第12話 逆巻く渦の大水蛇

 激しい轟音と振動によって、ティルダは寝台から放り出された。


「きゃ……!?」


 しゃらしゃらと鳴る鎖に邪魔されながら、花を身体で潰さないように転がる。どうにか凍った床に着地してもなお、揺れはまだ続いている。床にうずくまったまま、懸命に身体のバランスを取ろうとするティルダに、シェオルが素早く駆け寄って寄り添ってくれる。


「ティルダ、大丈夫ですか」

「え、ええ……でも、お花が……」


 シェオルの毛皮に縋ると、少しは落ち着くことができた。でも、そうすると自分のことより揺れに翻弄されて頼りなく茎を揺らす花たちのことが気になってしまう。花を守ろうと、そちらに向かって這おうとするティルダを、でも、シェオルは鼻先で押しとどめた。


「我が主の城が崩れることなどありませんからご心配なく。ただ、少し厄介ですね」

「な、なにが……?」


 ティルダがしがみついていても、揺れが続いていても、シェオルは四肢をしっかりと踏ん張って毅然と立っている。鼻先を上に向けて何かの匂いを嗅ぎ、しきりに耳を立てたり寝かせたりしている彼(彼女?)には、ティルダには感じられないことが分かるらしい。やがてシェオルは、部屋の扉へと向かいながらティルダに促した。


「乗ってください。主のもとに参じます。そこが一番安全でしょう」

「え……でも──」

「早く!」


 鋭い声に打たれてティルダが白い毛を掴むや否や、シェオルは強く地を蹴った。扉にぶつかる、と思って目を瞑るけれど、空気の流れで自然に開いたのが分かる。薄く目を開けたティルダの視界に、シェオルが駆ける先を城自体が知っているかのように、進む先の扉が次々と開いていくのが映った。


(すごい……風みたい……!)


 シェオルの爪が地に食い込むたびに、氷の欠片が宙に舞う。きらきらと細かな氷が煌めく中を大きな白い狼が駆けるのは、きっと銀色の風のように見えるだろう。廊下を駆けぬけ、階段を飛ぶように駆け下りて。城の中で、ティルダの細い脚では探索しきれなかった部分も、シェオルが走ると一瞬だった。


 振り落とされることがないよう必死でシェオルの首にしがみつき、頬を打つ髪を首を振って払いのけて。ティルダは城の中をできるだけ視界に焼きつけようと努めた。何が何だか分からないけど、こんな状況でなかったら次はいつ足を伸ばせるか分からないから。

 風に逆らって懸命に目を開いて──ティルダはふと、奇妙なことに気付いた。


「あれ……?」


 霜と氷に閉ざされて、城は白く凍っているはず。扉や柱の境もあいまいで、通り過ぎる一瞬では、目を凝らさなければひたすら白い壁が続くようにも見えてしまいそうなほど。なのに──氷の冷たい白の中、時折おり温かく鮮やかな色彩が過ぎるのだ。


(お花……こんなに、あちこちに……?)


 薄紅、碧、橙、翠──ティルダが仮住まいにしている部屋に咲く花々と同じ色彩だろう、とは思うけれど。氷が統べる酷寒の牢獄と聞くコキュートスは、案外美しい場所もあるのだろうか。


 ティルダが不思議に思う間にもシェオルは駆け続け、やがてひと際大きく頑丈そうな扉が開いた。城門までたどり着いたらしい。初めて見た外の景色ことが、きっと嘆きの氷原コキュートスだ。見渡す限り広がる大地は白く凍り付き、飛ぶ鳥の影ひとつ、枯れた木の一本さえ見えない。何もかもが凍る氷の牢獄とはどういうことか──改めて突きつけられて、ティルダは静かに息を呑んだ。


 どこまでも白い氷原に、ひとつだけ黒い影が凛と佇んでいた。シェオルの足音を聞いたのだろう。その影はマントを翻し、こちらを向いた。顔を見るまでもなく背格好や、氷の銀色を帯びた漆黒の髪だけで分かる。コキュートスの主、ジュデッカが玉座を離れて出てきているのだ。


「シェオル、来たか!」

「遅れまして申し訳ございません、主」


 数日振りに見る氷の魔王は、やはり息を呑まずにはいられない美貌と、そして冷たい気配の持ち主だった。夜の色の目に捉えられると、ティルダは思わず震えてしまう。しもべだというシェオルが罪人を乗せているのを、彼はきっと不快に思うだろうから。でも、彼女の姿を見てもジュデッカは何も言わず、ただ、シェオルにちらりと微笑んだ。


「構わない。俺ひとりでもどうとでもなった」


 ティルダが初めて見る、嘲りや嗜虐の混ざらない優しい笑みだった。動かないはずの心臓がどきりとするような気がして胸を抑える──と同時に、大地がまた揺れた。外に出たからか、先ほどよりも激しく強い揺れがティルダを襲う。氷の大地についた彼女の手に、大地が不吉な感覚が伝わる。慌てて目を上げれば、大地を覆う氷に亀裂が走り、地中から巨大な影が這い出るところだった。


 は身体を震わせて咆哮し、纏っていた氷の欠片を四方にまき散らした。シェオルの身震いとは比べ物にならない、こぶし大の塊が近くに富んで来るのを避けようとティルダは頭を庇った。掲げた腕越しに目を凝らし、の全容を見極めようとする。


(蛇……竜……? なんて大きな……!)


 は、翼もないのに宙に浮き、中空にうねり、とぐろを巻いていた。手足のない長い姿に、鎧のように連なる堅固な鱗は鋼の色。そして、敵を寄せ付けない盾のように、あるいは近付く者を切り裂く剣のように、身体の各所に刺々しく発達したひれも同じ色。巨大なだけの蛇ではないのだ。姿形もそうだし、爛々と燃える真紅の目は、知恵のない獣にはあり得ない明確な怒りを湛えてジュデッカを睨んでいる。


「な、何ですか……は……!?」


 答えがもらえるとは思っていなかった。驚きが言葉になって漏れてしまっただけだった。でも、意外にもジュデッカはあっさりとの名を教えてくれる。


逆巻く渦の大水蛇リヴァイアサンだ」


 コキュートスそのものにも劣らず名高い伝説上の──そう、信じていた──怪物の名に、ティルダは口を抑え、目を零れ落ちそうに見開く。その間抜けな顔が面白かったのか、ジュデッカはまた笑い、空気を震わせて怒りの声で啼く大水蛇に対峙した。


「神に背いて楽園を荒らした怪物──人であろうとなかろうと、は地獄に堕ちなくてはな?」

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