心に穴が空く
ロン
ひとりだけ、僕はひとりだけ。
その囲いの中に、どう字を詰めようか。
どろりと甘ったるい春も終わりを告げようとして、そのべたつきを押し流す為の雨が間もなくやってくる。
それらの中間で、おまけに曖昧な晴れ間とも、そろそろおさらばらしい。
人がほとんど出払った教室の中で、僕は嫌になってペンを手放した。
小さな椅子の上で、目の前の君は無邪気に微笑む。相変わらず、君を見る度に心が躍るのは秘密だ。
「別に、自分の好きなままにすればいいじゃないか」
「でも、それはきっと理解されないよ。協調性が無いって」
別に誰の意見など関係ない、ないはずだったのだ。気付けば大多数の意見という名の正解を探すようになっていた。
果たしてそれでいいのかと、君に聞いたらこの返事だ。純粋で、僕が見るには眩しすぎる君は、心底から幸せそうだった。
自分の意見を押し通していいのだろうか。いやいや、この年齢でそれは大問題だ。
しかし、この箱には、自らの意見を詰めてみろと、そんな僕の葛藤も露知らずに、挑発するかのように書いてある。そして余計に僕は頭を抱える。
「第一、これは自分の意見をはっきり持つ事を大切にしているんでしょう」
「でも、きっとそれは論点がずれるし、正解じゃあない」
「論点とか、なんだとか、理屈っぽいのはなんでもいいよ。ただただ、思ったことを書けば、解放されるのに」
「ちがう、そうじゃない」
机の上に、人の形が一つ映る。白々と燃える太陽が、君を照らして、僕は眺めるだけ。
やんちゃな小学生のような形で椅子に座っているのに、様になっている。やっぱり君は、そのままが一番綺麗だと思う。
そんなことは、言える訳が無いけれど。僕が偏屈で、無駄にひねくれているせいでさ……
なんせ、生まれてからずっとの仲なのだから。これ以上の関係も、これ以下の関係も望めない。
おまけに、綺麗だと何度言っても、君は否定するし、そう言われるとやがて僕もそれを口にするのをやめてしまう。
生憎、苺のような甘酸っぱさも、桜の華やかさも持ち合わせていない。真っ青な春は終わってしまったのだ。
「ところで、それは何?檸檬?」
机の横にかけてあった紙袋を手に取って、僕を悩ませる紙を、紙袋の下に隠した。
色褪せた茶色から、僅かに太陽の色を貰って、黄に輝くそれが見える。
「正解、今日の朝、商店街の前を通ったら貰ったんだよ」
「相変わらず、みんなに好かれてるんだ」
「好かれてるわけじゃない。きっと、同情さ」
「何に使うの?」
「親がレモンパイでも焼いてくれるんじゃない?でもアレ、苦手だから、食べないんだけどね」
「食べないんだ」
「うん。嫌いなものは食べないよ。それがいくら、僕の為に親が作ってくれたものだとしても」
紙袋に無造作に手を突っ込み、いくつかの塊から一つ取り出せば、初夏が僕らを取り巻いた。
君も僕を見習って、檸檬をふたつ取り出したと思えば、お手玉にして遊びだした。
だから、もう受験も近いのに、どうして君はそんなに子供でいられるんだ。
苛立つのに、僕は君と居たいと願ってしまう。この感情の名前は分からない。
第一、僕は勉強が苦手だ。証明は式を立てれないし、記述は論点がずれるし、実験手順は必ず間違える。こんな感情の正体を解き明かすことなんて、僕なんかには不可能だ。
そんな僕にこんな難問を解かせる方が無茶があった。
ちらりと例の箱が僕を覗く。じっと、じっと見られて、お前は結局どうしたいんだと、また挑発された。
「この檸檬、図書室の本の山の上に積み上げてみる?かの小説みたいにさ。それとも、爆弾にしちゃって学校を破壊する?」
名案とばかりに、君はふたつの檸檬を僕の方に差し出す。
「……それは、出来ないや」
しかし僕はその甘美な誘惑たちを手に取るものの、どうも気が乗らなくて、紙袋にそっと戻した。手には僕が掴んだ、あの檸檬だけが残る。
「なんで出来ないの?」
「当たり前じゃないか。そんなことしたら……」
「したら何?」
「したら、したら……僕は……」
すると君は、今まで聞いたことないような、冷ややかな声で言った。檸檬色の明るさは消え失せたんだ。
「なんなの、一体。言葉を濁さないで、はっきり言って。君はずっとそうだ。さぁ、はっきり言うんだよ。いつまで後回しにするの、結局大切なのは、自分?それとも……」
君と共に居れば、僕の願いは叶うし、幸せな人生を送れることだろう。
あぁ、君と共に歩めれば、どれだけ、どんだけ幸せなんだと思うか!?
激情のまま、僕は立ち上がった。
僅かに檸檬は潰れて、ほろ苦い香りを放つ。
「僕は、君と居たいんだよ!だって僕は、そんな君が気に入っているんだ!僕は卑屈で、自己肯定感も低いけれど。それでも君は、君だけは好きだったんだよ……その無垢な感じで、僕の言いたいことを全部言ってくれて、何よりも自由でさ!」
「じゃあ、君は――」
「それでも。それでも、君は無邪気すぎる。君と一緒に居られる年齢じゃあないんだ。だから……」
ガサリと大きな音を立てて、紙袋は地に落ちた。幾つかの檸檬は床に転がり、僕はそれを拾いあげようとした。しかし、頭上で君の声が聞こえて、思わずその手を止めた。
「じゃあ、もういいよ。君の本心が聞けると思ったのに」
失望と僕が映るその目には、僅かに膨らみを持っていた。そして君は、教室を去る。僕は焦燥を抱いて、君の方に駆け寄った。
「ねぇ、どこに行くの……僕は君と別れたいわけじゃないんだ、嫌いじゃないんだよ……」
「知ってるよ。だから、一度どこかに行くだけだよ。少し距離を置いて、互いに冷めたらまた会おう」
君は、僕の方を見ようともせずに、静かに去っていった。
大丈夫だ、君はどこにも行かないはずだ……君は、どこにも、行かない、よね?
そして僕は、振り出しに戻って、ペンを取る。
むき出しになった小さな枠に、沢山の綺麗事を詰め込んだ。僕の本心なんて、もうどうでもいい。これが最適解。そうだ、なんでこれまでやらなかったんだろう。こうすれば先生たちからも、親からも褒められるのに。
「あぁ、もう帰ろう――」
そして、その日以降、君は姿を見せなくなった。
それから僕は自分を失ったような気がして、心にぽっかりと穴が空いた気がして、何をしようにも気力が湧かない。
以前より勉強に集中できるようになったけれども、日々の生活が白黒に映って仕方がない。
これじゃあ、まるで失恋したみたいじゃないか。
数日した頃に、元気の無い僕を励まそうとしたのか、精一杯の笑顔で親が、レモンパイを焼いてくれた。
「決断は、大切なことよ。よく頑張ったわね」
にこにこと、にこにこと、気持ちが悪い。
しかし、折角焼いてくれたものを食べないのは親に悪い。それを一切れとって、皿に運べば、
「あら珍しい」
と言われた。せっかく僕のために作ったものは、食べておくのがマナー。人として常識だと思うのに、一体、いつまで僕を子供扱いしたいのか。
そして僕は、ゆっくり、ゆっくりと檸檬を口に運ぶ。
僕に夏はまだ早い、と言わんばかりにただただ酸いそれを、吐き出したかったが、それでも僕はゴクリと飲み込んだ。
なんだか酷く苦かった。
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