いていくことにした。会社の入るビルの裏側、駅からさらに離れていくと“ひと昔前の”とか“昭和のかほりの”という形容がピッタリの趣のある喫茶店が見えてきた。とも子は店の前に立つと、わたしの様子を確かめることなく勢いよく扉を突いた。

 五人ほどが座れるカウンター席に、四人掛けのテーブルが一つと、二人掛けの小さなテーブルが二つあった。カウンターの端に白シャツに黒スラックスの中年男、その手前にライトブラウンの髪をした若い男が同じようにマンガ本を開き、カレーを食べていた。とも子が、奥の壁際の席に座るよう促すので身体の向きを変えて回り込むように腰を下ろした。テーブルに両肘をついてメニューを眺める彼女を前に、なぜか嫌な思いがよみがえってくるような感じがした。何の兆しもなく急に訪れる「それ」を振り払うように首を大きく二度三度、不自然に回したものだから、彼女はメニュー越しに驚いた表情を見せた。

 「ごめん、気持ちが落ち着かなくて」

 正直に、不安定な精神状態にあると告げた。男の話に限らず深く突っ込んで話をする間柄ではなかったが、どういうわけか、あのときのこと、それ以降のことについて、とも子には少し話せるような気がした。もちろん澱のように溜まった感情を吐き出すつもりはなかったし、仲のよい二人にも話さなかった、別れた本当の理由について触れるつもりもなかった。彼女はメニューを差し出すだけで何も聞こうとしなかった。

 「わたし、オムライスにするけど…」

 そう言うと、ケータイに目を落としてメールをチェックし始めた。メニューをめくるわたしに無関心なふうに、けっして顔を上げようとしない。「わたしも同じオムライスにしようかな」。独り言のつもりはなかったが、彼女は反応せず下を向いたまま。メールを打ち終えたのか、しばらくすると後ろを向いて初老のマスターに「いつもの二つ、お願いします」と注文した。オーダーが通ったのか、それまでカウンター内で座っていたマスターが立ち上がり、フライパンをレンジに乗せる音がした。

 料理を待つあいだ、片肘をついて窓の外を眺めていると、彼女はおもむろに席を離れ、入り口付近に設えられた低い棚から週刊誌を二冊持って来た。何も言わず、そのうちの一冊をわたしの前に置いて、もう一冊を組んだ膝の上に乗せてページをめくり始めた。美容院ぐらいでしか手に取ることのない女性週刊誌のゴシップ記事を眺めていると、ほんの少しだったけど気分が和らいだ。「最近、営業部に入った男の子がかわいいって言うけど…」と、とも子は一瞬顔を上げてすぐに週刊誌へ目を戻した。「…それほどでもないように思うけど」と付け加えた。「どの子のことかな、そんな子、営業部にいたかな」と返事すると、「そうでしょ、そんな子いないよね」と大きくうなずいて笑った。

 マスター自らが白い皿を両手に、踊るようにカウンターから出てきた。テーブルの上の週刊誌を急いで膝へ移すと、半熟の卵がとろけたオムライスが目の前に置かれた。「お待ちどうさま」。もう片方の皿をとも子の前に滑るように置くと、サンダルの音を立てて颯爽?とカウンターの中へ戻っていった。とも子が顔を上げてニヤッと笑うので、こちらもつられて笑ってしまった。彼女は組んだ足の上に週刊誌を乗せたまま、紙ナプキンに包まれたスプーンの先を解いて軽く手を合わせた。わたしは小声で「いただきます」と言ってケチャップの乗った真ん中あたりにスプーンを入れた。「けっこういけるでしょ」と自慢げに言うのが何だかおかしくて、オムライスの上に顔を落としたまま笑いをこらえていると、彼女は顔を前へ突き出して「そうそう…」と楽しそうに笑った。そのあと続けて「…その調子」。わたしは勢いよくオムライスを口へ運んだ。

 五時きっかりに仕事を終えてビルを出た。まだ陽の光がまぶしかったが躊躇なく駅へ向かって歩き出した。軽い足取りとは言えなかったが、昨日ほど迷いがなかった。早く家へ帰っても取り立てて何をやるでもなかったが、余計なことを考えずしっかりルーティンをこなそうと思った。駅の改札を出ていつものようにコンビニに寄った。デザート棚の前をゆっくりとした足取りで通り過ぎ、ロールパンの大袋と何個か組み合わさったヨーグルトを手に取ってレジへ向かった。“これで週末まで、朝食はまかなえる”。夕食は冷蔵庫に入った残り物をアレンジして済ませようと思っていた。今日は、その日でなかったが洗濯したい気分だった。

 

 オートロックを開錠し、メールボックスを開けた。二、三日開けていなかったので請求書やダイレクトメール、チラシ類が雑然と出てきた。右手でまさぐり出し、左手へ移そうとしたとき少し重みのある封書を落としてしまった。ため息をつきながらが中腰になって拾い上げると手紙のようだった。エレベーターの中で右手に持ったままの封書を見直してみたが、少し斜め上がりの母親の字ではなかったし、父親が手紙を寄こすことはありえなかった、もちろん兄妹間で手紙をやり取りする習慣もなかった。バッグから鍵を取り出そうと、封書を他の郵便物と一緒にして左手にまとめて、右手でドアを開けた。雑然としたものどもも、鍵もシューズボックスの上へ投げ出して靴を脱いでいると、ちょっとした解放感とともに、ある既視感がじわりと身体のどこかに滲み出て来るのを感じた。

 このあと、夕食を終えるまで、日常の大まかな感覚が欠落し、ほぼ通常の意識に戻り得たのはソファーで天気予報を見ているころだった。明日は午前中くもり空でしだいに午後から晴れてくるという。テーブルの上の封書は開封されていた。もちろんわたしが開けたのだろうけど、はっきりとした記憶がなかった。きっと意識が飛んでいたのだろう、中から便箋を取り出すのも、その感触も、読むのも初めてのような気がして…そんなはずはないのに。何かがずれているのか、それが時間なのか空間なのか、どっち付かずの浮遊した感覚に戸惑っていると、どんどん記憶がさかのぼっていき、ある地点でピタリと止まった。

 たしか小学校の低学年で、季節は春ごろだったと思う。新学期を前に、そのころ仲のよかった同級生二人と職員室を訪れた。先生に呼び出されたのか、何か用があったのか、相談ごとでもしに行ったのか、思い出せない。ただ、いつもと違ってリラックスした気分で職員室にいたことだけは覚えている。そのとき、どういうわけか先生が新年度のクラス替えの名簿を見せてくれた。わたしだけでなく、あとの二人も自分の名前が記された名簿をドキドキしながらのぞき込んだことだろう。興奮した感覚が今でもけっこう残っていて、いつもは見せない先生の悪戯っぽい仕草が印象的だった。わたしは自分の名前を見つけた瞬間、大袈裟でなく絶望感に打ちのめされた。一人取り残された気分だった。友だち二人は同じクラスだった。

 職員室を出て、足早に運動場を横切り校門を抜けた。三人のあいだ、いや正確には一人と二人のあいだに気まずい空気がただよっていた。新学期から、わたしだけ離ればなれになる、そう考えるだけで顔色が真っ青になっていくのを感じた。どう慰めたらいいのか、戸惑っている二人の姿がよそよそしく思えて、さらに寂しさが募った。家に帰って一人、気持ちを鎮めようと机に向かってノートを開いた。思うがままに言葉を連ねてみたが、胸の奥が締めつけられる感じに変わりはなかった。ナイーブな甘酸っぱいものがこみ上げてくる、といったものではなく、ただ嫌な思い出だけが身体によみがえってきた。家への帰り道、二人の慰めの言葉が忘れられない。「新学期が始まっても、ずっと友だちなんだから」。そう言ってうなずき合う彼女らに疎外感というより、憎しみすら覚えた。

 手紙には、そうした思い出が綴られているはずもなく、心当たりのない、こちらの記憶にないことがらが長々と書き記されていた。他人が他人へ向けて書いた手紙をわたしが受け取り、読まされる理不尽。何らかの手違いで届いた手紙に対し、まともに向き合う必要はなかったが、誰かが誰かに思いを伝える手紙という性格上、そう簡単に割り切れなかった。身の覚えのない文面から連動して、どういうわけか頭に浮かんでくる記憶の数々。これまで忘れていた、こういうことがなかったら決して思い出さなかっただろう、コトどもモノどもが身体の中に押し寄せてくる、懐かしくも不快な、この感覚。手紙に書かれた、一つひとつのセンテンスやさらに短いフレーズと、そこから湧き上がってくるイメージ、それらに結びつこうとうごめく曖昧な記憶…。手紙を前に意識の堂々めぐりが繰り返される。異次元のとばりに立っているような気がした。

 けっきょく差出人の見当をつけることも、ちょっとしたヒントすら思い起こすこともなく数日が過ぎていった。帰宅するたびに、リビングのローチェストの上に無造作に置かれたままの封書にチラッと目を向けるだけで、ふたたび手に取ることも近寄ることもなかった。手紙は、身体のどこかに潜在している、今となっては厄介なイメージや思い出したくない記憶を顕在化させる仕掛けのようで、わたしの中でアンタッチャブルな存在になっていった。家の中に異物がある感覚というか、超越した者から遣わされた厳粛なもの、いや呪われたものがそばにある、そんな感じだった。キッチンで野菜を刻んでいるとき、寝室で眠りにつくとき、もちろん封書が目に入るリビングにいるとき、不可思議で不気味なものが意識の淵に点ってしまう。この世の論理では捉えられない、何かを秘めているようで。それは表層に対する深層、本来は表に出て来ない奥底に漂っている何ものか、形を成さない名無しの、のっぺらぼうの…。そこに微かな可能性が流れているのに気づくには、まだ時間が必要だった。


 「今日は何食べる? エスニック料理にでもする?」

 とも子とごはんに行く約束をしていた。あれから、たびたびお昼を共にするようになり、ときに二人でお酒を交えてカラオケで気晴らしする関係になっていた。彼女には付き合って五年の彼がいた。互いに結婚を意識してもおかしくない年齢だったが、具体的な話は出ていないようだった。よくいう空気のような存在かというとそうでもなく「ただたんに(関係が)希薄なだけ」というのが彼女の見方だった。香草を添えた前菜のあと、例の青みかかったクリーム状のカレーとライスが運ばれてきた。彼女は「ちょっと癖になるね」と言いながらステンレスのソースポットを傾け、豪快にライスの上へかけた。

 「そろそろいいんじゃない。二対二の飲み会、設定しようか」

 まだそういう気分でないのに、スプーンでカレーを混ぜながら当たり前のように普通に言ってくるので“そういうものか、別に構わないか”と勘違いしそうになった。こちらも“えっ?”という表情でなく普通に笑顔で返したものだから「それじゃ、誰か探しておく。いいのいたかな」。もう気分は合コンに行っているようで、いまさら嫌とも言えず、仕方なくスプーンを口へ運んだ。そのあと、いつものカラオケボックスで二時間、歌いまくった。前半戦はほとんどインターバルなく十八番を歌い合った。ちょうど一時間が経ったころ、お決まりのように追加の飲み物を頼んで後半戦へなだれ込む。別に決めていたわけではなかったが、バラード調のゆっくりしたテンポへ移っていく。途中で、おじさんが喜びそうな演歌や昔のデュエット曲も互いに顔を近づけ合って歌った。

 「ありがとう、ほんとうに…」

 そう言いかけて言葉に詰まった。彼女は歌い終ったあと、次の曲をエントリーしようとタッチパネルをいじっていた。顔を上げて一瞬、真顔をわたしに向けたが、すぐに「入ったよ、早くマイク持って」と促してきた。彼女はよく、いやすべて分かっていた。この数カ月間の、わたしの思い、気持ち、気分、底に溜まった澱のような感情まで、すべて。ひとところに止め置かせず、薄めて流れ去らせようと…。そうした意図があったかどうか、はっきりしなかったが、彼女がそう仕向けているように思えてならなかった。時間のチェックが入り、後半戦も終わろうとしていた。「あと一曲、行けるかな」。彼女はいつもより強いタッチでエントリーした。ついさっきまで処理に困っていたウエットなモノどもコトどもが目の乾きとともに収まっていくの感じていた。

 コンビニだけがやけに明るく、いつもと変わらず人の出入りがあった。でも、午後十時も過ぎれば駅前でも人がまばらになり、心細くも気持ちを穏やかにさせてくれた。いつもの癖でデザート棚の前に立ち止まり、チェックを入れた。そろそろニューフェースが並んでいるころだろうと少しかがんで見ていると、ある既視感にとらわれた。それもだいぶ前のことのようで、現実にあったことなのか、夢で見た情景なのか、今となっては区別のつかない不明瞭なイメージだった。小学生の一、二年生、まだ黄色い帽子をかぶって通学していたころのようだった。「これは、君の?」と声をかけられて振り返ると、男の人が赤いマフラーを持って立っていた。

 わたしはその男を見上げた。実際はそれほど背が高くなかったろうが、当時は覆いかぶさるような、その大きさに言葉が出ず、顔が引きつっていたのだろう。その様子を見てとって男はすぐに屈んでわたしと目線を合わせ、優しい表情で話しかけてきた。どこかで拾ったわりには新しく鮮やかなマフラーを両手で差し出され、戸惑ったことを覚えている。このあと、そのマフラーを首に巻いて帰ったのか、自分のものではないと言って突き返したのか、記憶をたどっても思い出せない。もしかしたら、その日の朝、学校へ向かっている途中で道端に落とし、その様子を見ていたこの人が下校するわたしを待って渡してくれたのかも…。一番確率の低そうなことまで考えて夢想に浸っているとマンションのエレベーターまで来ていた。小さいころからずっと、赤が似合う女の子じゃなかったのに、とエレベーターの中で一人吹き出して恥ずかしくなった。

 “気がつくと…”と言ってもだいぶ前から意識していたが、総務部で上から二番目の女子になっていた。陰でお局さんと言われている先輩女子は、ほぼ結婚を諦めているようで、恋愛や理想の結婚の話になりがちな女子会に近寄らなくなり、社内の若手社員の噂話や付き合い始めたばかりの彼ののろけ話も、作り笑顔で受け止める役割がわたしに回って来ていた。でも最近では、合コンでなくてもちょっとした男絡みの飲み会にさえ誘われなくなり、先輩女子と同じようについにお局視されているのかと気分が落ち込んだ。だからといって、恋愛現役の彼女たちと足並みをそろえてとか、無理に調子を合わせようとか、もちろんそんな考えはなくて、一歩も二歩も下がって彼女たちを眺めていた。そんな自分に、寂しさを覚えたり、それこそ嫌悪することもなくなりつつあった。

 「そろそろ行くよ。下で待っていようか」

 とも子がいつもより濃い目の化粧でデスクの横に立っていた。彼女がいる企画部では、男性社員に混じって総合職で入ったキャリア女子が当たり前のように残業していた。高卒の彼女は、新規事業の立ち上げや十年後の事業計画の作成など全社的な仕事に関わることはなく、いわば部内の雑用係、コピー取りからお茶汲みまで補助的役割に甘んじていた。だから五時に一人、帰り支度をしても誰からも嫌な目で見られたり、引き止められることはなかった。というわけで、とも子はわたしのいる入り口付近の総務部へ堂々とやって来れた。「ごめん、会議用の書類、コピーしないと」。そう言って立ち上がり急いで複写機の方へ向かった。雑用を済ませて一階へ下りると、とも子はロビーチェアーの横に立ったままケータイを見ていた。息を切らしながら笑顔を作ろうとしているわたしを見て「急いだ割にきれいに仕上がっているじゃない」と髪の毛に軽く触れて微笑んだ。

 わたしは期待していなかった。どんな男が来ようと構わなかった。成り行きでこうなったと言えばそうだし、とも子の気持ちに応えるのが今回の目的と言ってもよかった。「あそこかな、うん確か」。彼女は時計に目を落とし、ちょうどいい頃合いという表情をして店の前へ進んで行った。実際は約束の時間より十分ほど遅れていた。九州特産の地鶏料理が評判の店の奥に、その二人はいた。店内へ入るなり分かったようで、とも子へ向かって一人が笑顔で手を上げた。「ごめん、少し遅れちゃって」と言いながら彼女は目配せして奥へ座るよう促した。久々の主役に悪い気はしなかったが“とうが立った”という古い言葉が頭に浮かび、表情が硬くなっているのがわかった。

 とも子の男友だちが店員を呼び止めた。「どうします、飲み物? 僕たちは生ビールにしますが」と聞いてきた。とも子はわたしの顔をチラッと見て、すぐに「こちらも同じもので」と店員に向かって言った。二人のときも生ビールから始めるので話が早かった。男友だちは「今日はわざわざすいません」と言ってメニューを差し出してきた。わたしたちは頭をつき合わすようにメニューをのぞき込んだ。いつも主導するのはとも子だったのでわたしは眺めているだけだった。彼女は男が好みそうな三、四点をすみやかに選び出した。彼は「取りあえずそれで」と言って店員にメニューを返した。彼の横にいる友人らしき男はそのあいだ、ずっと無言で表情を変えなかった。

