第11話 やもない選択


 歯をむき出したムールが興奮してとびかかる。


 まともな状態でも逃げ切れなかったのに中途半端に逃げても無駄なあがきになるだけだ。


 だから目の前まで来ることを待って、ストーンハンドで俺の体を飛ばした。推進力が良う過ぎて思ったよりも早く風景が流れる。


 ドカン!


 結果は期待以上だった。俺を逃したムールはそのまま壁にぶつかって、階段の下に落ちた。しかもあの部屋は3階層の中で最も階段が長い部屋であって二三回も転ぶ音が聞こえてきた。


 ただしこのままだと俺も入ってきた階段の部屋に落ちることになる。ムールが壁を壊したから途中でぶつかることはないけどこの高さだと逆に大けがをすることになるはずだ。


 早すぎだし空中で使えるスキルもない。体を襲う痛みに備えて歯を食いしばるのに、何か柔らかいエアバッグみたいのが俺の体を受け止めた。


 アカシアの香りがする。目の前がぼんやりとなった。疲れたのでできるならこのまま眠りたかった。


 だが視野が戻る過程で空間がくるくる回った。誰かが脳内に柄杓をぶち込んでゆっくりとかき回す感じだ。


 いい気分ではない。自分の意志とは関係なく緊張を解けない全身の筋肉がギクシャクしながら悲鳴をあげるが、特に腕と太ももは切り離したくなるほど痛い。


 まずは俺を受け止めた人物の顔を見ると、月夜だ。涙が乾いていないだらしない顔で見つめている。


「………啓人。」


「………うん。」


「血出てる。」


 知ってる…… だけどどこを見て言ってるのかはわからない。痛くないところがいないから。ところでこいつはなく顔もきれいだな。不公平だ。


 彼女がまた泣き出しそうなので、目元を親指でこすってあげる。


 湿った感触が爪を濡らす。止まりそうになくて、胸の奥底が痛くなる。


「痛い?」


「俺は大丈夫だけど、お前がいたそうだ。」


 はったりを込めて言うと彼女が首を横に振って、何の予告もなしにぎゅっと抱きしめてきた。ああ、確かに体の調子が悪いみたいだ。こんなに柔らかい奴が抱きしめたのにも体が痛くて死にそうだ。


 それでも悲鳴は上げない。一度張ったはったりを最後まで貫くのが男ってものだろ?肩に顔を埋めた彼女をトントンとたたいてあげた。


 大丈夫、大丈夫だから。そういってあげた。他人にこの言葉を伝えたのはとても久しぶりな気がした。


「………っ!」


 地面が響く音が聞こえてくる。怖くて不安てところが地震に似てるけど、どんどん近くなってくるという差があった。


 ムールが再び壁を壊して戻ってきた。止まることもなく、壁を壊して入ってきたやつは勢いそのまま俺たちを襲った。


 月夜の俺を抱いている力がもう少し強くなる。厳しそうに呻いているのを見ると、辛うじて避けたみたいだ。


 揺れる視線の先に、墨で作られた虎が現れる。


 そろそろうんざりだ。


 3Dのような体はあっちこっちが傷だらけだし、つぶされた左の目からはいまだに血が流れている。


 さすがに少しは疲れたみたいだけど、俺たちに比べたら余裕があった。


「どうする?」


 この傷だと第一声が「逃げよう。」でもおかしくないのに。彼女は以前と変わらず俺に意見を聞いてきた。

 作戦が失敗したのにも俺を信じてくれているのだ。それにすくなからず感謝しながら言った。


「階段の下に降りて奴の注意を引いてくれ。」


 ぶっちゃけ無茶を言っているってことはわかっている。すでにボロボロだし左腕は折れたのかさっきからびくともしない。そんな人にあんな化け物の注意を引いてくれと頼むのは文字通り無茶が過ぎるといえる。


 でもそれなのにも、彼女はいつもと変わらず「うん。」と短い返事だけを返して腰を下げた。


 さっきよりは少し重くなった音で地面をけってムールにとびかかった。そして必死に攻め続けることで階段の下まで誘導することに成功した。


 当然なことにも彼女にあんな無茶な特攻を頼んだ分、こっちも自分なりの計略を立てておいた。


 十中八九残った最後の絵を探そうとしても無駄だ。絵がいない理由は見当もつかないけどそれにだけしがみつくほど俺はおろかではない。


 持っている武器では倒せるぐらいのダメージはあげられない。ならば、倒せる方法は、奴の弱点を突くしかない。


 だからストーンハンドで奴に向かって飛んだ。


「……えっ?!」


 限界を超えた月夜の足が止まる。おそらく作戦を説明してないせいで驚いて止まってしまったのだろう。悪いけど、時間がなかったからこのぐらいは勘弁してほしい。


 月夜の足が突然止まったことにムールも驚いたけど、当然なことにもこっちを見ることはできなかった。


 だって、ここは奴の右の目だから。


 奴が月夜に届くほぼ直前に、剣が装着された腕を引っ張り上げた。


 そして、さっき俺によって閉ざされた左の目に向かって、思いっきり突き刺した。


[キャアアアアアアッ!!!! キャアアアアアアア!!!!!!!!!!!!]


