覚醒の章 2-8
マリサが慌てて現場に駆けつけたとき、その部屋は血と肉の海だった。
部屋の床だけでなく、壁にも血と肉片が飛び散り、もはや誰が誰かわからないほどに、いや人として認識できないほどに粉砕されてしまっていた。
そして、そんな中、部屋の中心で血まみれの拳をだらりと下げて霧島秋穂は立っていた。
すーっと視線がマリサを捕らえる。
「あら、マリサさん……。もう仕事はいいの?」
まるでどこかに遊びに行くような気軽さで聞いてくるが、その表情に浮かぶのは虚空の笑みだった。
そしてその笑みを見せられ、マリサは背筋がゾクリとなってしまい、一歩後ずさってしまう。
それはマリサにしてみれば二人目だ。
一人目はイセリナであり、あの吸血鬼に始めて会った時、彼女は恐怖を初めて知った。
そして、今、二人目である秋穂に感じたもの……。それは虚空だった。
まるで吸い込まれてしまうような感覚。
何もかも吸い取ってしまい、何も残さない。
そんな感覚を感じてしまっていた。
「どうしたの?マリサさん、すっごく顔色が悪いわよ」
そう言って秋穂は周りを見渡すとああと納得したような表情になる。
「ごめんなさいね。楽しくて楽しくて。ついつい遊びすぎちゃった……」
くすくすと笑いながらそう言う秋穂だったが、その目からすーっと涙が流れる。
「あれ?私、なんで泣いてるんだろ……。おっかしいなぁ……。あははは……」
そう呟くように言うとまるで電源が切れるかのように秋穂はその場に崩れ、慌ててマリサが受け止める。
呼吸はしているし、脈も問題ない。
多分、疲労から気を失ったのだろう。
そう思い、彼女を馬車に運び、そのまま横にする。
そして、証拠などを集めるとイセリナを呼び、その場を離れた。
イセリナに聞いてもはぐらかされるだけとわかっているため、詳しい事は秋穂に聞けばいい。
そう思って何も聞かなかったマリサだったが、それから2日たっても秋穂はまるで世界を拒否するかのように眠り続けていた。
「これはどういうことだっ」
怒気の含まれた声。
それは南雲の声だ。
後始末のため、一隊を率いて向い、戻ってくれば秋穂は昏々と眠り続け、彼女に就けていた侍女とその姉妹は死亡してしまったと報告されればそうも言いたくなる。
「申し訳ありません……」
アーサーが脂汗を流しつつ頭を下げる。
その様子に南雲は怒気を抜くかのようにふうとため息を吐き出す。
「また、イセリナか……」
アーサーの様子から察したのだろう。
椅子の背もたれに身体を預けつつため息と共に言葉を吐き出す。
アーサーは何も言わない。
いや、言えないといったほうがいいだろうか。
「わかった。後はイセリナに聞く。ご苦労だった。下がっていいぞ」
南雲はそう言うとアーサーを下がらせた。
「参ったな……」
窓の方を見上げてそう呟く南雲。
そして、ドアがノックされる。
「入れ」
短く南雲がそう言うと「失礼します」と言ってメイド姿のマリサが中に入ってくる。
「お茶をお持ちしました」
彼女はサービスワゴンを部屋に入れるとドアを閉めて手早く準備を始める。
しばらく沈黙が続いた後、用意した紅茶をディスクに置いたマリサが呟くようにいう。
「申し訳ありませんでした」
その言葉に、「もういい」とだけ返事をする南雲。
マリサが入れた紅茶を啜り、またため息を吐き出す。
「返すつもりだったんだけどな……」
その言葉は呟きだったが、マリサにはとても重い言葉だった。
「もう、無理ですか?」
「多分な……」
短くそう答える南雲の顔は苦虫を潰したように歪んでいる。
「多分、覚醒してるよ……。俺のように……」
マリサはゆっくりとそして深々と頭を下げた。
自分のふがいなさに情けない思いだった。
普段の鉄仮面のような無表情が崩れ落ちていた。
それを南雲は見ないようにして紅茶を飲み終わると「後は任せた」と残して退室した。
行き先はイセリナのところだ。
廊下を進み、一番奥の扉を開く。
そこにはゆっくりとだが下に沈んでいく階段があった。
ぽーっと魔法の光が灯り、足元を照らす。
かつん、かつん…。
まるで螺旋のように階段は続き、南雲の鉄入りのブーツの音が響く。
どれほど降りたのか。
それすらもはっきりしない中、いつの間にか目の前には扉がある。
豪華で煌びやかな反面、冷たいような金属製の扉が…。
そして南雲が手を伸ばそうとすると、ゆっくりとだがまるで待っていたかのようなタイミングで扉が開く。
そこに姿を現したのはニーニャだった。
いや、正確に言うとニーニャだったものだ。
姿形はまったく同じではあるが、肌は血の色を失い真っ白になっている。
そして、生命に溢れていた表情はそこにはなく、まるで虚無のような無表情だった。
以前と同じメイド服を着ているため、その差がよりはっきりと感じられる。
「よくいらっしゃいました。南雲様」
棒読みのような平坦な喋りでそう告げられ、南雲の顔がぴくりと引きつる。
「お前の主人のところに案内してくれ」
南雲はそれだけ言うと表情を殺す。
「承知いたしました。こちらへ……」
ニーニャの案内を受けて、廊下を進む。
いくつかのドアを通り過ぎ、とあるドアの前でニーニャの歩きが止まった。