 前に座る男二人を見比べてみると、たいていの女子はとも子の友だちに軍配を上げるだろう。顔の造りにたいして差はないように思えたが、受ける印象が全然違っていた。どう言えばいいのか、要するにもう一人の男は生気に欠けるというか、陰が薄い感じというか、黙っているからというだけでなく、いわゆる存在感に欠けていた。女の方が都合よく主導するにはいいかもしれないが、付き合い出せば退屈するだろうと容易に想像できた。でもその時点で、とも子が男友だちか彼の友人か、どちらを押しているのか分からなかった。聞けばきっと、とも子のことだから“どちらでも、お好きな方を”と言うだろう。わたしについて、男友だちにどう言っているのか、気になった。

 「うまいなあ。これ何ていう…」。男友だちが半分独りごとのようにつぶやくと、すかさずとも子が反応して「これ? 地鶏の南蛮焼き。ブロイラーと違っておいしいね、味わいあるというか」と的確な答えを返した。すると、かんたんに自己紹介してからずっと黙っていた、わたしの前の男が「宮崎の地鶏は特別なんです…」と発言した。ほかの三人の視線が同時に彼へ注がれたが、続く話はなく肩透かしを食らった感じになった。とも子は苛立ったときに出る早口で「宮崎県出身とか? 詳しいんですね」と取り方しだいでは皮肉のこもった口調で返した。まだ序盤戦なので会話がかみ合わないのは仕方のないところもあったが、男友だちがその横の男にどうレクチャーしてここへ来たのか、とも子だけでなくわたしも苛立ちを感じ始めていた。

 ちょうど一時間が過ぎたころだった。とも子が化粧直しから帰ってくると、言葉少ない男が突然「そういうつもりでなかったのに…」と言ったあと、ひと呼吸置いて「…すいません」。さらに場を壊すような不自然な言動に、わたしはとも子と顔を見合わせて“こいつ、何なの”に加えて、結構な怒りを含んだ表情を男へ向けた。すると、わたしの斜め前に座っている男友だちが「彼、別れたばかりなので今日は調子が出ないようで」とフォローしてきた。とも子が一瞬目を吊り上げて何か言いたげに前のめりになったが、ぐっと言葉を呑み込んだふうだった。“それだったら連れてくるなよ、こっちだって…”と言いたげだった。目の前にいる陰気な男と映し鏡のようで、わたしも責められているような気がした。すぐにでもその場から立ち去りたい気分だった。

 それなりに長く付き合ったパートナーと別れた者どうし、歳も近いし次に向けて気が合えば、ということだったのだろうけど、わたしにとっても、さらに無口になった彼にとっても、結果は安易なマッチングによる「このざま」だった。セットしてくれた、とも子と男友だちには申し訳なかったが、互いに好みが、相性がどうのという前にすべてはタイミング、別れたあとの月日が問題なのだろうと慰めるしかなかった。それぞれ元カノ、元カレと出会う前にこうして対面していたら違うストーリーがあったかもしれない。そう無理に思って前の男を眺めていると少しは苛立ちが収まるかも、と思った。でも片方の頭で、いつになったらこうした負の感情から開放されるのか、どの瞬間から正のエネルギーが湧いてくるのか、時の流れに頼っているだけでいいのか。違う意味で苛立つ自分を感じていた。

 このあと、とも子と男友だちが意識して盛り上げようとしてくれたが、二人の重症患者の前では傾いた勾配を少し持ち直す程度にしか、雰囲気は高められなかった。会計を済ませて店から出てきた男二人にわたしは頭を下げた。男友だちが「いいえ、大丈夫ですよ」と言うので、とも子が「わたしたち、いくら払ったらいいの」とケンカ腰に言い放った。彼は「今日はこちらで…」と叱られた子供のように消え入りそうな声で答えた。険悪になりそうな二人の間を取り持とうと、わたしは「今日はごちそうになり、ありがとうございました」と少し声を張って言った。彼の横に突っ立っていた男はそのあいだじゅう、ずっと下を向いたままだった。

 翌朝、とも子がコピーを取るような顔をして総務部の方へやって来た。わたしの後ろを通り過ぎて複写機の前で一瞬立ち止まるとターンして戻ってきて「今日のお昼、例の喫茶店で」。ポンと肩をたたいて、企画部の方へ帰っていった。とも子らの部署のように目新しいことに取り組むでもなく、ほとんどが月単位のルーティンの繰り返し。もう十年近くもやってきた仕事なので、たいがいのことに対応できたし、それこそ目をつむってでも出来る感じだったが、それさえも彼と別れてから、重たく負担に感じるようになっていた。総務部にいる女子なんだからと、仕事の意味を深く考えないでいいとは思っていなかったし、三十過ぎればいろんな意味で仕事に対するスタンスが問われて来るのは分かっていたが、結婚から目を背けるのと同じように仕事でも自分と向き合うのを避けていた。どちらからも逃げている自分って? 企画部へ戻っていく、とも子の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、そんなことを考えた。

 彼女は少し遅れて、小鳥を模したドアチャイムを勢いよく鳴らして入ってきた。喫茶店には正午過ぎというのにおじさん三人がそれぞれマンガ本を開いているだけだった。いつものように奥の四人がけのテーブル席で待っていた。とも子は器用に身体を半回転させて壁を背に腰を下ろした。少し息を切らした彼女に向かって「もう頼んでおいたから」と言うや、ほぼ間を置かずマスターがカウンターから出てきた。いつもの無駄のない動きで両手のひらに乗せた大きな皿をテーブルの表面にすべらすように置いた。きっと格好をつけているつもりでない、自然なマスターのかわいい動作に、お互い顔を見合わせてにんまりした。

 「別に大した話でもないけど…」。そこで言葉を区切って「…彼と別れることになって」と続けた。わたしは普通に驚いた表情を浮かべていたと思う。とも子はさらに「もう半年ぐらい前から、何となく」と自分に言い聞かせるように下を向いた。“わたしに遅れて八カ月か、仲良しもここまで…”と不謹慎にも自分へ引き付けて考えてしまった。彼女はあのとき、何も聞かなかったし慰めもしなかった。わたしはスプーンを持って、さあ食べようという素振りをして彼女に微笑みかけた。似つかわしくない、少し悲しげな表情から、すぐにとも子らしい気の強そうな顔に戻り、オムライスのケチャップ部分にスプーンを突き立て、勢いよく食べ始めた。

 いまさら別れた理由を聞かなくても、これまで彼女が話した彼のことでだいたい察しはついた。長い春、というたいして詩的とも思えない表現が当たっているのか、たんに彼に若い彼女ができただけなのか、とも子が経年劣化したから? そんなこと、いまさらどうでもいいことだった、彼女にとっても、そう、同じようにわたしにしても。ここまで引っ張って来たんだから責任とってよ、なんて言いたくもなかったし、そんな染みったれた言い草、みじめになるだけだった。どれだけしんどくても、この制御不能な感情をどこかで押し止めなければならないのだし、少しでも早く冷まさないと、そう、この悪夢から早く目覚めないとダメなのは分かっていた。無限軌道のスパイラルに落ち込むのを何としても避けなければ…。いつもより笑顔が少なめだったが、果敢にオムライスに向かう彼女を見ていると、わたしを執拗に呪縛して止まない、得体の知れないものまでも、消え散じていくような気がして心強かった。

 ちょうど駅の改札を出てコンビニへ向かおうとしているときだった。しだいに日が短くなり、まだ六時前なのに辺りは薄暗くなりかけていた。メールを小刻みにチェックする習慣から遠ざかり、着信してもすぐに開けなくなっていた。見覚えがなかったので一度はスルーしたが、マンションのエレベーターの中で、わざわざ郵便物を持ち直して、そのショートメールを開いた。散々な結果に終わった例の男からだった。なぜ、いまごろ? 何の用? それよりアドレスを教えてたっけ…。何もかもすっかり忘れていた。文面は丁寧で簡潔だった。“この前は失礼しました。もう一度会っていただけないでしょうか”。

 もう一カ月以上も前のことだったし、歴代ワースト三に入る後味の悪さ、もっと言えば消し去りたい過去の一つに上げてもいいぐらいだった。飲み会のミスマッチ、特に最少人数の二対二での不出来は尾を引くのだと実感していた。スルーする気持ちに変わりはなかったが、すぐに消去もしなかった。とも子に相談して重要ごとのように思われるのも嫌だった。まあ、二、三日寝かせてどんな答えが出るか、自分の気持ちを見定めようと思った。忘れたらそれまでのこと、どこかに引っかかればまたそのときに考えればいい、それぐらいの対応で十分という思いだった。

 問題はそっちではなく、こうしてケータイを触りメールを開くことでよみがえってくる別の思いやイメージ、断片的だがリアルな映像の方だった。最近やっと振り払えるようになった彼への思い、いまだ奥底に流れるかけがえのない何ものか、心身のどこかに棲まう数々の残像…。澱(おり)のように沈んでいた、こうしたコトどもがまた浮び上がってきそうだった。分厚い覆いで窒息させたと思っていてもいつの間にか息を吹き返す、もう大丈夫と安心していたらにわかに動き出す、周縁へ追いやろうとすればするほど中心へ揺れ戻ってくる、いつまで経っても制御できない、このわたし。いっそうのこと、存在もろとも抹殺したい…。なお危険な状態にあるに変わりなかった。

 とも子にメールをした。“来月の連休、温泉にでも行かない?”。慰めの言葉はもちろんのこと、そういうニュアンスに取られる行為は避けたかったが、何もせずに見守れるほどクールではなかった。明くる朝、何ごともなかったように振る舞える彼女と違って、内心は辛いだろうとそっとしておけないわたしって自分本位? そう自分勝手なのだろう。それこそ彼女は一週間で、もう過去のこと、さっぱりしていたのかもしれないのに。それに引きかえ、わたしは引きずることで自分を維持している? いや、そんなこと…。

 “どこの温泉にするか、一緒に考えよ”と彼女の返信。別れたあとでその人の度量、器が試される、なんて格言はなかったように思うけど、別れ方は人それぞれでも独り身の寂しさは大なり小なり、似たようなもの、のような気がして。どれだけ早く立ち直れるか、まさに女の真価が問われるのはそこだってこと。こうした教訓くさい言葉で少しでも自分を前へ持って行こうとしている、このわたしって…。これを機に、元のわたしに、彼に会う前の普通のわたしに、戻れるのなら。別れてすぐの、とも子にこんなこと付き合わせて申し訳ないけど。

 早く起きて洗濯をした。休みの日にそんな気分になれたのは久しぶりだった。週半ばと土・日曜日のいずれか、夕飯前に洗濯機を回すのが習慣だった。部屋干し用の洗剤を使っていたが何となく嫌な臭いが残り、すっきりしなかった。外は快晴だった、もうそんな心配はいらなかった。日差しの強さに気分が悪くならないか、少し構えてベランダへ出た。太陽を見上げた。変わらぬ日常に新たな意味を付け加えるには力不足だったが、ほんの十分ほど、しっかり足に力を入れて立っていられた。

 上がったこの気分を利用してクローゼットの中を整理しようと思い立った。見えるところだけは何とかキープしていたが、捨てるに迷ったモノをどんどんクローゼットへ押し込んでいた。これまでも定期的に、といっても半年に一度やればいい方だったが、逡巡するも捨てるモノと残すモノを分けて、限られたスペースに何とかしまってきた。進んでやろうとは思わなかったが、別に嫌いな作業ではなかった。愛着のあるモノどもを並べ直して収納したり、箱の大きさや色に合わせてパズルのようにモノをはめ込んでいく、そんなことも好きな方だった。ただ、整理するたびに何が飛び出してくるか、怖い気もして億劫になっていた。

 彼の使っていたモノがひょっこり出てくることはまずない、はずだった。気持ちが多少落ち着いた数カ月後、まとめてゴミステーションへ出した。ただ、わたしにも彼にも関係する共通のものをすべて処理したかとなると自信がなかった。ペアのマグカップは捨てた。歯ブラシは色も種類も違うものに変えた。もちろん、二人がけのソファーに並べていた色違いのクッションも、狭い玄関に仲良く並べていたピンクとブルーのスリッパも…。彼の残像とともに、かつて愛着のあったモノどもをすべて捨て去ったつもりでいた。

 トンネルを掘り進むように奥へ奥へ、と。迷った末にそのままにしていたのか、ただ峻別せずに放り込んでいただけなのか、そうしたモノどもが雑然と現れた。一つひとつ手に取って分けていく。捨てるものは後ろへよけて、残すものは奥の端にまとめて。整理の極意は捨てること、そんな言葉があったかどうか、ただモノを思い切って捨てるとき、ある種の快感が伴うのは確かだった。でもそれは物質としてのたんなるモノに限られ、そこに見えぬ思いや念が残っていると、なかなか手を下せなかった。捨てるに際して戸惑いに加え、ときに罪悪感さえ覚えてしまう。坑道を掘り進めて希少な鉱石に行き当たればいいが、得体の知れない、手に負えない、胸をえぐられるようなモノに遭遇してしまったら…。整理を進める手がつい止まってしまう。奥へ進んでいく怖さ。こんなもの、なぜ残しておいたのか、いまとなっては…。たいがいのモノは時間の経過とともにただのモノへ戻っていく。有機物が土へ還るように姿形がなくなってしまえばいいが、モノに宿っている彼の思い、そうわたしの思いまで、なかなか消えない、苦しめてくる。

 さらに掘り進んでいくと、そこに相応しくない、きれいな箱が出てきた。洋菓子か何かの空箱のようだった。開けようとしたが、どうしても手が止まってしまう。このまま捨てる方がいいように思ったが、手に取って軽く振ってみた。重いものではなかったが中に何か入っている。全開にしたクローゼットの前に座り込み、完全に動きが止まってしまった。デザインに工夫を凝らしたカラフルな箱をにらんでいた。なかなか開ける決断がつかなかった。時が緩慢に流れ、どこか遠くへ身体ごと持って行かれるような感じだった。パラレルワールドというほど明確な切り替わりや変化ではなかったが、この世と微妙にズレているのは確かだった。異次元というほどでもない異なる感覚。時空間を超えるというより、その歪みへ吸い込まれていくような、そんな感じ。また、あの地点へ引っ張られていくのか…。


 「そろそろ決めないと。どこにする?」。いつもの喫茶店でケータイ片手に顔を突き合わせた。マスターがカウンターから出て来る前に決めるのは無理でも、できれば夕方までには決めておきたかった。とも子は女性にめずらしく露天風呂にこだわった。わたしは強いて言えば料理ぐらいだった。気の合う女どうしの旅が持てはやされているが、それではなかったし、よく言う傷心旅行のように取られるのも心外だった。この旅行、無理に意味づけする必要はなかったし、そう意識させること自体、ストレスでしかなかった。ちょっとした気分転換、それでよかった。けっきょくのところ、どちらも特に温泉好きというわけではないから、なかなか行き先を決められない、そうなのかもしれなかった。

 「もうだいぶ前だけど、二対二でやった飲み会、あの時の男からメールが来て」。そう言うと、とも子が食べる手を止めて顔を上げた。「それで? 返したの」と言うので、わたしは首を横に振った。彼女は“それで正解”という表情なのか、にんまりした。「せっかくセットしてくれたのに。悪いなあと思って…」。わたしの言葉をさえぎるように「よかった、よかった」と彼女は繰り返し、スプーンを添えるなんてことをせずフォークでパスタを勢いよく丸め、口へ放り込んだ。その姿を見て、わたしも残りのカレーをぐちゃぐちゃに混ぜて、スプーンに山盛りにして口へ運んだ。彼女の存在自体がありがたかった。

 「まだ少し早かったかなって。反省してたんだ」。ランチに付いてくるサラダの小鉢をつつきながら言い出した。言葉にしないけど心配してくれてたんだとうれしくなって「ぜんぜん。気晴らしには良かったし…。とも子の友だち、けっこういけてたし」。自分でもめずらしく冗談で返した。「へぇ~、あんな感じがタイプなの」とにやにやしながら言うので、こっちは「そういうわけじゃ…」。真顔に戻って例のごとく言葉に詰まった。「ああ見えていい奴なんだ。正式に紹介しようか」と、ここぞとばかりに畳み掛けてくるので「いやいや」と言うのがやっとだった。きっと顔が赤くなっていたのだろう。とも子はよしよしといったふうにうなずいた。

