本編
第1話
冬の匂いがしてくる秋の夕方の頃だった。
見知らぬ少年が私の家を訪ねてきた。おそらく四、五年生くらいだろう。短パンにフード付きパーカーで少し寒いんじゃないかと思える服装。背は年齢に比べてまあまあの高さだが、随分と童顔だ。
「こんにちは」
そう挨拶する少年に私は「こ、こんにちは」と噛みながら返す。そんな私の困惑を気にも留めずに少年は、
「お姉さん、僕の事わかる?」
と訊いてきた。もちろん知らない。
「え?」
私の頭上にクエスチョンマークが浮かぶ。覚えていないだけで私はこの少年に会った事があるのだろうか。いや、ない。全くない。生活上、子供と触れ合う機会は一切ない。だから、もしそういう事があったら覚えているはずだ。
「ごめん…わからない」
私がそう言うと童顔少年はやはり幼いようで、ぷくーっと頬を膨らませた。
「じゃあ、これでわかる? お姉ちゃんの名前は斎藤綾乃」
体に衝撃が走る、それと同時に私は一歩後ろに下がった。
「どうして……私の名前を?」
少年の事が怖くなり、玄関扉を閉めて追い返そうとした。なぜ私の名前を知っているんだ。私は裏社会の住人に目を付けられるようなことをした覚えもない。でも間違いなくヤバい何かだ。このまま少年を部屋に入れたら絶対にハメられてしまう。入れてはならない。しかし、そんな気持ちは次の少年の言動で一気に消え去る。
「ま、待って!」
少年のその一言と共に無数の魚が扉の隙間に入り込んで閉じられるのを阻止した。魚たちのおかげでできた空間から少年がこちらを覗き込む。
「僕は綾乃姉ちゃんの弟だよ」
ありえない。そう思ったが、なぜかすべての不安が消えた。私はゆっくりと扉を開け、弟を名乗る少年を迎え入れる。
魚が飛んできた事の衝撃は後になってやって来た。その魚たちはいつの間にか姿を消しており、少年はというとテーブルで私の出したウーロン茶を美味しそうに飲んでいた。
少年は「私の弟だ」と言った。それはあながち間違ってはおらず、確かに私には弟がいた。
「弟と一緒に帰ってくるからね」
そう言って母と父は家を出て行った。それから数日、祖母と二人だけの生活が続き、毎日を過ごした。当時小学三年生だった私は「いつになったら帰ってくるだろう」と考えながら学校へ通っていた。ある日の事、祖母が電話の前で泣いているのを見た。私はなぜだかわからなかったが、祖母も私に理由を教えてくれなかった。しかし、その理由はすぐにわかる事になる。一週間後、弟を連れずに父と母が帰って来た。先天性横隔膜ヘルニアという病気だったらしい。その病気をよく理解したのは最近の事である。横隔膜が欠損して、その部分から小腸などの臓器が胸部に侵入。肺が圧迫され、重傷であれば死に至ることがあるらしい。いや、らしいと言うのは変だ。死に至ることがあるのだ。弟のように。
弟が死んでしまったのを機に私の生活は(もちろん両親もだが)狂い始めた。突然、雨雲が空を覆い、雨を降らせるように。私の世界に光が差すことはなくなった。中学、高校と保健室登校を続け、大学に入ってようやく復帰したと思ったら弟を名乗る少年が現れた。
なんてバカみたいな話だ。
「そういえば、あなたは何ていう名前なの」
なぜ生きているのか、あの魚は何だったのか、訊きたいことは山ほどあったが、まずはこれから訊くべきだと思った。
「うーん……、名前付けられる前に死んじゃったから無いんだよね。お姉ちゃんが好きにつけていいよ」
「好きにって……」
何なのだろう。この温度の違いは。私はオーバーヒートする勢いで脳の回路を回しているというのに、弟を名乗る少年は淡々としている。それより、
「本当に私の弟なの?」
「お姉ちゃんの弟だよ」
間髪入れずに答えられた。しばらく友達がいなかったので、弟の事情を知る人物は身内くらいだ。ドッキリにしては少々、質が悪い。でも身内なら大した心配はいらないかもしれない。ひとつ心配した方がいいのなら、この子と本当に面識がないという事だ。なんなら身内に小さい子供がいるという話も聞いたことがない。それは単に両親が話さなかっただけの可能性もあるのだが。