今まで通り過ぎたドアとまったく変わらないドアだったが、ニーニャだったものにはそこに主人がいるのがわかるのだろう。
「こちらでお待ちでございます」
そして、ドアを開けた。
南雲は躊躇なくその中に入る。
そこは応接間だった。
地下であるため窓はなく、その代わりに外の景色が描かれた絵画がいくつも並んでいる。
そして、かなり大きな部屋の中央には低めのテーブルがあり、その周りに皮製のソファが並んでいた。
「ようこそいらっしゃいました。我が愛しい人……」
ソファの一つに座っていた吸血鬼の姿をしたイセリナが立ち上がり優雅に礼をする。
その様子はまさに高貴な貴婦人のようだ。
しかし、そんな様子を南雲は冷めた目で見ていた。
「挨拶はいい。しかし、悪趣味だな……」
南雲が後ろのドアの方を目で見て言うとイセリナがくすくすと笑う。
「この世界では、死体はモノでしかありません。拾ったモノをどう扱おうが拾った者の自由ですから……」
「ふん……。まずは報告を聞こうか」
それだけ言うとずかずかとイセリナの向かい側のソファに座る。
そんな南雲の態度と言葉を楽しそうに笑顔で受け止め、イセリナもソファに座った。
そして、報告を始める。
いや報告という名の物語だ。
吸血鬼の彼女にしてみれば、自分以下の存在である人々の出来事は物語でしない。
なぜなら、まったく自分とは違う次元のものだから……。
彼女と同じ次元の人物がいるのなら、それはきちんとした報告になるのだろう。
しかし、その報告として対等の対象者は、今のところ一人だけだ。
いや、つい最近増えて二人になった。
ともかく、そんなわけで、彼女は報告という名の物語を最後まで話し終えた。
それを聞き終わり、ぎろりと南雲がイセリナを見る。
「なぜ、こんなことをやった。俺は彼女を元の世界に戻すと約束したんだぞ」
南雲の言葉には怒気が含まれていた。
そんな怒気の含まれる言葉を、イセリナはくすくすと笑い流す。
「ほんと怖い顔。久々ですわね、そういう顔は……」
そう言いつつも、実に楽しそうに笑い続ける。
そして言葉を続けた。
「いえ、彼女が望んだからそうしただけ。ちゃんと連れて帰ろうとしたんですよ。でもね……」
そこですーっと彼女の目が細まり、瞳には歓喜の色が広がっていく。
「あの娘が戻ろうとしたんです。さらう手はずをしたメイドを、友人して助けに行くと言ってね……」
くすくすくすという笑いは、いつしか高笑いへと代わっていく。
その音がすごく耳障りだと南雲は感じた。
そして、なぜそう思ったのか、次のイセリナの言葉ではっきりする。
「ふふふふ、まるで誰かと同じですわね、我が愛しい人……」
その言葉に南雲の身体にぎりりと力が入り、奥歯が悲鳴を上げる。
すーっと汗が流れる。
そうか、だから……。
南雲は不愉快な理由がわかる。
「あの時は人を信じすぎた馬鹿な吸血鬼をだったかしらね。あなたは彼女は友人だと……」
「言うなっ……」
我慢しきれなくなって南雲が叫ぶ。
はあはあはあという荒い息が漏れる。
「頼むから……言わないでくれ……」
息を切らしながら、さっきの叫びとは反対にぼそりぼそりと言葉が漏れた。
すーっとイセリナが立ち上がり、南雲の隣に座る。
そして、ゆっくりと身体を南雲に寄せてしなだれかかる。
そして耳元で愛の囁きのように甘い言葉を囁いた。
「なら、この口を塞げはいいでしょうに……」
そしてすーっと両手の指を南雲の顎に沿わせ、ゆっくりと自分の方に向かせる。
「後悔なさってるんでしょう?」
「いいや、後悔してないさ」
「なら、そろそろ踏ん切りをつけてもいいんじゃありません?いくら不死とはいえ10年は待たせすぎですわ……」
ゆっくりとイセリナの顔が南雲に近づく。
しかし、それは南雲の両手がイセリナの肩を握って押す事で距離が一気に離れた。
「今はそんな気分じゃない」
「ちっ、もう少しだったのに……」
イセリナが毒気づく。
そんな様子に苦笑する南雲。
「すまないな。気を使わせて……」
その言葉に、ふてくされた表情のイセリナが睨みつける。
「そう思うなら、抱いてくれればいいんですよ。お預けばかりでは面白くありませんから……」
「それもいいかと思ったけどな。だが、彼女をどうするか。それを決めてからだ」
南雲はそう言うと、ため息を吐き出した。
「イセリナから見て、彼女の覚醒はなんだかわかるか?」
南雲の問いに、ふてくされた表情から得意そうな表情に変わるイセリナ。
「ええ。はっきりと見えました。あれは『鬼』ですわね」
「オーガーではなくて?」
「そう。『鬼』です。鬼人ってとこかしら……。人には見えてないかもしれないけれど、復讐と憎しみ、それに快楽によって形づかれた角が2本、彼女の額には生えているわね」
その言葉に南雲はため息を吐き出した。
「よりによって鬼とはね……」
そして続けて呟く。
「日本人だからかな……」
「かもしれませんわね」
イセリナはそう言って立ち上がった。
そして、南雲の手を取って立ち上がらせようとする。
「なんだ?」
「眠り姫が目覚めたようですわ」
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