 けっきょく、郊外のターミナル駅から特急で北へ二時間半ほど、旅館が数軒あるだけのこじんまりとした、ひなびた温泉地へ行くことになった。当初は二泊三日以上と勢い込んでいたが、互いのいろんな事情から一泊二日に収まった。当日は朝から晴天だった。いつもは使わないターミナル駅でとも子と待ち合わせた。「思った以上に、ひと、多いね」と顔を見合わせながら停まっていた列車に乗り込み、予約していた席を探した。発車までまだ二十分程度あったがすでに八割がた席は埋まっていた。車内通路を真中辺りまで進むと前から五、六列目辺りにポツンと二席が空いていた。きっとあれだと、また顔を見合わせた。「窓際に座ったら」と言われたが通路側の方がいいと、奥へ行くよう促した。とも子を座らせ、二人分の手荷物を荷台へ上げた。車窓の景色より、圧迫感のない通路側の方がよかった。

 普通列車に乗り換えるため下車した。「ここからまだ奥へ行くんだね」と少し心細げに言うので「ちょっと寂しいね、ホームにわたしたち二人だけだし」。そう言って、とも子の方へ身体を近づけた。すると彼女は、彼が彼女にするように肩に腕を回してきた。ドキッとした表情を見せると、さらに身体を強く引きつけて男のように胸を張った。笑いをこらえようとしたが思わず吹き出してしまった。けっこうな乗り換え時間だったが、それほど退屈せずに二両編成のディーゼル車がホームへ入ってきた。「なんか楽しいね」。とも子は足元に置いていたバッグを持ち上げた。「かわいい電車…」。こんなに気持ちが軽くなるのは久しぶりだった。わたしは彼女の後に続いて列車に乗り込んだ。

 短いトンネルを何本かくぐり、観光客を意識したわけではないだろうが見栄えのいい鉄橋も渡った。どこまで行っても退屈しないのが不思議だった。そうしていると、すっと視界が開けて温泉郷の駅に着いた。「…へようこそ」の文字がかすれた看板を横目に無人駅舎を通り過ぎた。迎えに来ていた旅館のワンボックスカーの後部座席に乗り込むと、とも子が顔を近づけて「何にもないところね、予想した通り」と耳元でつぶやいた。聞こえているのではないかと心配していると案の定、「何もない代わりに静かでゆっくりできますよ」。運転席から自嘲気味に声が返ってきた。わたしは少しあたふたして「いや、そういう意味では…」と言いかけたが、おじさんはそれに被せるように「一日だけでも何も考えず、ゆっくりお過ごしてください」。前にもこうした問答があったのか、決め台詞のように返してきた。当事者である横の彼女はおじさんの言葉に反応せず、ドアの方へ身体を寄せて車窓の外を見ていた。

 通されたのは、内縁に小さなテーブルと籐の椅子が二脚置かれたステレオタイプな和室だった。四隅に細工を凝らした重厚な座卓の上には例のごとく旅館推奨の和菓子が置かれていた。とも子も同じように和菓子が気になるようで仲居さんの説明もそこそこに今にも包みに手をかけそうだった。「夕食、七時でよかったよね」とあらためて確認するので、仲居さんに聞かれたときと同じようにうなずいた。思っていたより早めに着いたので、ゆっくり温泉につかって、そのあと近くを散策するつもりだった。自然素材のスノコが足裏に気持ちいい脱衣所で別に見せ合うつもりはなかったが、とも子の裸が目の端に入った。しぜんと自分の身体と比較していた。ヨガ教室に通っているだけあってお尻は下がっていないし、脚のラインもきれいだった。そう、四つも下なんだから…。

 彼女は先に上がって椅子の横に用意された冷水を小さな紙コップで飲んでいた。「だいぶ待った? ちょっとつかり過ぎかな」と言って横に座ると「いいなぁ、色白、うらやましい」と、何目線で言っているのか、こっちが変にどぎまぎした。そういえば、色黒とまではいかないが、とも子は健康そうな肌つやをしていた。部屋に戻り、湯けむりで薄くなった化粧を直して散策に備えた。広くないロビーに下りると、きれいに髪をセットした女将らしき人が笑顔で迎えてくれた。どの辺りを巡ればいいか尋ねた。最近できた足湯と、昔ながらの射的や手動パチンコを推したあと、おまけのように神社を挙げた。川筋に沿って里山の方へ行くと、この地域の氏神を祀る神社があるという。

 女将が三番目に推奨した神社へ行くとなると、夕食までに帰って来られるかどうか、ぎりぎりの感じだった。取りあえず旅館を出たが、まだ決めかねていた。互いに“こういうこと”になって以来、二人の間にちょっとした選択や、もしかしたら大きな岐路が生じたとしても考えや意見が一致する、妙な自信があった。日が暮れるまでに帰って来られるだろうと二人、もう一度顔を見合わせて川沿いを歩き始めた。上流へ向かって進むにつれて流れが早くなっていく。河床をのぞき込むと水は清らかで澄んでいた。わたしが立ち止まって眺めていると、先を行くとも子が「あっ」と声にならないか細い声を上げた。振り返った彼女は神妙な顔つきをしていた。

 川沿いから外れて奥へ入ると、かわいい二体のお地蔵さんがいた。草むらから辛うじて顔を出している感じが健気で微笑ましかった。二人は並んで手を合わせた。とも子が屈んだ姿勢のまま「二人いっしょでよかったね、お地蔵さん」と声をかけたので「そう、一人だと寂しいものね」と返した。霊験あらたか、とまではいかなくても、こうした心身ともにキュッと引き締まるときでも、もともとパワースポットの効用に期待する気持ちが薄いせいか、お地蔵さんの顔の欠け具合や色褪せた前掛けが気になって仕方がなかった。ただ、とも子が言った“二人いっしょ”のフレーズが頭に残った。坂の勾配がきつくなってきたのでやや前傾姿勢になって進んでいると、急に視界が開けた。

 思いのほか立派な鳥居を仲立ちに、細い参道が小さな社殿と一直線につながっていた。開けの美しさというか、目の前に何の妨げもないクリアな、吸い込まれていく、この感じ。心が弱っているときの症状なのかもしれないと、どこか冷静に見ている自分もいたが、めずらしくも心と体が一つになっていくのを感じた。いつもは、離ればなれになっている、考えていることと、感じていること。そのときの情況で、精神が先へ先へと行って後から身体がのこのこついて来る、その逆に身体が精神を振り切って前へ前へとどんどん進んでいく。この不一致の繰り返しが生きるってこと? それが人と関係を取り結ぶ原動力なの? でも、心身ともにダメージを受けているとその不安定さに耐えられない、いまのわたしのように、とも子もそうなの? そうしたわたしたち二人を平安へ導いてくれるのが神さまということ? わたしの妄想をよそに、とも子がわれ先に進んでいく。

 小さな祠も含めて一通りお参りした後、ふたたび社務所の前へ戻ってきた。「おみくじ、やる?」って言うので、さすがに神さまの手前、「おみくじを引く」でしょ、と訂正したあと、それぞれ二百円を納めて六角形の筒を手にとった。横のとも子が柄にもなくというか、身体を硬くしているのがかわいらしかった。そうかと思えば彼女は筒を力まかせに左右前後に揺さぶりだした。そんなことをしなくても一振りでおみくじ棒が出て来るのに、と思って自分の持っている筒へ目を戻すと、すでに一本の棒が長く突き出ていた。番号を告げて巫女さんにおみくじ棒を手渡そうとすると、とも子と同じように身体が硬くなっているのが分かった。それだけならよかったが、今年の初詣の情景がけっこうリアルによみがえって来たので、打ち消すのに苦労した。

 「どうだった?」。とも子が分かりやすい笑顔で聞いてくるので「もしかして、大吉?」と聞き返すとうれしそうにうなずいた。わたしの表情を見て取ったのか、少し曇った表情に変わり、こっちのおみくじをのぞき込むような仕草を見せた。もったいぶるつもりはなかったのでおみくじを両手で広げて、とも子の顔の前にかかげた。どう慰めようか、バツの悪そうな顔をするので、先にこちらから「まあ、大凶でなくてよかった」と笑顔で返した。この件はこれで終わったが、頭の中では別のことが巡っていた。今年の初詣でもおみくじを引いた。そばに彼がいた。あのときから、何が変わり、何が変わってないの? 何が悪かったの? なぜ別れたの? なぜ…。こと、ここに及んでこうなのか、一年近くも経った今だから、こんなふうなのか。何かのきっかけで不意に立ち昇ってくる彼の幻影とどう距離をとればいいのか、いつまで経っても要領がつかめなかった。

 旅館に戻ると、女将が出たときと同じ笑顔、同じ身のこなしで迎えてくれた。わたしは軽く会釈をしてやり過ごしたが、とも子はお客然としてあごを上げたまま愛想なく、営業スマイルの女将の前を通り過ぎて行く。部屋ですぐに浴衣と茶羽織に着替えて「なんか、おばさんっぽく見えない?」。姿見に映して不満そうに言うので「そうかな、かわいいと思うけど」と鏡の端に顔をのぞかせて微笑みかけた。並んで立つと、残念ながらというのか、わたしの方がしっくりいっているように見えた。下の子から見れば紛うことなくおばさんに違いなかったが、本人はまだ勝手に二十代に親近感を持っていたし、四つ下のとも子といっしょにいると同期のよしみもあって若い感覚でいられた。

 食事処では二組の客が先に始めていた。前に座る、とも子の茶羽織姿は本当にかわいらしかった。山菜やきのこなど地のものを奉書に包んで焼いた料理は旅情を高め、穏やかな気分にさせてくれた。「こうしていると、いろんなことがなかったように思えてくるから不思議…」と不意に柄にもなく趣のあることを言い出すので返事に困った。お互い男好きするタイプではないと勝手に思っていたが、不思議なところを持っている彼女は意外に男を引き付ける術を持ち合わせているのかもしれない。「来てよかったね、とも子といると気分が安らぐ。このままでいいって思える」。正直なところが口を衝いた。

 “そう、このままでいい…”。心の中でもう一度つぶやいた、あらためて自分に言い聞かせるように。新しい自分になるってことに何か意味があるの? 無理に変わろうとしても自分を見失うばかりで、けっきょく何もつかめない、何も残らないってこと、どこかで感づいていたはずなのに…。パスタを食らうように屈託のない表情で会席料理を口へ運ぶとも子を見ていると、一年近く経とうと言うのに彼への思いを断ち切れない自分がもどかしく情けなく思えてならなかった。今回の温泉旅行も、とも子の提案に躊躇なく「いいね」と返事をしたものの、実際に温泉地へ向かう電車の中で、降り立った寂しげな駅舎を背景に、趣のある古い旅館の前で、そして肌にやさしい温泉に身を浸しながら…。きっとそのたびごとに浮かんで来るだろう、彼の残像と現地でどう折り合いをつければいいのか。そう考えると、正直気が進まなかった。

 「おいしかったね、おなかいっぱい」。満足げなとも子に笑顔で相づちをうった。夕食後に覚える一日の終わり感が、旅先ではまた違った意味で寂しさを募らせた。部屋に帰り、すでに敷かれたふとんに二人してごろりと寝転がった。「この時間って、やっぱり寂しくなるね」。とも子は天井を見つめたまま言った。小さくも鼻筋の通った横顔がきれいで透き通って見えた。気の効いた言葉も返さず、しばらくのあいだ黙って天井を見つめていた。ふんわりと背中に覚えるふとんの感触とともに彼女の思いとわたしの思いはゆるやかに交差していた。「別れてどのぐらい経つの?」。あの件に直接触れてきたのは初めてだった。「そろそろ、一年…」。そう答えるとすぐに「それって、長いの、短いの?」と聞いてきた。「えっ?」。わたしは彼女の方を向いた。「自分の中でどうかっていうこと」。何となく彼女の言いたいことは分かったが、正確な答えを持ち合わせていなかった。

 この一年余り、振り返ってみても全体にかすみがかかっているというか、大きな出来事のはずなのに、どの記憶も輪郭が途切れているというか、かすれている感じがして実感が持てなかった。あれから時間が止まっているっていう自意識過剰な感じでもなかったけど、内側に流れる時間は普通の速さの十分の一程度、いやもっと緩慢だったかもしれない。だからと言って、この日常から逃れられないし、その中で生きていくしかないってことも分かっていた。彼への思い、その残像も記憶も、こうして過ごしていくうちに、日常に埋もれていく中でしだいに薄まっていくものと思っていた。でも、そうかんたんでなかった。いつまで経っても身体にまとわりつき、拭い去ろうにも離れない、うまく言い表せられないけど、そう粘着質な、どろっとした液体のように。

 「こっちはつい最近のことだけど…」。わたしが答えを探しあぐねていると、とも子はフラットなトーンで話し出した。「もうだいぶ前のことのようって言いたいところだけどね」と続け、こちらへ顔を向けた。彼女の素顔を見たのは初めてだったけど、そういえば真顔を見たのも前に一度あったかどうか、いずれにせよ滅多にないことだった。しかも目が少し赤かった。「けっこう長かったんだよ、高校三年のころだから」。わたしは驚いたふうに顔を上げてそのまま身体を起こした。「そんなに長かったの、知らなかった」と普通に反応し「それじゃ、大変だったでしょ」と言葉を継いだ。そう言ったあとにすぐ勝手に“大変だ”と決めつけるのはよくないかな、と反省した。とも子はそうした心配をよそに「うん、いまも大変だよ」と屈託のない表情を見せた。

 付き合った期間の長さだけみても、そうかんたんにこれまでの思いを振り払えないだろうに。本当のところはどうなのか分からなかったが、少なくともわたしの前では淡々といつものとも子でいた。仮に別れの程度、そのインパクトがほぼ同じであっても、受け止める側の度量によってはダメージの深さや立ち直りにかかる時間、新しく一歩を踏み出す時の割り切り方など、当然違ってくるだろう。「わたしなんか、いまだに一人になると、しぜんとむかしのことが頭に浮かんできて…」。そう言いながら、これって未練がましい性格によるものなのか、それとも彼への思いが特別に強いからこうなのか、と心の中で問いかけていた。こうして自分を客観視していくことで少しずつ変わっていく、楽になっていくの? とも子は天井を見つめたまま、何も言ってくれなかった。

 その夜は、ほかの打ち明け話も含めてしんみりと話し込んだ。気がつくと明け方近くになっていたが、とも子もわたしも七時過ぎには目を覚まし、三度目の温泉にゆっくり浸かって、ご飯もお代わりした。お互い、別れた彼のこともそうだけど、いろんなことを吐き出して気分が軽くなったのは確かだった。これが旅先特有の一時的な開放感によるもので、家に帰れば日常とともにふたたび感情の揺り戻しに遭うのか、そのときはまだ分からなかった。こうして丸二日、とも子とべったり一緒にいて彼女の翳りも内に押し止めた思いにも触れて、たんに同胞相憐れむというのじゃなくて、いろんな思いを共有できたこと、寂しさも不安も、そして喜びへの兆しも。それぞれ質も量も違うけど、どうしようもない制御不能な感情を交わし合えたのは大きかった。

 「こうしたことってけっきょく、時間が解決してくれると思っていたけど、やっぱりそれだけでは…」。都心へ向かう帰りの列車の中で、そう言いかけて続く言葉を呑み込んだ。とも子もきっと、同じような気持ちだったに違いないし、変に確認し合う必要はないのだろう。ほんの一部に過ぎなかったにせよ、思いや感情が重なり合い、染み入るようになったのはわたしにとって掛け替えのないことだった。「もうすぐ着くね」。とも子はそう言って顔を車窓の方へ向けた。彼女越しに流れる夕暮れの街へ目をやった。思ったほど寂しさを感じなかった。これまで散々悩まされてきた日常への違和感がどうしたことか、どこかへ行ってしまっていた。

 「明日から会社だね」。とも子がこちらへ顔を向けて言った。「ちょっと憂鬱。でも前よりはうまくやっていけそう」。わたしはそう答えた。彼女は何も言わず、いつものあの人懐っこい笑顔を浮かべていた。乗換駅に近づいていた。わたしが姿勢を正すように座り直すと、とも子も同じように背筋を伸ばし立ち上がる素振りを見せた。「そろそろお別れだね」「そう、寂しいけど」と顔を見合わせた。とも子の左手を握っていた。傷口をなめ合って、と言うのでも、女の友情を確かめ合って、と言う感じでもなかった。そんな意味づけから遠かったし、共感というよりはもっと緩やかで、それでいて強い結びつき。二人のあいだに理屈は要らなかった。駅に着くまでそのままでいた。ずっとこのままでいたかった。


 いつものように駅前のコンビニに入り、デザートの陳列ケースの前で立ち止まった。生クリーム多めの新商品が並んでいないか、少し身体を屈めて見ていると、後ろから声がした。誰に声をかけているのかと身体を起こして、顔を左右に向けたが誰もいなかった。「お久しぶりです」。振り返ると、見覚えがあるようでないような、ぼんやりとした印象の中でその男は立っていた。「確信がなかったので迷ったのですが」と男は続けた。きっと怪訝な表情でその男をにらんでいたのだろう。「すいません、驚かせて」と男は申し訳なさそうな顔をした。記憶をたどっても目の前にいる、たぶん三十代半ばぐらいでまあまあ明るい感じの男はすぐに出て来なかった。「覚えていないですよね、三カ月ほど前に居酒屋でご一緒させていただいた」。そう言われてやっと、あのときの気まずい記憶がよみがえってきた。

