壊れた天秤

茶介きなこ

第1話

 おじいちゃんのお見舞いに行く時は、いつも微妙な天気だった気がする。

 晴れてはいないけど、曇りというほど空は暗くない。

 今日も病室の外には、どっちつかずな世界が広がっていた。


「いつも、悪いのぉ」


 ベッドに横たわったおじいちゃんが、弱弱しく言った。

 昔みたいに元気な声は聞けなくなってしまったけれど、私は変わらずおじいちゃんの声が好きだった。


「いいの、私が来たくて来てるだけだから」


 脇にあったパイプ椅子に腰掛けて、私はできるだけ明るく笑って見せた。

 そうするべきだと思った。


「最近、大丈夫か?」


 その質問に、私はドキリとした。

 おじいちゃんは、私の家庭環境についての話をしているのだ。


 ──私は小さい頃に両親を亡くして、顔も知らない親戚に引き取られた。

 その時はただただ悲しいだけだったけど、18歳にもなれば周りのことが見えてくる。

 新しい両親は私のことを歓迎していなかった。

 無理やり押し付けられた、というのがひしひしと伝わってきた。

 だって、そうじゃなければ私に手を上げたりしないでしょ。

 虐待を受けたなら、訴えればいい。そんなことは分かっている。

 でも、そんなことをすれば今度こそ私の居場所はなくなってしまう。

 だから私には、最初から「耐える」という選択肢しか用意されていないのだ。


「大丈夫なのか?」


 もう一度飛んできた質問に対して、私は暫く答えることができなかった。

 それでいて、やっと絞り出した言葉は


「まぁ……」


 という歯切れの悪い返事だった。

 ここで正しい噓をつけるほど、私は強くなかった。

 俯いてしまえば、おじいちゃんに表情を読み取られてしまう気がして、私は窓の方を見ていた。

 なんとなく、外は暗い気がした。


「おじいちゃんが死んだらな、おじいちゃんのお金は全部やるわい。そしたらお前は、家を出て一人で暮らせるからの」

「……やめてよ、おじいちゃん」


 何度聞いたか分からないその台詞を否定しつつも、依然として私は目を逸らし続けていた。

 おじいちゃんはお金持ちだ。きっと、多くの財産を私に譲ってくれるのだろう。

 でも、いくら私が楽になるからといって、おじいちゃんが死ぬことを肯定したいはずもなく、この話があがる度にモヤモヤとした感覚が胸の中に残るのだ。

 そのモヤモヤの正体を暴こうと考えていたら、おじいちゃんに顔を見られたくないのか、私がおじいちゃんの顔を見ることができないのか、分からなくなってしまった。



 面会時間が終わって、私は家に帰った。

 玄関のドアに対峙すると、中から物音が聞こえてきた。

 少しでも時間を稼ぎたくて辺りをウロウロしてみたけど、無情にもすぐに日が沈んで真っ暗になってしまった。諦めて家の中に入ることを決める。


「……」


 「ただいま」も言えず、扉を開けると、食器の割れる甲高い音が私を迎え入れた。

 廊下を足早に歩きながら、リビングをちらっと確認したところ、酔った父が暴れているらしい。

 そのまま二階に上がって、私は自室に閉じこもった。

 階下から微かに聞こえる破壊音と、なにを叩いているのか分からないドンドンという振動には、いつまで経っても慣れなかった。

 まだ肉親が生きていれば、という反実仮想に浸っても何の解決にもならず、こんな時は決まって「家を出たい」という思いに帰着するのだった。

 そして、それと同時におじいちゃんの顔を思い出してしまうのだけれど、そんな自分が嫌いだし、嫌いだと思っていたかった。



 次の日、クラスメイトの一人が忌引きで学校を休んだ。

 担任の先生曰く、その子の祖父が亡くなったとのことだ。

 このタイミングで、よりにもよって「祖父が亡くなる」という言葉を聞かされた私は、神様にからかわれているのではないかと感じた。

 その子には同情したし、自分事に置き換えてみると胸が裂ける思いになった。

 やはり、私のおじいちゃんには少しでも長生きして欲しい。そうに決まってる。



 学校が終わり、いつものように病院へ直行した。

 受付の人に面会希望の旨を伝えると、いつもとは違う部屋番号を言い渡された。

 病室を引っ越したのかな、と軽く考えながらおじいちゃんのもとに向かう。

 そして部屋のドアをあけると。


「おじいちゃん!」


 おじいちゃんは、酸素マスクをして苦しそうに息をしていた。

 私はおじいちゃんのもとに駆け寄る。


「あぁ、ごめんよ」


 震える手で私に触れようとしてくる。

 私はその手をそっと握り、おじいちゃんの顔を見つめた。

 苦しそうではあったけど、私が来たことで少し安心したみたいだった。


「おじいちゃん、大丈夫なの」

「もうしばらくは、な」


 後でお医者さんから聞いた話によると、体調は良好とは言えないが、すぐに命を落とすことはないだろうとのことだった。

 ひとまず安心したけれど、刻々と死期が近づくおじいちゃんを見て、私は胸中穏やかでいられなかった。

 来る日も来る日も、私の中では筆舌に尽くし難い感情が渦巻いているのだった。



