静かな飛行
葵ゆり
静かな飛行
我々がこの飛行船に乗り込んで、
どれくらいの月日が経ったのか、
今ではそれを気にする者は誰もいない。
もっとも、この飛行船の航海を司るAIは記録しているだろうが、
私たちやがて死ぬ生命体には「永遠」という言葉で充分だった。
月を追いかけて夜を滑る、トビウオに擬態した飛行船。
終わらない夜の中で、我々人間は言葉を発さなくなった。
その為、会話は端末への入力か、廃材から作られる「えんぴつ」での筆談だった。
私は祖父がえんぴつで文字を書く筆跡や音が大好きだった。
祖父の字を眺めて、私は飛行船の歴史を学んだ。
その昔、地球にはたくさんの大陸があり、人間はその陸地を住処にして暮らしていたという。
やがて海の水かさが増え、陸を飲み込み、地球はこうして海の星となった。
この飛行船は、まだ人間が住める陸地を探しに、水中都市に成りゆく故郷から飛び立ったという。
当初10人だったこの船の搭乗者は、ついに53人となった。言葉を発さなくなったのも、想定を超えた搭乗者数でそれぞれが声を発していては五月蝿く統制が取れなくなったからだろう、と私は考えている。
隣を飛ぶ少し大きなトビウオとは、私が生まれる前から連絡が取れない。
搭乗者が100人を超えたとか、全員死んだとか、実は化けトビウオだとか、様々な噂が流れている。
私はこの船で生まれ、育ち、そして今では、愛する妻と、ひとり息子がいる。
この飛行船では、健康管理や生活の全てをAIが管理する為、親が子にしてやれることは少ない。
妻は息子とよく飛行船を探索し、
私は息子に文字を教えた。
息子は母親に似て窓の外を見に行くのが好きだが、
暗く終わりのない窓を見ているのは、私は好きではない。
ある日、息子が駆け寄ってきて、
目を輝かせて文字を書いた。
「うた、ってなに?」
言葉を発さない私たちが「歌う」ことはない。
なぜ歌を知っているのか不思議に思い尋ねた。
「誰に教わったの?」
すると、息子は私の手を引いて、
人のいない窓辺へ向かった。
外を覗くと、隣のトビウオの上に白い影があった。
月の光を映し光る白い影は、
聞いたことの無い、優しい「歌」を歌っていた。
「うたを うたえ つきに とどけ
うみを こえて だいち ひかれ」
微かに聞こえるその声に、じっと耳を澄ませていると、
私は祖父と1度だけこっそりと声を発した事を思い出した。
あの時の私は、まだ幼くて、歌を知らなかった。
探るようにいくつか声を発してみたが、正解も分からず、ただ隠れて声を出す背徳感に、2人でにんまりと笑った。
私は祖父に教わったように、息子に声の出し方を教えた。
私は、息子が探るように話すはじめての言葉を聞いた。
息子はすぐに、窓の外から微かに聞こえる歌を真似て練習した。
私よりも何倍も上手く声を出した息子は、歌を繰り返していくうちに、すぐに声に慣れていった。
その姿に、私はただ見とれていた。誰かに聞こえたら、などという、他者の目は頭になかった。
ひたすらに声を出す息子の姿を、息をのんで見守っていた。
「うたを うたえ つきに とどけ
うみを こえて だいち ひかれ」
「歌を歌え 月に届け
海を越えて 大地光れ」
微かな歌は、やがて言葉を紡ぎだす。
祈るように歌う息子に、私も祈りを重ねた。
静かな永遠の夜に、祈りの歌が響いた。
窓の外、隣のトビウオに乗っていた白い影は、もうそこにはいなかった。
その時、飛行船内にAIのアナウンスが響いた。
「_陸地を発見しました」
「_24時間後、着陸態勢に入ります」
我々は、その時はじめて、
大きな声を聞いた。
end
静かな飛行 葵ゆり @navyuriaoao
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