 「そうでした。メールいただいて、そのままにして…」と言いかけると、男は言葉を遮って「すいません、そういう雰囲気でなかったのに図々しくメールなんかして」とバツが悪そうに下を向いた。こうして普通に会話してみると、この前ほど悪い印象を受けなかったし、あのときに比べて明るい表情に好感すら覚えた。「この辺りに住んでいるのですか?」と聞いた。「いいえ、友人宅へ向かう前に何か買って行こうかと思って」。話題が別の方へいったからなのか、男はホッとしたような表情を浮かべた。でも、このあと話が続かず、例の気まずい沈黙が流れた。すぐに居たたまれなくなり「それでは…」と会釈してレジへ向かおうとした。すると「あっ…」という彼の声が肩越しに聞こえた。

 振り返ると、彼は深々と頭を下げていた。ちょっとした知り合いの別れ際にはあり得ない不自然な振る舞い。周りの人から変に思われないか、気になった。あらためて飲み会でのことを詫びているのだろう。でもそれが卑屈な感じに見えてこの前と同じように不愉快さがこみ上げてきた。「頭を上げてください。あのときのこと、何とも思っていませんから」と少し皮肉を込めて言ってやった。この前は悪かったという自分の思い込みだけで、逆にわたしが本当はどう思っていたかなんて少しも忖度しようとしない勝手なところが気に入らなかった。彼は下を向いたまま黙っていた。わたしは何も反応せず、レジへ向き直り手にしていたデザートをカウンターに置いた。

 次の日、とも子にコンビニでの一件を話した。すっかり顔馴染みになったマスターがカウンターの中で暇そうに新聞を広げていた。お昼だというのにその喫茶店には、わたしたちのほかにおじさんとお兄さん、いつものようにマンガ本に集中しながらついでにカレーを食べていた。こっちも例のごとく奥の窓際の席でオムライスを前にしていた。「それって、かなり気に入られているってことじゃないの」とほぼ食べ終えたとも子が紙ナプキンで口の端をぬぐいながら言ってきた。表情から冷やかし半分のように思えたので必要以上に首を横に振った。「いや全然、そんなふうでなくただ謝りたかっただけでしょ」と例の男が前にいるかのように冷たく言い放った。とも子は下を向いてクスッと笑った。

 「でもおかしいじゃない、偶然コンビニで会うなんて。何かの縁かも」と性懲りもなく茶化してくるので「いやそれ以前に、なんかヌーとしていてタイプじゃないし。紹介してもらって悪いけど」。この話に終止符を打とうと憮然とした表情で言ったつもりだった。これはお手上げだと両手を広げなかったが、とも子はその代わりに眉をピクと上げて仕様がないなという顔をした。「それなら、なんにも言わないけど…」と言ったあと、ひと呼吸置いて「あれでけっこう、いい男なんだけどなあ」と独り事のようにつぶやいた。さらに「なんか腹立つとか、同じことだけど、癇に障るとか。そういうのって…」とやんわりとしつこく責めてくるので、わたしは無視を決め込もうと頬杖をついて横を向いた。きっと、困った顔でこっちを見ているのだろうけど、がんばって拒絶の姿勢を崩さず、窓の外をずっと眺めつづけた。

 師走を前にした底冷えする夕刻だった。まだ、週半ばかとうんざりしながら改札を通り過ぎた。別に早く帰っても取り立ててやることもないので意識してゆっくり歩いていた。その分、目に止まるものが少し多かったのかもしれない。角を曲がろうとすると反対側の歩道にコンビニで偶然かどうか再会した男が駅の方へ向かっていた。彼はケータイに目をやり、わたしに気づいていないようだった。そのままやり過ごすつもりでいたが、そのとき急なブレーキ音がして反射的に後ろを振り向いた。彼も交差点を渡ったところで立ち止まりケータイから目を上げて振り返っていた。気がついたのか、例のバツの悪そうな照れた表情を浮かべて、前ほどではなかったが同じように丁寧に頭を下げてきた。今度はわたしも深めに会釈した。

 男との距離は幹線道路を挟んで十五メートルほど。どういう訳か、わたしは駅の方へ引き返していた。今日に限ってコンビニに寄るのを忘れていた、と自分に言い聞かせて。彼はその姿を見て駆け足で道路を横断してきた。わたしたちはタイミングを図ったかのようにコンビニの前で合流した。息をはずませる彼に、わたしの方から「また、お友だちのところですか?」と聞いた。彼は自分から話しかけなければいけないと焦っていたのか、前のめりになっていた上体を戻して「いえ、いまから仕事です」と答えた。さらに「この前はすいませんでした。友人のところへ行くなんて言って。この先に住んでいるんです」と申し訳なさそうに下を向いた。なぜ、嘘をついたのか、あらためて聞くつもりはなかったし、どういうわけか騙されたという嫌な感情も起こらなかった。

 「これから先もこの時間にお会いするかもしれませんね」と笑顔になっていた。彼は顔を上げて驚いたような表情をした後、あの照れたような苦笑いを浮かべた。「いまから、お仕事大変ですね」と声をかけた。彼は普通の笑顔に戻り、「はい」とだけ答えた。わたしは「それじゃあ」と言ってコンビニへ入ろうとすると、彼はこの前と同じように深々と頭を下げてお辞儀した。「やめてください。周りの人がどうしたことか、と思うでしょ」。この前と同じ意味のことを言っていたがフレーズは柔らかく微笑んでいた。それでも彼は、身体を硬くし動きを止めた。コンビニに照らされたその顔は微かに赤みを帯びているように見えた。また、やらかしたという感じがにじみ出ていた。「ごめんなさい、責めてるつもりじゃ…」と真顔で言いかけて言葉につまった。下を向くわたしに彼は「やさしいんですね」と言って「ありがとう」と付け加えた。顔を上げると、改札へ向かう彼の後ろ姿が目に入ってきた。

 あれから、ふと気がつくと彼のことを考えたりしていた。前の彼じゃなくたんなる三人称に過ぎない彼だったが、ちょっとしたときに何度か頭をよぎった。意識し出していたのは確かだった。とも子にこの話をしたらきっと“彼と別れてちょうど一年、いい時分じゃない。よかった、よかった”って言ってくるに違いない。そう、いつもの茶化したふうな顔つきで。当分のあいだ、黙っておこうと思った。それよりも、この久しぶりの感情と向き合い、いろんなことを確かめたかった。普通に日常をこなしながら自然と内側に流れてくるものを見逃さず、しっかりすくい上げないと…。そんな気分だった。そうした意味でも、とも子が言ってきそうな「ちょうど一年」という区切りが大切なのかもしれなかった。たんに時の経過とともに記憶が薄れていくというだけじゃなくて、未練がましく内側にしがみついている感情を解き放つ機会にしなければ…。少し身体が軽く感じられた。

 「今日の夕方、予定通り大丈夫?」。とも子がコピーを取るふうにぶらりと総務部へやって来るのはいつものことだったが、少し前に交わしたばかりの約束に念を押してくるのは妙だった。そのときは、何の疑いもなく「うん」と答えたが、何か魂胆があると思うべきだった。飲み会というだけで詳しく聞こうとしなかったこちらにも落ち度はあったが、あの日の再現になるとは思ってもいなかった。会社を出てお店へ向かう途中、それも歩きながら「知ってる男がいたら、怒る?」と探りを入れてきた。わたしは少し先を行くとも子の前を小走りにまわり込んでちょっと待ったとにらみつけた。とも子はバツの悪そうな顔をしたあと、笑いでごまかそうとするので「もしかして…」と言うもすぐに「うん、ごめん」。とも子はわたしから身をかわすように前へ逃れて進んでいく。わたしは肯定にも否定にも取れる「え~」という二十歳そこそこの女の子のような声を発して彼女を追いかけた。

 例の二人は先に来ていた。今回は居酒屋でなく、誰が決めたのかカジュアルなイタリアンレストランだった。とも子の男友だちが、前と同じように片手を上げて爽やかな笑顔で迎えてくれた。横には、たんなる三人称の彼が緊張した面持ちで座っていた。とも子は「待った?」と男たちに言いながらわたしに奥へ行くよう促した。屈み気味に彼女の前を過ぎると彼が目の前にいた。もう見慣れたと言っていいのか、いつもの照れた仕草で身体を硬くしていた。「この前はどうも。深夜勤務で身体、壊さないようにしてくださいね」。座るなりそう言うと、とも子と男友だちは顔を見合わせ、驚いたふうだった。「この前、やさしく声をかけてもらって…」。彼はそう言って顔を赤らめた。

 「えっ、どういうこと? そうか、あれから二人でこそこそと…」。とも子は大げさに口をふくらませて“わたしたちの知らないところで”と不満げでいてうれしそうだった。彼女の、かわいくも滑稽な振る舞いに、こっちのわたしたちも顔を見合わせて思わず笑ってしまった。「え~、そういうこと」と言ったきり、そっちの二人は無視してこっちも勝手に楽しくやろうね、とオーバーにうなずき合って息の合うところを見せつけた。わたしは冷静になって「そっちが思っているようなことじゃなくて。あれから一、二度、偶然に会っただけ」と火消しに努めた。すると彼も「前の飲み会で無愛想だったのを謝って。それだけですよ」と加勢してくれた。とも子と男友だちは、わたしたちの様子を見て“分かった、分かった”とうれしそうに制する素振りをした。

 「ティラミスって久しぶり」。とも子がそう言って、テーブルに出されたデザートに目を輝かせた。「イタリアから直輸入した本場のマスカルポーネチーズを使っているそうです」。いつも妙才のない男友だちではなく、どこかぎこちないその友人が説明してくれた。「へぇ、甘いものに詳しいんだ」。とも子が口の端にココアパウダーをつけて意外そうな表情をすると「ずっと前に来たときに店の人が言っていたので」と彼は答えた。「よく来るんだ、こういう店」。すかさず追求口調でとも子が続けた。彼女のようなタイプが苦手なようで、彼はうっすらと額に汗を浮かべて困ったふうだった。言外に“よく女の子を連れて来ているの”と言わんばかりに聞こえた。「イタリアへ旅行した友だちの話では…」。わたしはほとんど意味のない言葉を連ねて、助け舟を出した。

 「ちょっと、意地悪だった?」。とも子は、飲み直しに入った店で座るなり前のめりになって話し出した。「フォローなんかしたりして…」と冗談めかしに続けた。反応しない、わたしを見てすぐに「ごめん、ごめん。そんなつもりじゃ」と慌ててわたしの腕の辺りをさわって取り成そうとした。少し間を置いて「うれしいんだよ、最近明るくなったし。紹介した甲斐、あるっていうか」。彼女は真顔に切り替えて下を向いた。「わかってるよ」とわたしはすぐに答えた。「でも、まだしっくりこないところがあるんじゃない?」と核心に近いところを突いてきた。答えを探しあぐねていると、とも子は続けて「そうかんたんに代わりは出て来ないよね」。自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 たしかに彼女の言うとおりだった。放っておいたら自然と浮かんでくる、彼だった男の幻影を追い払うためにこんなことにうつつを抜かしている。とも子と別れた後、電車の吊り革に軽く触れながら取りとめもなく頭をめぐらせた。世間でよく言われる、女の方がドライで引きずらないってホント? わたしのようにいつまで経っても忘れられないウェットなタイプは普通じゃないの? 気持ちを前へ動かすために他の男を利用するなんて、やっぱりよくないこと? いや、利用という言葉は言い過ぎかな、向こうはけっこう気に入ってくれてるし。いまとなってはわたしも生理的に受け付けないってほどでもないし、お互いさまか。でも、けっきょくはそういう男の気持ちを弄んでいる? モテ女でもないのに…。別れ際のとも子の言葉がよみがえった。「心を無理に動かすと、ろくなことないよ、私みたいに…」。


 彼と別れて一年が過ぎ、さらに月日が流れていく。一人になって二度目の春を迎えていた。季節の移り変わりは思ったほど味方になってくれなかった。そうじゃなくても生温かくなる春は気分が塞ぎがちになり、苦手だった。年度の変わり目で精神的な負担が増えるのもあるし、何よりも「スタート」とか「フレッシュ」とか事の始まりに伴う前向きな感じが身体にも心にもそぐわなかった。メリハリのある夏や冬に比べて、一人を感じることが多く、ぼんやりとした不安感で息をつまらせる春は嫌いだった。

 鬱(うつ)じゃなくても、この時期の、ちょっとした情緒の変化で高い所から飛び降りたくなる気持ち、分かるような気がした。幸いにも高いところに住んでいなかったし、とも子が気づいているように見た目ほど神経質ではなかったし、自分が思っているほど実際には悲観的でもなかった。「だけど、危うい感じのとき、結構あるんだよね」。彼女がそう言い当てたように、これまで心のふらつきは幾度もあった。だけど、別れてすぐの春よりはずっと安定していた。とも子がこの前、白状したように去年のいまごろは「見ていられなくて、声もかけられない」情況だった。「それほどひどかった? ごめんね」。そう言える、この春は彼女に心配をかけず、何とか乗り切れそうだった。

 土曜日指定で実家の母から宅配便が届いた。三十半ばで独り身の不憫な娘を思いやって定期的に送って来る。農協のマークが入ったダンボールを開けると、定番のレトルト類やお米、子どものころ好んで食べたお菓子、どういうわけか消耗品だからなのかストッキングも入っていた。通勤ではほぼパンツで通しているのでチェストの下段にたまる一方だった。新年度で物入りだと思っているのか、春の定期便はひと回り大きいダンボールで送ってきた。田舎のことを思い出しながら一つひとつ取り出していくと、白い紙が敷かれたダンボールの底に封書が一通添えられていた。普通はモノを詰めたあと、その上に置くものだが、遠慮がちにそうしているのか、何か意図があるのか、すぐには分からなかった。

 手紙には、外食を控えてバランスのいい食事を摂ること、風邪に気をつけて何ごとも無理しないこと、心配かけるからと言って一人で悩まないこと、などいつものように注意事項が並んでいた。今回は、加えて文末に「紹介したい人がいるので、よかったら連絡ください」と書き添えてあった。続けて「お見合いのような格式張ったものではなく…」とわたしの気に障らないよう配慮の言葉が連ねられていた。そうした心配をよそに、わたしはすぐにメールを返した。“いつもありがとう。元気でやっています。久しぶりに今度の連休に帰ろうかと思っています”。きっと返信には二十分ぐらいかかるだろうと思い、食料品をキッチンの棚へ収めていると、五分も経たないうちに着信音がした。メール打つの、早くなったなと思いながらリビングのテーブルに置いたままのケータイを取りにいった。

 “楽しみにしています。何かほしいもの、食べたいものありますか?”と送信してきた。“気を遣わずに。一泊か、せいぜい二泊ぐらいしかできないので”と返した。これでメールのやり取りは終わりのつもりだったし、仮に続きがあっても今度はいつものように十分以上かかるだろうとキッチンへ引きかえした。すると、思っていたより早めに“紹介の話、進めておいていいですね”と来た。久々に帰省するイコールそう取られたのかと思い、断りのメールを打とうとした。でもどういうわけか手が止まった。ケータイをそのままテーブルの上に置いてふたたびキッチンへ戻った。カレーのレトルトパックを手に取った。屈んで収めようとしたが、なぜか身体が動かない、どういうわけか周りとの感覚がつかめなくなった。急に彼の顔が浮かんできた、目頭が熱くなって来るのがわかった。誰もいない部屋で感情を圧し止める必要はなかったが、必死に抗(あらが)い、踏ん張ろうとしていた。“こんなこと、繰り返していてはいけない”。無理やり、そこで思考を止めた。その場から逃げるようにリビングへ向かった。ケータイを手に取り、母親へメールを返した。

 夕食の準備に取りかかろうと流し台の前に立っていると、リビングからメールの着信音が聞こえた。母親が返信して来たのだろうと開けると、とも子からだった。“何してる? 今度の日曜日にドライブ行こうかって。あの二人もいっしょに”。くたびれたグレーのスエット姿でソファーの横に突っ立ったまま、ケータイの画面をにらんでいた。すると思わず、どういうわけか、別れた彼のアドレスを開いていた。これまで何度もチャレンジして出来なかったこと。それがいま、出来るような気がした。メールも電話もゴミ箱へ。きっとあとで後悔するだろう。でも、自然と指が動いた。思ったよりあっさりと消去していた。これまでのためらいがうそのようだった、こんなものかと不思議だった。やればできるじゃないか、と。