 それから新しい病室に通い続けて、数週間が経過した。

 私はその日もベッド横のパイプ椅子に腰掛けていた。

 不意に、ドアがノックされる。おじいちゃんの代わりに私が「はぁい、どうぞ」と返事をすると……現れたのは、父と母だった。

 両親はこちらに目もくれず、「席を外しなさい」とだけ言って強引に私を病室から追いやった。どうやらよほど大事な用があるらしい。

 流石に外で待っていると中での会話は聞き取れないけれど、出てきた二人がボソッと「遺産相続」という言葉を発していた。こいつらはおじいちゃんの財産目当てで見舞いに来たのだ。私には到底許すことのできない発言だった。

 でも病院で口論になると他の人に迷惑だし、なによりおじいちゃんに聞こえてしまう。私は怒りをグッと抑えて部屋に入り、パイプ椅子に座った。


「大丈夫だ、遺産は全部お前にやるからの」


 おじいちゃんは少し寂しそうな目をして、私に話しかけてくる。

 その光景を見た私は、一瞬、言葉に詰まってしまった。


「あ──」


 そう言いかけて、「ありがとう」と言うのはおかしいことに気がついた。

 それを言ってしまえば、父母と同じになってしまうように思えたのだ。


「あの、そんなこと言わないでよ」


 無理に誤魔化したけれど、おじいちゃんには伝わってしまっただろうか。

 ……いいや、そうじゃない。伝わったかどうかじゃなくて、それを思ってしまった時点で駄目なのだ。



 それから更に数週間後、私の携帯電話に連絡が届いた。

 おじいちゃんが危篤なのだという。

 学校にいたけれど、私は残りの授業を放りだして病院へと急いだ。

 駅から出て走っている時も、病院内のエレベーターに乗っている時も、私の心臓は激しく動悸していた。


 おじいちゃんが死ぬ。

 おじいちゃんが死ぬ。


 目的の階に到着した私は、廊下を全力で走り、病室に飛び込んだ。

 私の目には、一人の医師と数人の看護師がベッドを取り囲んでいる様子が映った。


「午後1時13分、ご臨終です」


 そんな音が私の鼓膜を震わせた。

 ショックのあまり、感情が分からなくなってしまった。


 私は今、何を思っているのだろうか。


 それが知りたくて、私はおじいちゃんの亡骸に近づく。

 一瞬、その顔はただ寝ているだけのようにも見えたが、隣の医師と看護師が、おじいちゃんの死を確かなものにしていた。


 悲しい、後悔、無念……。


 今の自分に色んな言葉を落とし込もうとしてみても、納得できない。

 考えても考えても、真実には辿り着かなかった。


「この度は心よりお悔やみ申し上げます」


 看護師に話しかけられて、私はそちらに顔を向ける。

 彼女は決まり悪そうな表情で私のことを見ていた。若そうな人だし、まだこういう場面に慣れていない新人さんなのだろう。


「ありがとうございます。あなたも大変ですね」


 浮かない顔をした看護師が可哀想になって、私は思わず声をかけてしまった。

 しかし、その看護師は返事の代わりに、目を見開いた。信じられないものを見ているかのような様子だった。


「あ、えっと、私の気遣いは良いのですが……おじい様がお亡くなりになって、あなたは大丈夫なんですか?」


 それを聞いて、私は息を詰まらせた。

 看護師の質問に答える術もなく、ただ彼女の瞳に私の視線が囚われるだけの時間が流れゆく。

 ここに来るまでと同様、また心臓が早鐘を打ち始めた。たいして暑くもないのに、背中には汗が伝った。


 ここから逃げたい。


 そう思う頃には病室を飛び出していた。

 どこでもいい、どこか誰も見ていない場所に行きたかった。

 こんな自分を他者に見られるわけにはいかなかった。


 ──そもそも「誰かの命」と「自分の幸せ」を比べることが間違っていたのだ。

 本来ならばそれに優先順位を定めること、それ自体が禁忌なのだから。

 でも私は、その二者択一から逃げることができなかった。そうなってしまえば行きつく先は、崩壊に他ならない。


 女子トイレに駆け込んで、鏡で自分の顔を確認する。

 この期に及んで、まだ私は真顔をしていた。なんて諦めの悪い。

 仕方がないので、トイレ内の小さな窓から空の様子を窺った。見える範囲は全て雲で覆いつくされていて、どう考えても曇天。

 でも、そんな鼠色の空はいつもよりも明るく見えてしまって。


「晴れだ」


 あぁ、なにを言っているんだ。頭では曇りだと分かっているのに。

 おかしくなってしまったのだろうか。

 いや、とっくにおかしくなっていたのか。

 本当は、最初からそうだったじゃないか。


 どうしても、天気は晴れなのだ。


 そう思った瞬間、鏡の中にいる私がニヤリと笑った。

 そうして、驚くほどに、するりと口から音が出てきたのだ。


「あはは」

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壊れた天秤 茶介きなこ @chacha-chasuke_kinako

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