「名前、というかあだ名みたいになるんだけど『ウツボ』ってどう?」
「え、何で」
弟少年は私の自分でも何だこれはと思うレベルの提案に対し、納得がいきすぎるくらいの妙な顔をした。
「さっき、変な魚を連れてたし、何か素性がベールに包まれているようで怖いから」
「つまり魚の要素と怖い要素を掛け合わせてウツボにしたの?」
「そう」
「捻ってないようで捻ってるな。いや、逆か。いやいや、どっちでもいい」
ウツボは「どうせならシャチとかかっこいいのがいい」と言っていたが私はそれを聞き入れなかった。あと、シャチは魚じゃない。哺乳類だ。
「で、ウツボ、あの魚は何だったの?」
「ウツボは確定なんだ……。えっと、実は僕、死んだあと魚に転生したんだよ。変な種類の魚」
ウツボの話を要約すると、こういうものだった。
私はいつも大学からこのアパートに帰るとき海岸を通るのだが、昨日の帰り道、その海岸で打ち上げられている魚を見つけたのだ。自然と可哀そうだと思い、自然な流れで私はその魚を海へ返した。で、その魚がウツボの弟だったというのだ。ウツボはどうやら漁師に釣られたらしく、私が来た時にその漁師がいなかったのは何かを言いながらどこかへ行ってしまったからだそう。私を姉だと気づいていたウツボは海に帰ってから「もう一度お姉ちゃんに会いたい! そしてお礼がしたい!」と願い続けていた。そうしたら、今日の朝、目を覚ますと人間の子供の姿で浜辺にいた。ちゃんと服も着ていたし、靴も履いていた。
「やった!お姉ちゃんに会いに行ける!」
でもウツボはそこで気づいた。私がどこに住んでいるかわからない。頭を悩ませていると、海から自分と同じ種類の魚が何匹も飛び出してきて、私のいるアパートまで案内してくれた。しかも、その時は無意識だったが、魚たちを自由に操れることにも気づいたらしい。
「それ、私が信じると思って話してるの?」
あまりに普通に話すウツボに私は若干、引き気味の顔でツッコミを入れる。
「信じてもらえないだろうけど、信実だから話すしかないなと思って」
「んー……」
死んだ家族が会いに来るという話はよくあるのだが、魚を操れるようになってやってくるという話は全く聞いたことがない。魚のポイントが入ってくるだけで『感動のお話』というより『不思議な話』になってしまう。もしかしたら、私はまだ夢を見ているんじゃないか。夢なら不思議なことはよくある。さあ、目覚めてくれ。
「お姉ちゃん大丈夫?」
「大丈夫じゃないよ」
ウツボはウーロン茶を飲み干すと、空のグラスを流しに下げて、
「えっと、お姉ちゃん。さっきも話した通り、僕、助けてくれたお礼をしに来たんだけど、何かできることはあるかな?」
と、座ったままの私に近寄って来た。
「急に言われてもね……」
私は部屋を見渡した。このくらいの子にできる事となると、限られてくるな……。
雑巾がけならできるだろうか。最近は忙しくて部屋の掃除が出来ていなかったのだ。私はそろそろ大学の方へ行かなければならないし、それを頼もう。
「じゃあ、玄関の隣の部屋のクローゼットに雑巾あるから、それで床を拭いていてくれる? お姉ちゃん大学行かないといけないから、その間やってて」
私がそう言うと、ウツボは目を輝かせながら『わかった!』と玄関の方へ走っていった。
私も肩掛けの鞄に必要な荷物を詰め、玄関へ向かった。ウツボは既に雑巾がけを始めてる。
「あ、私の部屋はしなくていいからね。自分でやるから。あと、終わったら机の
上にあるお菓子食べてもいいよ」
元気な「はーい」という声が聞こえると、私はアパートを出た。夢でも正直、弟に会えるのは嬉しかった。帰ってくるまでにもっとちゃんとした名前を考えておこう。
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