 わたしの内に残っている彼を追い出し、拭い去る作業がやっと峠を越えた? だいぶ気持ちも軽くなって来ていたし、とも子が言うように明るさが戻っているのかもしれない。彼女がファイルを持ってこちらへ向かっているのが目の端に入った。後ろを通り過ぎるとき、いつものように肩を軽くたたき、振り返らずにコピー機の前で止まった。企画部で単純作業を一手に引き受ける彼女は、キャリア女子と同じ、私服姿だった。事務服を着る総務部の女子に羨ましがられることも、毎日大変だねと思われることもあったが、キャリア女子に比べてとも子の評判は断然よかった。すでに女子のなかでは中堅の部類に入っていたが、気さくな感じで二十歳そこそこの子とコミュニケーションするのがうまかった。企画部へ戻る途中、わたしの顔をわざわざのぞき込むようにして、「例の話、よろしくお願いします」と意味ありげに片目をつぶった。

 となりの十歳以上も下の総務女子が反応し「暗号か何かですか?」。わたしは軽く首を横に振りパソコンへ向き直った。でも、その彼女は続けて「楽しいことなんでしょうね」と同じように顔をのぞき込んできた。もうこの歳になると、下の子のおもちゃになるのも覚悟しなければならない。さらに「最近、笑顔が増えましたね」とドラマのセリフのようなことを言う。「そうかな。ニヤニヤして気持ち悪い?」と冷やかしと分かっていてもしっかり反応してやった。そうしていながら頭の半分で“何を着て行こうか、週末のドライブ…”と頭をめぐらせていた。そう言えば“去年の夏も冬も、バーゲン、ぶらりと見ただけで…”。いまの季節に合う、しっくりした服が浮かんで来なかった。“とも子より落ち着いた感じがいいのだろうけど。それより、いくつ上に見られているのか、彼女より…”。久しぶりのハレな気分がしだいにしぼんでいくのを感じた。しばらくのあいだ、仕事をよそに罪のない妄想に身をゆだねた。

 まだ水曜日だったが会社の帰りに街をぶらつこうと思い立った。目に止まった服が思いのほかプライスダウンしていたり、店員が寄って来ないでマイペースで見て回れるかも、いつも面倒に感じる試着で疲れが出ずに買ってすぐあとに後悔もせず…。どちらかと言うとファッションアイテムの買い物は苦手だったが、今日は楽しめる気がした。ドライブでどこへ行くのか、詳しく聞かなかったが、動きやすいグレー系のパンツか? それに合わせた少し明るめのカットソー…。いや、それだからダメなんだ、このままではいつものパターンになりそうだった。固い頭を切り換えて、若い子のあいだでは少々死語感のあるワンピースはどうか、女性らしく…。考えてみればこの一年、バーゲンのときも含めてスカートへ目がいっていなかった。

 身長はある方だったし、太っているわけでもなかった。取り立てて足が太いとも思わなかったし、脇あたりのだぶつき感を除けばこの歳にしては大きな問題はない、そう強気に自己判断したはいいが、どんなワンピースがいけてるのか、ここのところ何かにつけ敏感さに欠けていたし、トレンドから遠くにいたし…。というより、自分の外側のことに興味が持てなかった、仮に意識しようとしても内側が付いて来なかった。彼と会っていたころはクローゼットの中を把握していたが、いまでは各シーズンとも三、四パターンほどの着回しがせいぜいのところだった。パンツにスニーカーのご時世でこの歳の自分に合ったワンピースを探すのはかんたんではなかった。でも、疲れをものともせず? 何軒かのショップを精力的に見てまわった。

 けっきょく一歩も二歩も踏み込めず、原色からほど遠い、細かい柄の無難な膝下ワンピースに落ち着いた。ショップの横長袋を肩にかけてターミナル駅へ向かっていると、百貨店の前で小さな女の子とママがショーウインドウをのぞき込んでいた。華やかに彩られるクリスマスシーズン以外に目を止めることはほとんどなかった。うれしそうに見上げたり指を差したりする女の子に、やさしい微笑みを向けるお母さんの姿がまぶしく見えた。少々騒いでいる子どもでもかわいいと思えたし、母性を感じる場面が他の子に比べて少ないとも思っていなかった。ただ、同じ三十半ば過ぎの女がよく言う、結婚よりも子どもがほしい、という生理から来るのか、その歳だからそう思うのか、そんな考えには同調できなかった。かけがえのない人を愛すること。甘ったるく現実離れしていようと、根本的にはそれがすべてだと思っていた。子どもはあくまでそれに伴うもの、二次的なもの、そうした関係性の結果として愛おしく感じるもの、と。頭の中でそんな整理をしたところで気分が晴れるわけでなく、逆にこの歳まで結婚せず、子どももいないのは、女として先天的に何かが欠落しているから? 電車の中で、せっかくのショッピングハイが萎えていくのを感じた。

 枕元の時計を見ると午前三時をまわっていた。ここまで眠れないのは久しぶりだった。遠足前のわくわくしたあの感じとは、もちろん違っていた。外灯の明かりがカーテン越しに部屋の中を薄っすらと映し出していた。暗がりの中、壁に掛けていたワンピースのフォルムが浮かび上がって見えた。デニムなどカジュアルテイストではなく、フェミニンなワンピースが好みだと分かったのは、付き合い出してからだいぶ経ってからだった。通勤はもちろん、会社の飲み会や男が参加する懇親会でも、たいていはパンツスタイルで通していた。わたしにとってワンピースは特別なアイテムだった。その女性らしいスタイルに彼との思い出が詰まっていた。クローゼットの奥にしまい込んだままの、トレンドを外れたワンピースたち。一枚一枚にこもった思い出が胸を締めつけて来るようだった。めぐる思いを打ち消そうと枕に顔をうずめた。もう午前四時を過ぎていた。

 「顔色、ちょっと悪そうだけど、大丈夫?」。とも子が顔を近づけて小声で話しかけてきた。ターミナル駅のロータリーを出発して以来、お互い言葉少なに後部座席に収まっていた。とも子の男友だちが運転するクルマは高速道の料金所をさほどスピードを落とさず通過した。本線に合流すると、シフトチェンジでエンジン音が変わり、タイヤから伝わる振動音もスムーズに感じられた。「車酔いとか、大丈夫ですか?」。運転席から声が聞こえてきた。とも子はわたしの顔をのぞき込み“どう?”という表情をした。わたしがうなずくのを確かめてバックミラー越しに彼とアイコンタクトを取るような仕草をした。「それじゃ、少しスピード上げますね」と言ってすぐに車線を変えた。クルマは速度を落とさずトンネルへ吸い込まれていった。

 車窓を流れる景色に気を取られていた。話しかけられているのに気がつかなかった。とも子が促すようにわたしの肩に手をやった。「お昼、なに食べたい?」。彼女がそう言うのに重ねて、助手席の彼が続けた。「サービスエリア(SA)なので大したものはないと思いますが」。わたしは気を取り直して「なんでも大丈夫です」と答えた。すると、とも子が「わたし、牛丼大盛りにしようかな」とベタなことを言って男二人を笑わせた。SAに併設されたレストランには地元食材を使った定食や、どこから調達するのか海鮮丼が人気のようだった。男たちは、トイレに時間を費やす女たちを待つあいだ、外の喫煙ゾーンでポケットに片手を突っ込み、寒そうに背中を丸めて何やら話していた。わたしはトイレの入り口付近で化粧直しに手間取るとも子を待っていた。「ごめん、気合入れることもないんだけど」。彼女はそう言って男たちのいる方へ目をやった。「ドライブ誘うの早かった?」と気遣うように聞いてきた。わたしは「ありがとう、大丈夫」と答えた。

 高速道を下りると、すぐに目的地のテーマパークが見えてきた。何本かトンネルを抜けるたびに雲行きが怪しくなり、いまにも雨が降りそうだった。開園十周年のアニバーサリーイベントで、パーク内は家族連れや女の子のグループで賑わっていた。中学生ぐらいか、五、六人ではしゃぐ男の子らの姿も見られた。「彼氏彼女同士って少なくなったよね」。とも子の発言に三人が賛同するようにうなずいた。「カップル自体が減っているのもあるけど、クルマを持ってない子が多いいし、みんな一人遊びに馴れてしまっているのかな」と男友だち。すると、もう一人の彼が「人を好きになるとか、愛おしく感じるとか、そういう根本的なところが年々退化しているような気がして…」と、つい理屈っぽいことを口にし後悔しているようだった。とも子と男友だちは“ここに来て言うか”という表情をしていたが、わたしは「そうかもしれないね。そうだったら楽でいいんだけれど」とつぶやいていた。

 分かれて観覧車に乗ることになった。「じゃ、お先に」と言って、とも子が男友だちとゴンドラへ乗り込んだ。わたしと彼は顔を見合わせ、ぎこちない笑みを浮かべて後に続いた。高度が上がるにつれて彼の表情が硬くなっていくのが分かった。“そうでなくても狭い空間の中で気まずいのに”。曇り空の、遠近感に乏しいぼんやりした情景がいまの低いテンションに合っていた。“高いところが苦手な男に好かれるのかな”。別れた彼と付き合い出したころ、同じようにドライブで行った、遊園地のことを思い出していた。言葉の端々に敬語を使いながら初々しくも向き合っていた。一番高いところを過ぎようとしたときだった。一瞬、ガタンと揺れて彼が腰を浮かせた。わたしは彼を支えようと身構えた。二人が立ち上がったことでさらにバランスが悪くなり大きく揺れた。わたしは彼の腕の中にいた…。

 「怖くなかったですか。高いところが苦手ですいません」。ちょうど四分の三を過ぎたあたりでやっと硬さが取れてきたのか、向こうから話しかけてきた。「そちらこそ、大丈夫ですか? たいていは女の方が強いですから」と一般論を言ったつもりが、彼は「そうですね、芯が強そうで。頼られるタイプじゃないですか」と言ってきた。ほめたつもりなのか、表現下手はわかっていたので見過ごすべきだったのかもしれない。でも、ゴンドラが地上へ近づくにつれて感情のコントロールが効かなくなって“わたしの何が分かるっていうの。いい加減なこと言わないで”。そう口にしかけて言葉をのみ込んだ。ゴンドラが停止した。係員がかけ寄り、扉を開けた。出口への通路を進んでいくと、とも子が笑顔で待っていた。わたしが笑顔を返さないものだから、真顔になって心配そうに駆け寄ってきた。わたしはとも子の腕の中で崩れ落ちた。

 とも子が気を利かせて早めに引き揚げるよう言ってくれた。少し熱っぽくて気分がすぐれない、ということにしてくれたお陰で帰りのクルマの中で黙っていられたし、彼女の肩をかりてウトウトすることもできた。ターミナル駅のロータリーに戻るころには気分が持ち直し、寝不足も解消していたが、二人の男とは言葉少なに別れた。「今日はごめんね。せっかくセッティングしてくれたのに」。とも子はその言葉にやさしい笑顔を向けるだけだった。 乗り換え駅で彼女とも別れ、支線のホームで急行電車を待っていた。メールの着信音がした。きっと、とも子だろうと開くと、記憶を呼び起こすのは大変だったが、別れた彼と仲のよかった同級生からだった。

 “本当に久しぶりです。知らせようかどうか迷ったのですが…”。そう始まったメールは、たんに気まぐれのご機嫌伺いではなかった。長文のメールを読み進めるにしたがって身体が硬直していくのがわかった。確かに電車の中での出来事だった。でも、そのとき座っていたのか、吊り革につかまっていたのか、扉付近にもたれかかっていたのか、とにかく実感が欠けていた。メールはこう続いていた。“…いま入院していて容態が芳しくないようです”。頬のこけた彼の相貌が目に浮かんできた。メールでは詳しい病状や入院先など肝心なところが省かれていて、別れた彼女のわたしに対し変に配慮している感じだった。危うく乗り過ごすところだったが、扉が閉まるギリギリのところでホームへ飛び出した。

 暗いホームから明るい改札口へ吸い込まれるように進んでいった。すでに音の感覚がなかった。内面の静寂感がそのまま外側を包んでいるような感じだった。コンビニの照明が幅の広い光線のように外を照らしていた。不自然にそこだけが明るいエリアを突き抜けて歩いていった。地面をける感覚もあやふやだったし、なかなか身体に伝わって来なかった。ただ、過剰な光の中を泳いでいる、そんな感じだった。うまく息がつけない、脚がおもりのように重たい。意識して身体に力を入れないと倒れ込んでしまいそうだった。何とかマンションのドアの前までたどり着いたが、開けるなり玄関にへたり込んでしまった。意識は鮮明だったが身体が動かなかった。

 わたしは連休を待たず、次ぎの日曜日に帰郷した。特急電車の中で彼のことを思った。それ以外、頭の中を占めるものはなかった。別れたときの、あの心がつぶれるような感覚がよみがえって来ないよう願った。この一年半余り、抑えようにも抑え切れなかったもの、どうしようもない不安感、なんとも言えない徒労感、なぜだか分からないけど焦燥感、そして…。わたしは硬く目をつむり、シートから伝わる規則的な振動に身を委ねようとした。仏教で言う「空」の状態、とにかく何から何まで空っぽにしようと努めた。断続的に短いペースでやってくる心の揺らぎから逃れようと懸命だった。心身耗弱状態とはこのことだと思った。意識が途切れ、異次元で彼と向き合っている感じだった。途中、普通列車に乗り換えて約二時間半、やっと実家のある山あいの町に着いた。二両編成のディーゼル車から、懐かしいホームに降り立った。

 無人の改札を通り過ぎて小さなロータリーへ出た。半透明のフィルター越しに、その光景は広がっていた。少しざらつき感のあるフィルターは時間を巻き戻す効果があるようで、目に映る商店や通りがセピア色に見えて、いまを感じさせなかった。愛惜ただよう空気感と不安げにたゆたう時の流れ。中学生らしき女の子が二人、私服姿でこちらへやって来た。すれ違いざまにチラッとわたしの方を見るも、すぐにふたたび顔を見合わせ、楽しそうに改札を過ぎていった。きっと三駅か四駅前の少し開けた街へ行くのだろう。同じ中学生のとき、出来る範囲で目いっぱいおしゃれして、その街へ遊びに行った思い出が甘酸っぱくよみがえる。駅前の商店は多くがシャッターを閉め、閑散としていた。通りを歩いていてふと気づくと無意識のうちに、小学生の頃よく祖母に連れられて入った小さな食堂を探していた。

 けっきょく食堂は見つからなかった。祖母に手を引かれて商店街を歩いている情景や食堂の中で孫に向かって愚痴をこぼす祖母の表情、たまにカウンターから顔をのぞかせる、愛想のないおじさんの姿などが浮かんできた。店の名称や構え、特徴的な近くの建造物など食堂を特定できる記憶は戻らなかった。商店街が途切れる辺りに確か、学校指定のノートやソプラノリコーダーなどの学用品、体操服も取り扱っていた文房具店があるはずだった。どう表現したらいいのか、店内の、あの少しすえたような独特の臭い。決していい香りではなかったが小学生のころを思い出すには欠かせない、見えないアイテムと言えた。外からのぞき込むと、蛍光灯が点った薄暗い店内に人の気配はなかった。いつもきちんとした身なりの店主は健在なのか、控えめな感じで店番をしていた奥さんは…。

 別れた彼が重篤な状態にあっても、こうした懐かしい感情がわいて来るのが不思議だった。気持ちをそらすというか、心身を維持するために必要な自己防衛機能なのかもしれない。角を左へ折れると実家の門構えが見えてくるはずだった。昔の思い出に導かれながら、辛うじて実家へたどり着くことができた。自宅マンションを出てすでに三時間が経過していた。玄関のチャイムを鳴らすと、母が平静を装うも娘を思う心配した顔つきで扉を開けてくれた。連休を待たずに戻って来ること自体、何かあったのだろうと感じているようだった。それは、わたしの表情や素振りから確信に変わり、思った以上に深刻だと感じ取っているようだった。母は言葉少なにわたしを迎え入れ、すぐに台所へ戻りお茶の用意を始めた。気持ちを鎮めるためにインターバルが必要だった。普通なら、余計な心配をかけないように何ごともなかったように振る舞うべきなのだろう。でも、今回はそうした余裕がなかった、母だから甘えていた。「思ったより早かったね」。客のように床の間を背にして膝をくずしているわたしに、子どものころ好きだった茶菓子を出してくれた。

 家を出てからほぼそのままにしてくれている自分の部屋で、彼の消息を知らせてくれた同級生の男の子にメールをした。気を利かせて知らせてくれたお礼のほか、いま実家に戻っていること、明日の夕方には戻らなければならないこと、そして彼を見舞おうと思っていること…。淡々としたトーンがかえって感情を抑えようと必死の、いまの心情を表していた。ただ、彼の病状については聞けなかった。同級生はこちらの気持ちを察知したのか、余計なことに触れず一番聞きたかった入院先を教えてくれた。少しぐらい病状について触れて来るかと構えていたが、あえて避けているように思え、かえって不安感が募っていく。わたしは絨毯の上に腰を下ろし、ベッドの側面にもたれかかった。木製の学習机が小さく見えた。勉強している姿は浮かんで来なかったが、交換日記に何を書こうか、思案する高校生のわたしが現れてきた。

