きもだめし

なゆた黎

きもだめし

 耳をつんざく騒音で、けいは目を覚ました。すぐ近くでアブラゼミが鳴いているようだ。軒先の壁にでも止まっているのだろう。

 手のひらに収まるくらいに小さな個体のくせに、やたらとやかましく自己主張するその声が暑さを倍増させているようで、景は眉間にしわを寄せた。

「あつ……」

 じっとりと汗ばんだ四肢を畳に投げ出したまま、ぼんやりと天井を見る。

 盆で祖父の家に帰省して三日もたつのだが、昼寝から目覚めた今の一瞬、景は今いるここがどこであったかわからなかった。

 ジジッという音の直後、今度は完全なる静寂が訪れた。しかし、完全な静寂だと思ったのは刹那のことで、庭先だか隣家だかで遊び回る子どもたちの声や、離れたところにいるセミの声、だんだんと近づいてくる魚屋の車から流れる演歌が、夢から現実へと引き戻すように次第にはっきりと現実味のある音として、景の耳に届いた。


「あんた、あの暑い中よく寝てられるね」

 夕食時、母親からあきれたような感心したような、そんな言葉をかけられた。

 昼間は風がなくてかなり暑かったが、日が沈めばずいぶんと過ごしやすくなり、窓を開けていれば寝るときなど扇風機もいらないくらいだった。

「寝る子は育つんだよねぇ」

「図体ばかりね」

 母親と祖母がケラケラと笑う。

 うるせぇという言葉は、祖母手作りのピーナッツ豆腐と一緒に飲み込み、父親が見ているテレビの野球中継に目を移した。

 早々と食事を済ませた妹たちは、敷地内の従姉の家に行っている。

 裏の竹林から、さらさらと笹の揺れる音のあと、軒先につるされた南部鉄の風鈴がチリンと音をたてた。


「散歩にでも出るか」

 ステテコ姿の祖父が、玄関の外から誰に言うでもなくつぶやいた。

 食事のあと、なんとなく手持ち無沙汰になった景は、その誘いにうなずき靴をはいた。

「迷子になんなよ」

 父親がちらりと振り返った。

「ならねーよ」

 迷うようなところなんてないだろう。景はムッツリとして、しかし律儀に答えた。

「狸に化かされんなよ」

「田舎をバカにすんな」

「イヤ、お前をバカにしてんだよ」

「うるさいっ! 行ってきます!」

 むかっ腹を立てながらも、クセで「行ってきます」の捨て台詞を残し、庭で待つ影に向かう。

「どっちに行く?」

 庭を出て道の左右を指差し、景は隣に立つ祖父に問う。

「右だな」

 言うや否や祖父は右に歩き出した。


 二百メートルほどで集落を抜け、ひらけたその先は水田がひろがる。この辺りは早期水稲なので、盆の頃にはほとんどの水田は稲刈りが終わっている。

「あの先のな、あそこ。木のあるあそこらへんに、昔はよくリンが出たよ」

 祖父は田んぼの中に見える黒い木の影を指さした。

「リンって?」

「火玉」

 フフッと笑う祖父の気配に、景は口をへの字に曲げた。

「じいちゃんは見たことあるの?」

「うん。小さいとき、リンの集団に追っかけられたよ」

 さらりと風が木の葉をゆらした。夜風に乗って、稲ワラと田んぼの土の微かな匂いが、鼻をかすめた。脱穀した残りの稲屑を焼いた、焦げ臭い匂いも混じっている。

 この匂いを嗅ぐと、何となく朝晩が涼しくなってきた気がすると、従姉が言っていたのを思い出す。 その従姉は昨日も一昨日も、扇風機の前で暑い暑いと文句を言っていた気もするが。

「それからなぁ、あっちの集落のむこうにある芭蕉の畑な、人間に化ける精霊がおるんだと」

「なんの話だよ」

「せっかくのいい晩だから、怪談でもしてやろうと思ってな」

「せっかくだけど遠慮する」

「じいさんが肺炎で入院した時にな」

 祖父の一人称は「じいさん」だ。

 祖父はせっかくの申し出を辞退する謙虚な孫を無視して、楽しげに話し始めた。

「大部屋だったんだが、その連中たちといろんな話していたんだ、暇なんでな。聞いた話だ。その病院じゃないんだか、夜中に手術室で血の染み込んだガーゼを吸っている兵隊を見たっつー話とか」

「うう……」

 不味そうと感想を述べる景に、祖父はカカッと笑った。

「じいちゃん。それ、怪談じゃないじゃん」

「三途の川の向こう側から、ご先祖たちが手を降ってたって話も聞いたよ」

 かまわず祖父は思い付くまま話し続ける。

「じいさんの時は、じいさんのじいさんがいたなあ。あとは誰かわからんかった。手招きしてるかと思ったんだが、シッシッってやってるようにも見えた。ありゃ、胃かいようか何かの時だったか」

「自分の体験談かよ」

 さやさやと吹く夜風が、景の髪を揺らす。

 祖父が胃かいようを患ったのは、景が記憶にないくらいずっと幼い頃た。


 祖父は、思いつくままあれこれと身内や友人知人、入院仲間から聞いた話を前後関係なく話していく。

 昼間のアブラゼミを、ふと思い出した。ただただやかましいだけの鳴き声も、セミにとっては子孫を残すための、まさに命懸けの声だ。正確には声ではないが。生きるための声。そう思うと、まあ仕方ないかという気になる。

「あの世って、どんなとこだと思う?」

 景は祖父に言った。

「来てみれば、わかるよ。そのうちにな」

「じいちゃん」

 背後から、ひたひたと足音が聞こえる。複数の、抑えぎみの子どもたちの話し声もする。

「迎えがきたぞ」

 隣を歩く祖父が、チラと肩越しに後ろを振り返る。つられるように景も振り返る。

「じいちゃん」

 背後に視線を送りつつ、隣の祖父に対して口を開いた。

「あんた、死んだんじゃなかったっけ?」

 ふいと視線を隣に移す。

 さらりとなでていった風は、思いのほか冷たく感じた。


「景ちゃん、迎えに来たよ」

 いとこたちが懐中電灯を左右に振りながら軽い足取りでやってきた。妹たち小学生は、夜に大勢で外を歩くのが楽しいようだ。一番年長の従姉に、静かにしろと何度も注意されている。

「肝試し、しよう」

 下のいとこたちがはしゃいで言った。

 景は、自分の横をちらりと見て、

「もう、やってきた」

 と答えた。

 夜風の向こうの、黒い木の影に視線を移したが、そこはただ暗い山や木の影と、天の川の流れる濃い藍色の空が広がるばかりだった。


おわり

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