 赤黒い獣の血とともに悲鳴が上がる。


 今までの中で一番苦しみながら暴れるので、残った手で毛を握った。爪が少し折れた。


 攻撃が通じない?なら弱点を作って、突くまでだ。とことん。しつこく!!


 全身に力を入れて、怪物の目口をほじくり抜いた。


 まるでロデオをするかのように、トラが動くたびに体が飛び上がったり、ぶつかったりする。痛いけど、剣を握った磁力からMPを抜くことはなかった。


 慎重かつ老練に、剣の軌跡をねじりながら少しずつ深く剣を押し込んだ。


 収縮した筋肉が外部の侵入者を食い止めようと必死だが、無駄だ。


 さらに押し込もうとするのに、動きを止めたやつが前足を持ち上げた。


 ………うっ!?と呻きながらもぎりぎりに盾でガードした。


 猫や虎みたいな動物は足が自分の顔まで届く。奴なら俺を爪でちぎるのも、このまま力で押しつぶすこともできる。


 奴が選んだのは両方だった。爪を盾に打ち込んだ状態で力で押す。正直さっきのけがのせいで数秒も持てない。


 だが、この固着状態が、俺の狙いだ。


「いま…… だぁ!!つくようううう!!!!」


「………!!!」


 俺の叫びの意味をすぐ理解した月夜が地面を踏んだ。


 大地に重さが載せる。今までの風のようだった軽い感じが完全に消えて重い空気だけが彼女のナイフを包んだ。


 やがて、もうちょっと長くなったナイフは黒よりも黒い漆黒に染まった。


黒虎一閃こくドラいっせん


 小さくつぶやいた彼女がナイフを固く握って走った。


 あれは盗賊のスキルでも、ましてはジョブチェンジして得られるスキルでもない。裏ボスである白虎を倒して白虎のソウルを身に取り込んだ盗賊や剣士のキャラたちだけが使える、裏スキルってやつだ。


 スキル自体の効果は一度の攻撃を強化させるだけ。だが…… その一度の攻撃を極限まで引き上げるというのが、あのスキルの怖さだった。


 スキルを使えば持っている刃物は虎の牙に似た黑刀に変わる。そして筋力と敏捷、どちらかより高いステータスにX46をしたのがあの一撃の攻撃力となるのだ。


 それに加えて相手がよけられないスピードや状況まで合わされば、まさしく一撃必殺と呼ぶに足りることのない最強の技となる。


 ただし…… すごいスキルなだけに一度使うのに340もMPを消耗されるので使うときには絶対外しちゃいけない技でもあった。


 だからこうやってチャンスを作った。だった一瞬でも、こいつの動きを完全に止められれば、彼女なら確実に当てられるから。


[キャアッ…………?!!]


 月夜が消えた瞬間虎の体が大きく揺れた。それと同時に、俺の体を押しつぶしていた力も一瞬にして消える。


 遅れて血を吐いた奴がぶらぶら何歩か歩いて、そのまま倒れる。頬に当たる部分にぴったりくっついていた俺は、そんなやつから鼓動と体温が急速で消えていくのを肌で感じることができた。


 血の味がするつばを飲み込みながらつぶやいた。


「………勝った。」


 まるでその言葉だけを待ってたかのように俺の体からも力が抜けて地面に落ちた。体に熱と疲労が上がり、いつからか呼吸を止めていた肺は鼻と口を同時に使って酸素を取り込むことを命じた。