 仲のよい女子四人と、どういう経緯で加わったのか今では思い出せない男子二人。その六人で交換日記を始めた。そのうちの一人が彼だった。もちろん、卒業して十年近く経ったあとに付き合うなんて思ってもいなかった。交換日記で具体的にどんなやり取りをしたのか思い出せなかったが、かわいいイラストを交えて描いて寄こす子を真似ようとしたがうまく行かず、羨ましく思ったことがよみがえってきた。確かひとり一ページの配分だったと記憶しているが、細かい字で書き連ねる子もいる中で、わたしは埋めるのに苦労した。ほかの子に比べてクラスで起こる出来事に敏感でなかったし、なにかにつけ好奇心の薄い生徒だった。交換日記も、一番仲の良かった女の子が参加していなかったらやってなかっただろう。

 彼は隣町の総合病院に入院していた。実家からクルマで三十分ほどの距離にあった。わたしは次ぎの日、母が用意してくれた手の込んだ朝食もそこそこに家を出た。久々の運転だったが、実家にいたころと同じ小型車だったし、病院のある辺りの道路事情もだいたい頭に入っていた。通っていた高校の前を通り過ぎるとき、スピードを落として校門から延びる坂を見上げた。部活の練習に向かっているのか、自転車で上っていく男の子の姿が見えた。彼を意識するようになったのはいつのころだったろうか。高校時代は交換日記をする友だちの一人に過ぎなかった。確かにそうに違いなかったが、心の奥底でどう感じ、どう思っていたか。付き合いだして数カ月が経ったころ、彼がこんなことを言ったのを思い出した。

 「あのころは素直な気持ちを表に出せなくて」。普通に解釈すれば当時からわたしのことを意識していた、と受け取れるが、そのときわたしはそれならば卒業してずっと音沙汰なしだったのはどういうわけ? と素直に受け取れなかった。いまこうして付き合っているから言えるわけで、高校生のころから本当にそう思ってくれていたの? なぜもっと早くわたしの前に現れてくれなかったの? その分長く一緒にいられたのに…。十年余りのブランクが惜しまれた。当時のそうした甘酸っぱい思いがよみがえり頬の辺りが熱くなった。川沿いを走っていくと対岸に病院が見えてきた。あと数百メートル、橋を渡れば着くと思うと気持ちが怯んだ。気がつくと病院の駐車場の前を通り過ぎていた。川べりのその道は一方通行だったので、大回りして戻って来なければならない。しまった、という思いと妙な安堵感が入り交じっていた。次の橋までクルマを走らせるしかなかった。

 その日はけっきょく、隣町までのドライブに終わってしまい、早々に実家へ引き揚げた。部屋に戻り、とも子へ電話した。「どうした? 何かあった?」。彼女はすぐに出てくれた。「いま実家に戻って来ているんだけど、もう一晩、こちらにいようかと思って」。そう言うと合点を利かせて「了解。会社には私の方から言っておく。熱っぽくて身体がだるい、でいいね」と見事な対応。そのあと、わたしは実家へ帰った経緯と彼の状況やその思いも少し話した。彼女は聞き役に徹し、わたしの思うようにすればいい、と言ってくれた。「お大事に」。いつもの素っ気ない話ぶりに救われた気分だった。当事者にとって深刻なことでも第三者からみれば大した問題でない。とも子は、負の方へ寄ってしまった気持ちをぐっと真ん中、さらには少し正の方へ引っ張ってくれる不思議な力を備えていた。

 母にもう一泊すると告げると、一瞬不安そうな表情を見せたがすぐに笑顔になって「夕食、何がいい?」と聞いてきた。その歳にしては若いと思っていた母も三年前に父を亡くしてから、白髪が目立つようになっていた。一人暮らしの気楽さよりも寂しさの方が上回っているようだった。私はダイニングの椅子にもたれ、流し台に向かう母の後ろ姿を見ていた。三十半ばで独身の娘を気遣う素振りが端々に感じられ、こういうことが親不孝なんだと反省した。早く孫の顔を見せて、と無神経に言ってくる母親なら、こちらも率直な気持ちを伝えられたかもしれない。これまでそういう機会がなかった分、どういう形で母の中でわだかまりがたまっているのか、察するに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

 二階の自分の部屋へ戻り、ベッドで横になった。チェストの上に置かれた丸みをおびた時計は午後五時を指していた。部屋の主がいなくても変わらず正確な時を刻んでいる。母がちゃんと電池を交換してくれているだけのこと、現象面では確かにそうだが、何カ月も何年も寸分たがわず、誰のためでもなく何に左右されることもなく、ただ刻々と…。それに引きかえ、このわたしは時の流れにうまく寄り添えず、行ったり来たりの繰り返し、同じところをぐるぐる回っているようなものだった。少しずつでも時がこの身を運んでくれるものと思っていた。彼がいなくても寂しくない世界へ。独りでもやっていける、穏やかな風がそよぐ、何に煩わされることもない、そんなところ。誰にも言わなかったが、死んで楽になるなら、と何度か思った。本当にそれで、どこにも持って行きようのないこの思いが消えてなくなり、救われるのなら、そう、心身ともに成仏できるのなら、と。でも、現実はただ、神経症を伴う負のスパイラルへ堕ち込んでいくだけだった。天井がぐるぐる回り出したので目を固くつぶった。ここ数日間、同じような症状が何度も起こり、不安感を増幅させた。

 母はわたしの好きなエビフライを揚げてくれた。「久々でしょ、油ものは一人じゃねぇ」。そう言って一尾一尾、長箸で手際よく油を切ってトレイへ移していく。ダイニングテーブルには、白い皿に千切りキャベツとスライスしたトマトが添えられていた。「お待ちどうさま」。母はそう言ってエビフライを二尾ずつキャベツの山に沿うように高く盛り付けた。「洋食屋さんのエビフライみたい」。そうつぶやくと母は嬉しそうに微笑んだ。わたしは、続けて「この前の手紙。紹介するって話、進めてくれていいよ」と言った。母は「無理してない? 断ってもいいのよ」とコンロにかけた小さなホーロー鍋から味噌汁をついだ。それきり、お互いその話には触れなかった。母がどう忖度するかは別にして、どちらへ転んでもいいと思った。娘の本心を慮って断ってくれても、相手先の手前、会わせようとしても。いずれにしても、彼を忘れる手段にしては非力なものに過ぎなかった。

 次の日、今度こそ彼のいる病院へ行こうと支度をしていると、例の同級生からメールが届いた。“見舞いへ行く前に…”と書き出しのあと、彼の病状に触れていた。“親族以外、ほんの限られた人にしか知らせていないようですが…”と続き、さらに“…そう長くはないようで、せいぜい半年ということです”。最悪の場合と想定していたことが現実になる、それも心の中でわざと低く、その確率を設定していたのに…。このあと、昼過ぎまでどこで何をしていたか、一切記憶が定かでなかった。きっとこの部屋でこのままの状態でいたのだろう。彼は衰弱し、やせ細っているに違いない。でも意識に上るのは、高校時代の彼であり、その十年後に偶然出会ったときの彼、結婚もあるのかなと思って見つめていた彼、そして別れ際の寂しげな彼、だった。

 わたしはクルマへ乗り込み、シートベルトをつけてブレーキペダルを強く踏み込んだ。エンジンをかけようとしたが、握ったハンドルに顔を埋めるように大きな声を上げて泣いた。これまでため込んでいた思いや感情が一気に噴き出した。嗚咽が止まらなかった。しばらくのあいだ、こうしているほかなかった。ただ、どこにも持って行きようのない、奥底に漂う負の固形物が少しずつ溶け出していくような妙な感覚があった。ハンドルから顔を上げた。涙が涸れるとはこのことだった。意識が飛んでいることに変わりなかったが、その場にとどまってはいられなかった。制御できない思いが、何かへ向かわせようとしていた。どこへ? どこでも良かった、心身を維持できるところなら。

 病院とは反対の方角へクルマを走らせていた。幹線道路から高速道の入り口へ向かった。車内の静寂感が心地よかった、何もかも止まっているようだった。料金所を通過し、高速道の本線へ移った。アクセルを踏み込んだ。ぐんぐんスピードが乗っていく。走行車線から追い越し車線へ。バックミラーに目をやると、後続車が小さく見えた。トンネルが迫っていた。速度を落とさず、オレンジ灯が滲む薄暗がりへと突っ込んで行った。身体が浮き上がるような、どこかへ引っ張られていくような感じがした。同時に視界が狭まり、目がなれるまで時間がかかった。このまま走っていくと異次元へトランスポートしそうだった。浮遊感とともに不安と、少しばかりの期待が交差していた。バックミラーに目をやると、後続車が勢いよく迫って来ていた。アクセルをベタ踏みしても小型車では太刀打ちできそうにない。追い越し車線を譲り、走行車線で減速した。遠くに見えていた明かりの環がしだいに大きくなって来る。トンネルを抜けた。暗がりから一瞬のうちにまばゆい明るみへ。遠くの空から一筋の光が地上へ降り注いでいた。

 当て所なくクルマを走らせるのは初めてだった。どこへ行こうとしているのか、何から逃れようとしているのか、誰を求めているのか。この狭い空間の中でただ漫然とハンドルを握り、アクセルに足を置き、フロントガラスの先を見つめている。障害物は何もなかった。時間のベクトルが空間の隔たりにピタリと寄り添い、穏やかに進んでいく。心身の均衡が保たれ、不安や焦り、怯えまで消し去ってくれそうだった。路面の継ぎ目ごとにリズミカルな音が身体へ伝わってくる。それは、内側でガサガサと動き出そうとする余計なモノどもコトどもを抑えるのに効果的だった。このままの状態が続くのを願っていた。ただ、長短いくつかのトンネルを抜けるたびに、心の内に微妙なズレが生じて、何かが剥がれていくのを感じていた。

 内外ともに心身もろともすっぽりと、何かに覆われている気分だった。たんに時間の経過とともに暗くなってきたからなのか、空間がモノトーンに染め上げられただけなのか。車窓から広がる光景に実感がなく、スクリーンに映し出されたタブローのようだった。それは一服の絵画のように静かに佇んでいた。何層にもなるフィルムの中でなぜ、その個所なのか、誰がそこで止めたのか。結果に対する理由があるはず、と思ったがどうやら論理で解決できそうになかった。予期せぬ出来事、想定の範囲を超えたもの。情動といえばいいのか、自然な心の動きというか。この社会で生きるために打ち棄てて来た余剰物、役に立たないと烙印を押されてきた余りもの。これまで見ようとしなかった奥底に流れる、潜在するものども。精神科医が訓致・調教しようと躍起になる、どろどろとした流動体。形になりそうで枠に収まり切れない、可能性の集積体。本来、そこに根ざすべきだった、これまで無視され続けてきたカテゴリー。そう、何ものにも左右されない、一番信頼できる超越体。自身と限りなく向き合うことで、やっとその一端を見せてくれる真なるもの。こういう出会いは、この一度きり?

 彼のことを考えた。なぜ別れたのか、はっきりとした理由が浮かんで来なかった。あのとき、わたしは“わたし”だったのか、自信も実感も持てなかった。記憶が薄れたというより、あのときといまとでは感じ方が違っているだけなのかもしれない。それが一年半という時間の経過なの? 肝心なものがすっぽりと抜け落ちるように、わざと記憶から消し去ろうとしている? だからと言って何も見えていなかったわけでなく、これまで気づかなかったものを感じられたし、おぼろげながらも尊いものに触れた気がした。あのとき、ああしていればと後悔するようなものでなく、彼と内側でシンクロしていた、あのかたちにならない数々のモノども、見えにくく捉えがたい、かけがえのないコトども。それらが彼との別離をきっかけに顕在化し意識の俎上に上って来た、遅ればせながら? ほどけて離れてしまった? そう思っていたものが実際は裏で固くつながり、引き合っていた? あのとき、なぜ、彼の言葉をそのままに言葉通り、受け止めてしまったのか。

 もっと行間に気を配るべきだったし、たんに表層にすぎなかったかもしれないフレーズに惑わされず、彼の本心へ向かって迷いなく近づいていけばよかった。そうできなかったのは、それだけ弱っていたということ? いや、正直なところ、そこから逃れたかった、これ以上傷つきたくなかった、この辺りで終わらせたかった。そうじゃなかったの? 肝心なときに、一番当てにしてはいけない、言葉に頼ってしまって。表情や仕草をしっかり見極めて、彼が放つあらゆるものにもっと敏感に、もっと素直に触れていれば、こんなことにはならなかった? 立ち去る彼に、このまま言葉をかけなかったら、きっと終わってしまう。あのとき、確かにそう思った。でも、これでもう会えなくなる、彼を感じられなくなるって思えなかった。勝手な思い込みがあった、彼への甘えがあった。いずれ彼が戻って来ると…。

 三日が経ち、五日が過ぎた。電話でなくてもメールぐらいは来るだろうとたかをくくっていた。お互い意地を張り合い、我慢くらべになっている、そう思い始めたのは一週間を過ぎたころだった。わたしは何度かケータイに手をのばし、画面を見つめた。“この前は…”と打っては削除を繰り返した。意識していなかったけど、どこかで先に動いたら負けって思っていた? この機に及んで駆け引きをしていた? 一番やってはいけないときに。彼が連絡を寄こさないことに頑なになっていた。原因はどうであれ、こういうときは男から動くべきだ、そういう女の勝手な意識、思い上がりがあったのかもしれない。二人の関係性において必要以上にイコールやイーブンを求めていなかったし、それこそ権利主義者のように対等な関係が正しいとも思っていなかった。二人のあいだの違い、性格や趣味趣向の相違がかえってその関係性を深め豊かにしてくれる、そう思っていた。でも、こうした独りよがりの思い込みが、二つのものを一つにする、そう、一番大事で尊いプロセスを阻んでいた? ドライな結びつきやそれに伴う変な安心感、油断につながっていた? それが致命傷だった? いや、わからない…。

 さすがに一カ月近くも過ぎると、このまま自然消滅、フェードアウトしてしまうかもしれない、向こうはそのつもりでいるのではないか。そうした身の置き場のない不安が生じ、焦りが募っていった。そうかと思えば、頭のどこかで最後の最後にこちらから動けば一気に元に戻せる、事を解決できる、そんな何の根拠もない自信というか、まだ猶予があると甘くみていたところがあった。付き合った六年という歳月は軽いものではないと楽観していた。きっかけさえあればお互い水に流せる、少なくともわたしの方はこれまでの関係性からそう判断していた。彼がどう考えているか、どういう心境でいるのか、わたしのことをどう思っているのか、本当のところはどうなのか…。相手の身になって慮(おもんばか)る力が底をつき、何かにつけて当たり前のように自分本位になっていた? よく言うことだけど、付き合い始めたころに気持ちを引き戻していたら…。こんなわたしになっていなかった。

 メールの着信音に気づいた。ドリンクホルダーに立て掛けていたケータイの画面を見ると、続けざまに三件、いずれも母からだった。ちょうど目の先にパーキングエリア(PA)の表示が出ていた。あと三百メートルの距離だった。走行車線から減速し、スムーズにPAへ入った。大型バスとトラック以外、乗用車はまばらだった。広大な駐車場の端にクルマを停め、メールを確認した。どこへ行くのかも告げず、無愛想に突然クルマで出て行った娘を心配するのは当然だった。わたしは、心配しないように、と返信した。いまどこで何をしているのか、運転の方は大丈夫なのか、帰りは遅くなりそうなのか。母はすぐにメールを返して来た。わたしは細かいことには答えず、多少遅くなるけど夕方には戻るとだけ打って返した。本当に戻るつもりでいるのか、そのとき、自分でも分からなかった。

 このまま進むにせよ、引き返すにせよ、何も急ぐ必要はなかった。クルマから出てPA内の休憩施設へ向かった。ちょうど午後三時を少し過ぎたころだった。朝食も摂らず、ぶっ通しで運転してきたのに空腹感はなかった。テークアウトでラーメンなど軽食を食べるツアーのおばさんたちやトラックドライバーらに混じり、大きなテーブルを前に座った。旅行でテンションの高いおばさんたちの甲高い声とドライバーの疲れた表情が、どういうわけかうまくシンクロして、妙にしっくりした空間を形づくっていた。わたしは自動販売機の前まで行き、ホットコーヒーのパネルにタッチした。紙のカップがストンと現れ、勢いよく熱いコーヒーが注がれた。思いのほか大きなブザー音がして同時に小さな赤いランプが点った。小窓のようなプラスチックの扉を開けて湯気が立ち上るカップをつかんだ。液体の熱さがカップを通して指と手のひらに伝わり、テーブルまで持って帰れるか、心配になった。

