学究ノート#3

しゔや りふかふ

学究ノート#3(未遂の小説のアイディア)

 俺は絶望していた。

 だが、本当に絶望している人間は〝絶望〟なんかしない。

 望みを絶するか、望みが絶えているならば、失墜も悲愴もない。希望を砕かれ、生木を裂くように希望から牽き裂かれ剥がされる苦しみも悲嘆もない。

 希望は絶えていない。

 希望し続けているから、胸裂けて足掻き藻掻くのである。

 ……っていう、理窟を宣って、何が楽しいのか。そういうことじゃないんだ。

 希望は消せない。それは俺たちの想いじゃない。俺たちは自由じゃない。

 希望は生存の意志・生命のベクトルそのもので、底奥深いものだ。

 有機分子(分子とは二つ以上の原子から構成される物質。電荷的には中性)が核酸分子になり、核酸分子が繋がろうと活動し、結びついては瞬く間に崩壊するも、壊れた素材がまた寄り添い合ってかたちを構築し、また壊れ、分裂が求め合い、そのかたちを繰り返し、やがて維持し続けようとし、素材の再吸収のシステムが出来上がった時、新陳代謝の太古の原型が啓いて、生命は生誕した。

 希望の原型でもある。

 それは細胞の原初の原型であった。細胞が集まって共生し、生物となる。彼らが生き残るための、行動を促す場に於いて、エゴ・トリック(主体たる自己が在るという錯覚を生ぜしめる脳の作用)が起こり、それが現今・此処である、この意識の俺たちという思惟、直観、感情、念、自由意志とやらであった。俺たちの魂は化学反応の構造上にある現象・産物でしかない。

 希望が海だとすれば、俺たちは海の表面上の木の葉ですらなかった。

 三億六千万キロ平方メートルの大海の上の、ほんの上っ面、水面の表層上に浮かぶ小さく儚く脆弱な木の葉に過ぎない。その下には一万メートルの深海が横たわっている。

 希望を消せる訳がない。絶望など感傷に過ぎない。

 遺伝子でさえも希望に衝動させられている。

 

 だから、絶望はやめた。

 だが、やめたと言ってやめられるものではない。

 そういう意味でも、俺たちは自由ではない。

 本当に自由ならば、侮辱され、蹂躙された屈辱に、怒ることを選ぶのみではなく、喜悦することも選べなくては自由ではない。しかし、そんなことはなくて、我々は機械と比しても何ら遜色なかった。理不尽というスイッチを押せば、必ず憤る。自由ではない。

 愛する者を殺されてどうして笑えようか?

 

 常識は無責任で、いい加減だ。エゴ・トリックに騙されて、なされるがままだ。事実に背いている。誰も否定できない、科学的な事実に。

 だから、実在と実存は分けて考える必要がある。

 実在は科学的見解だ。物自体のような、認識外の領域がある。

 実存は直観、現実だ。我々にとって、切実な方だ。

 たとえば、我らにとっては、色彩は実存である。

 しかしながら、色彩は実在しないことは科学的な事実だ。実在するのは光線だ。光線の波長の長短の違いが、我らに色彩の差異となって解釈されている。青色は実在しない。ただ、短い波長が網膜を刺激し、その刺激が脳内で青という画像を捏造する。色彩は波長の刺激による効果でしかない。

 昼の快晴の空は青くない。夕方の空は茜ではない。

 

 世界のすべてが同様だ。実在的には、一切の存在は無空に等しい。我らが識別し、実存として感受し、初めて存在である。

 無空と言ったが、無空以上に無空である。遙かに無空である。

 

 仏教の見解は正しいかに思える。

 だが、そうではない。

 無空だからと言って、厭離は出来ない。諦める(明らめる)と、人は執著を離れ、平安に達するというが、希望は捨てられない。

 清浄にはなれない。

 生存は超越できない。

 努力だけができる。

 希望は必ずかなわない。かなえば希望が畢(おわる)。希望は生そのもの、希望とは生きて存続し続けようとするもの。

 希望に沿うには希望をかなえなければならない。希望をかなえるとは希望を超越することに他ならない。それは不可能な夢だ。人は、ただ、ただ、たゆまず努力するしかない。希望を捨てることも、超えることもできないから。そういう装置でしかない。

 他に現実はない。

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