 血と汗だらけになった体は座っているのが嫌になるほど気持ち悪い。


「啓人……」


「やぁ…… やったな。」


 ふらふら危なかっしい足取りで近づいてくるので俺も急いで起きて倒れそうな彼女を支えてあげた。

 体のどこもまともなところがないんだけど。特に抱えている左腕が目に映って胸が痛くなる。


「無事でよかった。」


「……お前が言うかい。こんなボロボロな体で。」


「私は部屋に戻ったらすぐ治る。でも啓人はポーションがいないと治らないから。」


「それはそうだけどよ…… 今言ってるのはそんなんじゃないから。」


「そうなの?」


「そうだよ。」


「……そうなんだ。」


 答えた彼女が懐の中でどこかうれしそうに笑う。それがまたかわいくて頭を撫でてあげるとゆっくりと尻尾が降り振り動いた。


 お互いの体を支えながら起きて、ムールを眺めた。


 脇から心臓、肩の順に大きな穴が開いてる。まるで巨大な弾丸にでも打たれたみたいだ。傷口を通じて血が外を目指している。


 だが驚いたことにそんな奴はまだ完全には死んでいない状態だった。見妙に腹が動いている。


「本当にしぶとい奴だな……」


「致命傷だからこのままおいても死ぬ。」


「でも余裕がないから。」


 爆弾を取り出して口の中に投げ入れた。


 爆発は三秒後に起こった。奴の頭が膨らんだけど、ジャイアントトードの時みたいに肉革が爆発したりはしなかった。


 単に水分が足りなくなった口から煙を吐き出すだけだ。


 ステータスを開いて今度こそ奴が死んだことを確認し牙だけを一本抜いて入り口の部屋に向かった。


「解体しない?」


「お前もそうだし俺もそうだし…… そんな余裕をかばってる状態じゃないからな。正直この状態でお前の部屋まで行けるのかも疑問だよ。」


「肉食べたいのに…… 5日以内に戻れる?」


「急げば無理でもないと思うよ。っていうかこだわるとこそこ?共食いだろ。怖いんだけど……」


 悪魔もプレイヤーも、死んだら五日後にDEVIL TAKERの掃除部であるスライムに食われることになる。


 どこからでも現れるこいつらは生きている奴らには完全に無害だけど狩はできないように設定されている。一応悪魔に分類されているが、あくまでもシステムの一部なのですべての攻撃に対する耐性を持っているからだ。


 こいつらから死んだ奴を保管できる方法は二つ。今まで俺がやってきたみたいに解体して保管したり、SF映画によく出るフラスコみたいなものに入れておくしかない。


「………見つけた、カギ。」


 ムールを倒した瞬間天井から降りてきたロープに3階層の鍵がかかっていた。

 思った以上に苦労しただけにうれしくにも、憎たらしくにも見えた。上に向かって前足を伸ばしている虎のカギを取り出すとロープは再び天井に戻っていった。


「……なぁ月夜。」


「ん?」


「俺…… そろそろ町に戻ろうと思う。」


 流れとは合わない言葉に月夜が少し驚きながら俺の顔を見つめた。

 この前に俺の過去について言ったので彼女も町とは何か、そこにどんな奴らがいるかはすでに知っている。なのにそんなところに戻るなんて、流れ関係なしに驚かせちゃったかもしれない。


 正直に言うと俺もまだ戻りたくはなかった。力ももう少しつけたいし、まだ確実に勝てるという確信もしないから。


 だが…… 戻らないと危ない状況になってしまった。


 白虎やムールみたいに知ってることとは違う状況が続けて起きているんだし、それによって得る怪我を治療する手段がいない。回復できない今の体で5階層まで行けたらまさしく運が良かっただけで6階層にいったら万一の可能性もなしに確実に死ぬ。


 月夜の場合悪魔だからかどんな傷を負っても白虎の部屋に行けば一日で治る。だが重要なのは白虎の部屋に行かないとってことでこれ以上の階層に行けばこの回復方法は使えなくなる。


 俺ならともかく…… 彼女を失いたくはなかった。


 月夜がじっと目を合わせた。揺れない瞳が静かに俺を映しているので何を言うかと待つと、彼女は手を上げて、俺の頭を撫でた。


「なんで…… 撫でるの?」


「偉い人はほめられるべきだから。」


「偉い?俺が?」


「うん。だって啓人、勇気を出したんでしょ。」


 静かに広がる彼女の声が心の奥底に届いて、驚いた。


 彼女は大丈夫?と心配も、大丈夫、と応援もしなかった。ただいつも通り、自分の心を伝えるだけだ。


 だからこそ、心に響いた。


 ちゃんと俺を理解して心の奥底から出てくる気持ちを言葉にして伝えたってことを、感じることができた。彼女は俺を喜ばせるための媚ではなく、本気で俺の決心と行動を偉いと思っているのだ。


 実に彼女らしいその誉め言葉に、胸の中に残っていた最後の不安が消える。


 お互い制服で作った布で適当に傷を固定させた。そして行く途中、ミノタウロスに会わないことを祈りながら白虎の部屋に帰った。

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