 “一人なんだ、あのときからずっと”。テーブルに置いたカップを両の手のひらで包み込んだ。“一年半も経つのに一人だってこと、なぜ気づかないの?”。ミルクの混ざったコーヒーは溶けたキャラメルのようだった。“どこかで彼とつながっていたつもり?”。カップに口をつけた。コクのない、ただ甘ったるいだけの液体が喉を通っていく。“自然と消えていくものと思っていた、無理に振り払わなくても”。胃の中に熱いものがたまっていく。“彼への思い、その程度とみていた?”。カップから伝わる熱さが少し和らいだ気がした。“こんなに引きずると思ってた?”。賑やかなおばさんたちの姿はすでになかった。“これからも続くの、こんな状態?”。トラックドライバーのおじさんが二人、テレビの方へ顔を向けていた。“これからもずっと? 彼がいなくなっても”。寂しくなった大きなテーブルに肘をつき、紙製カップに口をつけた。“だから? でも…”。ぬるいコーヒーを口の中で持て余していた。

 振り向くと、大きな自動扉から西日が差し込んでいた。夕陽にしてはきつい日差しだった。わたしは顔の前に手をかざし、休憩施設を出てクルマの方へ向かった。フロントガラスを通して陽の光が車内を暖めてくれていた。わたしはクルマを発進させた。本線へ戻るか、出口の矢印の方へハンドルを切るか。けっきょく国道へ出た。また高速道の入り口が見えてきた。そのまま行けば、何ごともなかったように元へ戻れる、料金所を通過し、本線へ合流し、アクセルを踏み込んだ。トンネルが目の前へ迫って来ていた。アクセルから足を浮かし減速した。一瞬のうちに車内がほの暗いオレンジ灯に充たされた。右肩越しにビュンビュンと何台ものクルマが追い越していく。このまま走るしかなかった、答えがなくても。“わたしに何ができる? 彼にしてあげられること…”

 実家に戻ると、心配顔の母が出迎えてくれた。わたしはそのまま、二階の自分の部屋へ入り、すぐに帰り支度を始めた。母は黙って傍らに立っていた。「わたし、大丈夫だから」。そう言って黙々とバッグにものを詰めていく娘の姿を、母はただ見守るしかなかった。わたしは中腰のまま笑顔で振り返った。母親としての心得なのか、何も言わず、微笑みを返してくれた。いまから出れば、上りの最終特急に間に合いそうだった。高校時代に使っていた弁当箱に夕食をつめて持たせてくれた。駅の待合室でぼんやりしていると、下りのホームに二両編成のディーゼル車が入って来た。勤め人らしいおじさんと若い女性が降りてきた。わたしは壁に設えられた木製ベンチの隅に座っていた。二人はチラッとこちらへ視線を向けて足早に駅舎を通り過ぎていった。ベンチから腰を上げ、改札を抜けてホームへ出た。上りのディーゼル車が近づいて来ていた。

 後ろの車両に乗った。車内にはわたしのほか乗客はいなかった。ディーゼル車の腹に響くエンジン音にシュッという扉の閉まる油圧音が重なった。一瞬の静寂のあと列車が動き出した。反動で身体が背もたれに軽く圧し付けられた。わたしは膝の上に置いたカンバス地のショルダーバッグを横の席へやって車窓へ目を移した。まばらに点る街路灯と家の明かりがゆっくりと静かに後ろへ流れていく。“彼にしてあげられること…”。頭の中でずっと繰り返していた。浮かんでくる幻影をそのままに、彼との思い出に寄り添った。忘れようと努めていた、これまでのわたしから解放されようと。もう彼から逃げる必要はなかったし、自分を責めるのもやめようと思った。一人で過ごした時間を止めて、ふたたび彼へ近づいていく。やっと戻った、彼と共有する、この感覚。“彼にしてあげられること…”。

 乗換駅で特急電車の発車を待っていた。腕時計を見ると、午後八時前だった。この分だと、自宅に着くのは十時過ぎになるだろう。今日一日、固形物をお腹に入れてなかったことに気づいた。さすがに昼過ぎのコーヒー一杯だけではもたない。バッグから母特製の弁当を取り出し、膝の上に広げた。この時間の上りの特急電車は閑散としていた。わたしはちょうど車両の真ん中あたりに座っていたが、前と後ろの方に一人ずついる程度だった。どこかでお茶を買っておくべきだった。あきらめて食べ始めたが、もしかして、とバッグをまさぐっていると小さなペットボトルに手が触れた。母の顔が浮かび、少しは説明して出て来るべきだったと後悔した。わたしは箸を止めて母へメールをした。いま特急電車の中で弁当を食べていること、ないと思っていたお茶が入っていて嬉しかったこと、好きなミートボールの味が懐かしいこと、そして彼のことにも少し触れた。

 ターミナル駅で馴染みの在来線に乗り換えて自宅へ向かった。最寄り駅に着いたとき、さすがに身体が重く感じられた。脚を引きずるように改札を抜けて、コンビニの前を差しかかった。母の愛情弁当でも補えなかった甘いものを欲していた。久しぶりにデザート棚の前に立った。何点かニューフェースが並んでいた。けっこう気分が上がっていたのか、値段を確認せずにそのままレジカウンターへ向かった。薄くゼリーをまといフルーツの乗ったパフェ風デザート。小さなレジ袋に収まった新作スイーツを左手に下げ、ショルダーバッグを抱え直した。コンビニを出ると、ほとんど人影はなかった。マンションのエントランスが変わらず煌々(こうこう)と明かりを放ち、出迎えてくれた。メールボックスをパスしてそのままエレベーターへ。二日間空けただけだったが、夜分のせいか玄関ドアがよそよそしく感じられた。シューズボックスの上にレジ袋にくるまれたスイーツを置いて靴を脱ごうとした。バランスを崩してショルダーバッグが肩からスルリと床に落ちた。解放感というより強い脱力感が襲ってきた。

 玄関先から左側にキッチン、その奥に八畳の部屋が見通せた。視線が低いせいか、見慣れない光景に思えた。意識は冴えていたが身体がついて来なかった。しばらくのあいだ、その場にへたり込んでいた。狭い玄関の壁にもたれかかり、目をつぶった。まぶたの裏に過去の情景が浮かび上がってくる。セピア色に褪せた映像は粗くざらついていた。でも、間違いなく“彼”と一緒にいた。リビングにいる彼をキッチンから見つめている。ときおり笑みを浮かべるその横顔はいつもの彼だった。こちらの視線に気づかず、安心し切っている様子がわたしを和ませた。コンロにかけていた片手鍋は沸騰していた。ボウルに上げた青菜を湯にくぐらせ、冷水へさらした。まな板の上には途中まで皮を剥いたジャガイモが転がっていた。彼は何を見ているの? やさしい眼差しはどこを向いているの? 視線の先にわたしはいるの? いつ、わたしに気づいてくれるの? スライスした玉ねぎを両手鍋に入れて炒めはじめた。このあと、何が起こるか。彼は感づいていたの?

 お互い、そういうつもりではなかった、と思う。わたしも、彼も、きっと。少し意地を張っていただけ? もう手遅れに心が離れてしまっていたわけではなかったし、元に戻そうと思えばできたはず、だった。ほんの少し、彼の方へ動いていれば。たとえそれがわたしの思っていた方向と違っていても。ただ、その程度のずれなら、いつだって修正できると思っていた? そうした変な安心感、甘えからくる油断が取り返しのつかない結果を招いてしまう…。あのとき、彼は何を考えていたの? 同じようにこれは取るに足らないこと、一時的なこと、いつでも引き返せると…。セピア色のわたしは穏やかな表情で両手鍋に向かっている。玉ねぎはあめ色に変わった、次は…。コマ送りのような粗い映像はそこまでだった、このあとの情景を拒否するかのように。わたしは重たい身体を持ち上げた。脚を引きずり壁つたいに、誰もいない部屋へ。そのまま崩れるようにソファーに身を沈めた。

 レースのカーテン越しに朝の光が広がっていた。しばらくのあいだ、目が開けられなかった。わたしはソファーから起き上がろうと身体に力を入れた。久しぶりに熟睡したからなのか、思いのほかかんたんに起き上がれた。ケータイを身体の下に敷いたまま眠っていた。見ると、とも子から着信があった。“大丈夫? 戻ってるの? 会社へ出られる?”。一時間前だから五時半に送信してくれていたことになる。わたしはソファーに座り直した。“心配かけてごめんね。いま会社へ行く支度をしているところ。今日もよろしく!”と打った。彼女はすぐに返してくれた。“了解です。よかった! じゃあ、あとで”。朝のルーティンに従って身体を動かした。気持ちが落ち着いていくのがわかった。一つのことだけを考えよう。ほかは日常の流れに任せておけばいい。雑念を振り払おうと必死だった。彼のことだけを考える、意識の中心に彼を置く、ただそれだけ。わたしはいつもより早く家を出た。

 「元気そうでよかった。心配して損したかも」。とも子が例のごとく、軽口をたたきに来た。わたしの照れたような表情を見て安心しているようだった。「お昼はいつもの喫茶店でいい?」と言うので、「マスター見るの、久しぶり」と返すと「動物園へ行くみたい」。彼女はそう言ってコピー機の方へ行ってしまった。いつから置いていたのだろう、机の端に隠れるようにクマのキャラクターがいた。小さな茶色いクマちゃんがこちらを見ていた。わたしの都合のいいときだけ、こちらの気持ちが穏やかなときにだけ現れ存在する、キーホルダーより少し大きめのクマちゃん。彼にもらったことも忘れていた。別れたときになぜ処分しなかったのか、なぜ生き延びてこうしてわたしの前にいるの? 不思議だった。わたしの意識の中に戻って来てくれたの、男の子のクマちゃん。一年半ぶりだった。

 例のマスターのいる喫茶店はめずらしく混んでいた。と言っても普通の喫茶店にしてみれば六分程度の入りに過ぎなかった。哀愁ただようおじさんと妙に疲れて見える若い男の法則が崩れて、とも子も調子が狂っているようだった。奥の指定席に、とも子よりもずっと?若い女子二人が占めていた。「わたしら以外、女の子見たの初めてじゃない?」。口を尖らせて不満げな感じがおかしかった。「もしかして、ここのオムライスが評判に? いや、そんなことあるはずない」と変な自問自答をするので「どこかの雑誌に取り上げられたとか」と返すと、とも子は首を振って「そんなはずはない」と繰り返した。オムライスをたのむ気になれなかったのは、とも子も同じみたいだった。自意識過剰気味の、いつもの変なパフォーマンスでカレー皿をテーブルの上に滑らせるマスター。そのあと、颯爽とカウンターへ引き上げていく。その姿を見送りながら、これもいつものように顔を見合わせて「もしかして…」と言いかけて目配せするので、さすがのわたしもタイミングを合わせて小声で合唱するように「ない、ない、そんなはずはない」。お腹が痛くなるほど、思いっきり笑った。

 わたしはその日の夕方、高校時代の例の同級生に連絡した。電話で話すうちに都内で勤めていることが分かり、実際に会って話を聞くことになった。こんなにためらいもなく、思ったことをすぐに行動に移せるなんて…。この週末に会社近くの喫茶店で会う約束をした。彼の会社からも三駅ほどの距離で少し早めに仕事を切り上げて来てくれるという。高校を卒業して以来の再会だったが、それは間接的であっても別れた彼と久しぶりに向き合うことでもあった。その日が近づくにつれて緊張していく自分を感じた。彼の詳しい病状がわかってしまう怖さもあったが、この一年半、彼がどういうふうに過ごしていたか、友人にとって何気ない一つのエピソードでも、わたしには辛い思いを想起させるきっかけになるかもしれない、そう思うと身体が硬直した。これまで抑えていた彼への思いがどういうかたちで溢れ出てくるか。しっかりとこの身で受け止められるか、やはり不安だった。

 現れた男は、同級生に思えないほど齢を重ね、精彩を欠いていた。写し鏡を見ているようでこちらの印象が気になった。高校時代のわたしを知っているだけに、その変貌ぶりがどう映るか、心配だった。こんなことを考える余裕があったというより、意識を中心からずらしておきたい、本題へ入る前に少しでも猶予を得たい、この機に及んで真実から逃げたい、そんな気持ちだった。でも、長続きしなかった。しばしの沈黙のあと、これまで耳にしたことのない病名が彼から告げられた。何万人に一人しか罹らない難病だという。このあと、詳しい説明が続いたがほとんど耳に入らなかった。ただ、あと数カ月の命、長くても半年…。この残酷なフレーズが繰り返し頭をめぐった。ある程度、覚悟していたつもりだったが、座っている姿勢を維持するのが精一杯で、少しでも力を抜くとイスから崩れ落ちそうだった。

 身体の内と外、いつもは明確に隔たっているはずの二つの極が不安定に行ったり来たりして分別がつかない情況に陥っていた。辛うじて相槌は打っていたが、同じ動きを繰り返す機械仕掛けの人形のようにただうなずくだけだった。断片的に入ってくる男の声を無理につなぎ合わせてしまうと、不必要に意味が成り立ってしまいそうで、これ以上心を揺さぶられるのが怖かった、耐えられなかった。正面から対峙できないでいた、真実を拒んでいた。そうしたからといって、この厳しい現実が覆されることはなく、ただ意識を先へ延ばしている、遅らせているにすぎなかった。彼の口元が動くたびに身体の緊縛度が増した。「大丈夫ですか?」。男は心配そうにこちらの顔をのぞき込むような仕草をした。わたしは声を発しようとしたが、少し顔を上げてうなずくのがやっとだった。

 男は病状の説明を終えたようで、このあと何を話せばいいか、困ったふうだった。「それじゃあ…」と言って立ち上がり、少し間を置いてから「気にしていたよ、ちゃんとやっているのかなって」。同級生のトーンに変っていた。わたしは顔を上げられなかった。男はテーブルを挟んで見下ろすように立っていた。どのぐらいそうしていたのか、続けて何か言おうとしてやめたように見えた。テーブルの上の伝票に手をかけようとしたので、その下に手をやった。「今日は、わざわざすいませんでした」。やっとのことで声をしぼり出した。同級生は一瞬、戸惑った様子を見せたあと、少し表情を緩めて会釈した。「あの…」。テーブルから離れようとする彼を引き止めるように話しかけた。「…わたしのことは心配しないでください、と…」。やはりそのあと言葉が続かなかった。彼は分かったという表情を浮かべてうなずいた。「気持ちの整理ができれば一度会ってやってください」。そう言って高校時代に比べて幅が広くなった背中をこちらに向け、扉の方へ歩いていった。わたしは立ち上って頭を下げた。

 意識がその場になかなか戻って来ずに立ち尽くしていると、アルバイトの女の子の視線に気づいた。何もなかったかのように振る舞おうとしたが無理だった、脱力感は相当なものだった。でも、どういうわけか意識は明敏で冴えていた。彼がわたしのこと、どう思っていたのか、もっと聞くべきだった? いや、わたしがどう思っていたか、もっと話すべきだった? 同級生に、ではなく、彼に直接伝えるべき? 会って、話して、私の気持ちを、彼への気持ちを。この一年半に溜め込んだ、持って行き場のない、この気持ちを…。付き合っていたころは一つになろうと一生懸命だった。一つひとつのこと、細かいところまで、しっかり気持ちを合わせて進んで行きたかった。好きならば、それが当然と思っていた。

 パレットの上で絵の具を丁寧に混ぜ合わせ、もっときれいな色に、できれば透き通った色にしようと肩に力が入っていた。彼と付き合っていたころ、わたしはそんな感じだったに違いない。きれいに化学反応を起こせると思っていた。一足す一は二に決まっているのに無理に溶け合わせて、きれいな“一”にしようと懸命だった。いろんな矛盾を抱えて三や四になっても、それがいずれ二人を強く結びつける糧になると当時は思えなかった。臆病風を吹かせて間合いばかり気にして、けっきょくは踏み込めなかった。第三者なら、そんなことぐらいと言い放つことも二人にとっては致命的になってしまう、当事者だから足が竦(すく)んでしまう。一つになるのが無理ならば一とプラスアルファ、二になる手前で程よく関係を結んでいたら? 妥協や打算でなく、違う展開になっていたのかもしれない。

 何度も振り出しに戻っては、この思いをどうにか前へ、別の思いを動かそうと必死だったような気がする。それが解決への早道だと信じていた。そうすることで自分を維持できたし、もしかして新しい何かを引き出せるのではないか、と。でもそれは、自身としっかり向き合わずにただ等身大の自分から目を背けていたに過ぎなかった。けっきょくのところ、彼に対する、わたしの本当の思いから逃げていた。とにかく意識から消し去ろう、無きことにしようと。遅きに失したのだろうけど、いまわたしにできるのは彼への思いにしっかりと向き合うこと。回り道をしたけれど、やっとそう言い切れるようになった。ごまかさずに真っ直ぐ、彼に向き合おうと思う、限られた時間だけれども。自分の中の彼への思い、それだけでなく、彼の、わたしに対する思いも受け止めて。そう、臆病にならずに。


 「おはよう。今日、付き合ってくれる?」。朝、エレベーターを待っていると、後ろからとも子に肩をたたかれた。振り向いたわたしを見て「化粧変えたの? 肌に透明感…」と言って笑った。言い返そうとしたらエレベーターの扉が開いた。押されるように中へ進み、肩を並べてこみ上げて来る薄ら笑いをこらえた。週始めの朝礼が始まった。毎週こうして終始うつむいて漫然と取りとめのないことに思いをはせる。ほとんどが日常瑣末なことで“シャンプーが切れそうだから、少し足をのばしてあのドラッグストアに寄らないと…”とか。他愛のないことに意識をそらすと、ちょっとした気分のリセットになる。違う意味で週始めの大切な時間だった。“朝、うまく髪をセットできたし…”。四、五人いる部長が順番に事業や業務の進ちょく状況、今週の主な予定などを報告していく。“久しぶりにカラオケもいいかな…”。企画部を最後に朝礼が終わった。“その前の焼肉はあそこで…”。ほとんどの社員がそのまま腰を下ろし、仕事を始めるなか、とも子が身体をくるりと回転させて総務部の方へやって来た。“どうしたの?”という表情で彼女を見上げると、小さく手招きしてカウンターの前を過ぎて行った。

 「ごめんね、これから仕事なのに…」。いつものとも子と違い、うつむき加減に話し出した。「…こんなところで言うのもなんだけど、会社、辞めようかと思って」。結論から先に言うところがとも子らしかった。わたしは驚いたふうを見せずに「前から決めてたの? 後でゆっくり聞くわ」と応じたが、内心では“彼と別れたのが原因? それとも何か新しいこと、やりたいの?”と。ここのところ、彼女がどうだったか、頭をめぐらせた。とも子はいつもの調子に戻って「それじゃ、よろしく」と言ってデスクへ戻っていった。彼のこともあって、あの旅行から半年以上も経つのに、彼女とじっくり話していなかった。いつからそう考えていたのか。わたしも、彼のこと、しっかり話そうと思った。

 仕事の合間にネットを開いて、ゆっくり落ち着いて話せそうな店をさがした。とも子と何度かメールでやり取りして、ワインがいけそうな、ちょっと高めのイタリアンレストランに決まった。企画部は総務部のように五時きっかりとはいかず、とも子は約束の時間から二十分ほど遅れてやってきた。「いつもごめんね、常習犯で」。息を弾ませて前に座った。彼女の好きな赤ワインをボトルで頼んだ。「半分は飲んでよね、顔が赤くなるの嫌だから」と嬉しそうにグラスをかかげた。わたしも遅れて同じように乾杯の格好をした。前菜に添えられた香味野菜が口いっぱいに広がった。「いつ辞めるの?」と聞いた。とも子は他人ごとのように「さあ」と素っ気なく、それ以上言葉をつながなかった。「まだ迷っているってこと? 部長には言ったの?」と少々たたみ掛けるような感じになった。とも子は首を横に振って「これから言おうと思っているけど」。歯切れの悪い話し振りに、それ以上追求するのをやめた。

 とも子はホワイトソースとチーズたっぷりのこってり系パスタを選び、わたしは魚介中心のトマトベースにした。この話を続けようか迷っていると、彼女の方から「もう三十前だし、そろそろかなと思って」と言い出した。「えっ、それって結婚ってこと?」。思わず声のトーンが上っていた。彼女は困ったような顔をして「そんなニュアンスになっているけど、正直まだ迷っている」と言ったきり、丸めたパスタをなかなか口へ運ぼうとしなかった。それ以前に、そうした男が出来たなんて聞いてなかったし、彼と別れてそんなに経ってないのに! ムッとした不満げな表情をしていたと思う。彼女は「ごめんね、彼のこと、何も話さないで」と申し訳なさそうにした後、少し間を置いて「何度か会ってるよ、知ってる人だよ」。考えるまでもなく、それならあの男友だち以外には…。「ちょっとびっくり、ずっと友だち関係だと思ってた」と驚くわたしを見て、とも子は「ほんとうに友だちの域を出ているのか、自分でも分からない」。これまで見せたことのない、真面目な表情で下を向いた。

 「けど、そんな状態で本当に結婚できるの?」。自分では気づかなかったが四つ上のお姉さん的説教口調になっていた。「別れた彼とのことも含めてそうかんたんに気持ちの整理、できないでしょ」とさらにたたみかける感じに。とも子はパスタをフォークで掬ったり、丸めては解いたり、軽く混ぜてみたり…。彼女らしくなく、言葉を探していた。友だちから始まって、途中意識し出して、結果好きになる、そんな経験、わたしにはなかった。「なかなか難しいんじゃない」。無責任にそう言い放っていた。彼女は下を向いたまま、別れた彼のことなのか今の彼のことなのか、なにやら思いをめぐらせているようだった。男女のあいだでこんなこと、そんなにめずらしくないのかもしれない。でも当事者になってみると…。とも子も、わたしも、下を向いたまま残りのパスタを片づけようとしていた。

 “ずっと一緒にいたい、だから結婚する”。そうシンプルに思える相手なら何も問題はなかった。とも子も同じように考えているのがわかった。三十前だから、いろいろと考えてしまうのも仕方ない、強迫観念のように。わたしも一応通って来た道なので、いまのとも子の気持ち、大体のところは分かってるつもりだった。だからと言って、この先、何の打算もなく一緒にいたいと思える人に巡り会えるかどうか。その確率はどんどん下がっていくに違いない。どこで手を打つか、なんて考えること自体、不愉快で情けない感じがするし…。その一方で、面倒だからいっそのこと、思考停止して一か八か、身を委ねるのも一つの手かもしれないし…。まさに、結婚という得体の知れない袋小路の入り口で右往左往、どんどん自分を追い込んでいく。そして、気がつくと大切なものを失っている…。

 こうした十字路で、自分を見失わず、進むべき道を見つけ出すのは容易でない。ふくらみ続ける妄想にも似た結婚への思いに現実が追いつけなくなる。それに、焦りや自信のなさが加わると、いよいよ悪循環。普通なら行かないであろう方向へ進んでいったり、一歩と言わず半歩でも引いて考えていれば絶対選ばないことでも平気でやってのけたり…。挙句の果てに相手を傷つけ、それ以上に自分も傷ついてしまう。後悔あとに立たず、を地で行く情けない結果に。どうにもこうにも自縄自縛、勝手に万策尽きたと思って投げやりになって、底無し沼に足を取られて…。だからと言って、そうかんたんに時間が解決してくれるわけでなく、このあと気の遠くなるような灰色の日常に苦しめられる…。どうしたら負のスパイラルから抜け出せるのか。

 近道はないだろうし、平坦な道でもないだろう。とにかく足元を見つめ直すことから始めよう、等身大の自分としっかり向き合ってみよう。言い尽くされたどこかの標語でも、陳腐な道徳論だって構わない、答えらしきものが見つかるのなら。急がば回れ、ぐるりと一周回って見えるものがあるかもしれない、同じものでも違って見えてくるかもしれない、新たな答えが見つかるかもしれない。勝手に肥大化させた彼への思いを初期化すること、元へ戻すこと。出会ったころの感覚を呼び戻すこと、ただ相手の身になって考えること、素直になること…。難しいことだけど、うそ偽りのない、虚飾なき内側の声に耳を傾けていれば、いつか奥底から真実の声が聞こえてくる? 啓示が降りてくる? そこで、わたしが試される、本当の自分に出会える…。顔を上げると、とも子が三種のフルーツに生クリームを添えたケーキに向かっていた。彼女の表情がいく分、和らいでいるのに安心した。


 わたしは、キャリーケースにお気に入りのトップスとボトムスを丁寧に畳んで入れた。空いたスペースに、ローチェストの上に並べていた化粧水や保湿液、ベースメークに使っているコスメアイテムを無造作に詰め込んだ。パソコンは持って行くことにした。予想に反して長期戦になるのを期待していた。三カ月で終わるか、半年まで続くか、さらに延びて…。意識して余計なことを考えないようにしていたが、気がつくと頭のどこかでいろんなことを算段していた。そのたびに、彼のことだけ考えよう、彼が求めていることだけに集中しようと思い直した。会社には長期休暇の届け出を出した。今年度の有給をすべて消化するつもりだった。そのあとのことは考えていなかった。きっと、辞めることになるだろうけど、そんな先のこと、どうでもよかった。

 だいたいの準備を整えたあと、ソファーに座り、ケータイの着信を確認した。とも子からメールが届いていた。“何か手伝うことある? 何でも言ってね”。そんなことより、結婚はどうするの? 友だちから格上げされた彼のこと、どう思っているの? 唯一気になることだった。誰しも大事なことはけっきょく自分で決めるものだし、こちらからとやかく言っても仕方ない。彼女もそんなこと、望んでいないだろうし。“ありがとう。予定通り、明日出発します。当分会えないのは寂しいけど”と送信した。とも子は瞬時に“元気で! こっちは全然寂しくないよ”。舌を出した、とぼけた顔の絵文字を添えて返信してきた。さらに一行開けて“ずっーと、そっちで年を取って…。いつになるか、二人の同期会、楽しみにしています”とあった。彼女らしい文面に少し張り詰めていた気持ちがゆるんだ。

 こざっぱりした部屋の中を眺めていると、彼と別れてここに来たときのことを思い出した。あのときから何も変わっていなかった。そう言えば、コンロの横に掛けているミトンも、ソファーに置かれたクッションも、奥の部屋にいるクマのぬいぐるみも…。そして、このわたしも。この一年半、何もかも止まったままだった。新しいものを拒絶していた。内側のどこかに彼を残しておきたい、包み込むようにそっとしまっておきたい、無意識のうちにそうしていた。でも、意識の中では早く忘れて楽になりたい、別の世界へ踏み出さないといけない、そう焦ってばかりいた。こうして振り返ってみると、あの苦しみがわたしを支え、生き永らえる術を与えてくれていたのだろう。奥底にある、そうした思いがなかったならば、生きていても実際は死んでいたに違いない。別の男(ひと)に出会っても、何度か食事をしても、どこかへ遊びに行っても。もちろん、そんなことでわたしは変わらなかったし、変わりようがなかった。そう、彼といっしょに居なかったこの期間、死んだも同然だったのだから。気づくのに少し時間はかかったけど、いまからでも遅くない、やっと彼とともに、どこまでも、最期まで…。

 いつものようにコンビニの前を通り過ぎた。デザート棚を前に新しいスイーツを物色している自分の後ろ姿が浮かんできた。駅へ向かうあいだ、色褪せた光景が次々に目の裏に映し出され、そのたびごとにキャリーケースが地面と起こす耳障りな音にかき消された。この改札を抜けるのも最後かもしれない。いい具合に入って来た急行電車に飛び乗った。反対側の扉の脇にキャリーケースと身体をあずけ、車窓の外へ目をやった。出勤時には見られない、陽光の増した穏やかな風景が流れていく。彼と向き合うのは容易でないだろう。耐えられないかもしれないし、途中で逃げ出してしまうかもしれない。ふたたび傷つけ合い、今度こそ取り返しのつかないことになってしまうかもしれない。限られた時間の中で修復できないまま、性懲りもなく二度目の別れってことも想定しておくべきかもしれない…。意識がクリアになっていくとともに身体が硬直していくのを感じた。

 でもすぐに、自分で自分を呪縛するのは止そうと思った。これ以上、負のイメージに振り回されたくなかった。レベルの低い、鈍磨な安心感に身を置いてきたことを責めた。だからと言って、心身を維持するにはそうするほかなかったし、実際そうした停滞感がなかったら、きっとやって来れなかっただろう。この一年半はそれでよかった、そうしたプロセスがなければいまここに至らなかった、そう自分に言い聞かせた。とも子は別にしても、やっと自分の周りのものに振り回されることなく、余計なことに惑わされることなく、ただ自分と向き合い、彼への思いだけに生きようと思った。彼との関係性以外、どうでもいいこと。彼と向き合うこと以外、何も求めない。ただそれだけですべてが成就する、そんな気がした。彼の死と向き合うこと、イコール生きるってこと、わたしが生きること。彼がそう気づかせてくれた。

 ターミナル駅で乗り換えて実家へ向かう、彼のいる場所へ向かう。こんな過酷な皮肉、非情な運命があっていいものか、神様を恨んだ。彼の不幸がなければ、感情が半分欠けたまま、心身がずれたまま、ずるずると気持ちを立て直せないまま、いつまでも日常に呑み込まれていた。彼がこういうことにならなければ、正直な自分にたどり着けなかった? そんな酷なこと…。これが仕打ちというもの? それは何かの罰、正直に彼と向き合わなかった、わたしの罪? わたしのようなちっぽけな存在には考えの及ばない、感づくことの出来ない、もっと複雑でつかみところのないものに囲まれて生かされているってこと? それが原罪…。

 わたしと彼、ただそれだけの関係性。可否とか善悪、そんなもの、二人のあいだにもともとなかったはずだし、だれがどういうわけで、そんなもの、当てはめようとするの。わたしの思いと彼の思いが交わりさえすれば。それですべてが始まり、進んでいくはずじゃなかったの。わたしたちの内にある、何かあるものが行く手を阻んでいる、邪魔をしている? もっと関係性を良くしよう、深めよう、ただそれだけなのに。思えば思うほど、考えれば考えるほど、動けば動くほど、どういうわけか悪い方向へ行ってしまう。きっと止められるのに、自分で止めようとしない。行き着くところまでいかないと止まらない、負のスパイラル、悪循環…。

 傾いたものを元へ戻したり、偏りを正したり、でこぼこになった気持ちを均したり。感情の起伏や移り変わる思い、知らぬ間の行い。そんなつもりはないのに二人を遠ざけ、ぎこちなくさせる、つかみどころのない空気感というか。遠くに感じてしまう、どんどん離れて行ってしまうような、あの居たたまれない、心細い気持ち。こうした積み重ね、滞留物が内側を満たしていき、容量を超えて徐々にあふれ出す。じわっと外側へこぼれ、べっとりと表面をつたってしたたり落ちていく、わたしを逃れていく、彼から離れていく、ただ抜け殻だけを残して。がんじがらめに、ただ自分から逃げて。

 奥底をのぞき込んで、やっと分かること、初めて気づくこと。思っていた自分を通り過ごして、乗り越えて、醜くも美しい本当の自分に出会って、向き合って、導かれて。彼がいるから、彼がこの内側にいるから、わたしはわたしでいられる。内側と外側、こころとからだが合わさって、充たされて。生まれて来たことの意味を感じ取って。死をおそれず、ただ二人の関係性に浸されて。わたしは彼の中へ、彼はわたしの中へ。何の仲立ちもなく、隔たりもなく。誘われ、導かれ、引きつけられて。ただシンプルに、正直に、二つのものが向き合って、重なり合って、混ざり合って、溶け合って、一つになって…。


 二両編成のディーゼル車が振動を響かせて動き出した。足元のキャリーケースが通路側へ動くのをおし止めた。もともと引き返すなんて選択はなかったけど、ここまで来ればすべてを神様か何かに委ねるしかなかった。見慣れた地、見果てぬ地で彼とともに生きる、わたしを生きる。それは最期を生きること、死を生きること、何もない透明な世界で彼とともに生きていくこと。この世でもない、あの世でもない、彼とわたしの、二人だけの時空間、ピュアワールド。ただ、うなずき合い、静かに漂う。浮遊する彼の精霊に寄り添うこと、わたしの生霊を研ぎ澄ませること。わたしのすべてを彼に委ねること、新しい心身に出会うこと、合一すること。創り出すこと、わたしを解放すること…。

 停車するたびに一瞬の静穏が訪れ、内心に新しい襞、可能性を重ねていく。ふたたびディーゼル機関が起動し、身体に振動を与える、内外のズレを修復していく。雑念が抜けるように徐々に身体が軽くなっていく、心がクリアになっていく。キャリーケースが足元から離れていく、通路へと動いていく。意識の重みを感じる、心地よく内側に広がっていく。わたしは彼を思う、真っ直ぐに進んでいく。短いトンネルを抜けていく、視界が開ける、彼が先へいく。澄みきって穏やかに、わたしが後に続く、追っていく。彼に向かって進んでいく、彼の中へ入っていく、彼に合わさっていく、重なっていく…。

 終着駅なのか、始発駅なのか、もうすぐ到着する。わたしは見慣れたホームに降り立って改札口へ向かった。キャリーケースが発てる音は聞こえなかった。 (了)


 

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普通に彼のこと、わたしの場合 オカザキコージ @sein1003

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