とおくへ行く時(仮題)

タイソン

第1話

 物心が付くまえから、どうにも僕は普通ではない、と考えていた。いつもそのようにそうだったわけではない。時折そう思うときがあった。最初はこの感覚をなんでもないことのように思えたが、それはものと扱うにはあまりに歪で、孤独なものであった。そしてそれは、きまって心の声が漏れる瞬間に訪れた。

 それは言うなれば、本を読んでいるときに、次の行を読もうと目を上に戻したさい、再び同じ行を読み出したときのようであった。文を追う。頭の中で文字を形にする。先の文章に期待を募らせる。やがてその行にこれ以上の文字は詰め込められなくなり、僕は文字の続きをさがして目を元あった場所へ戻す。しかし、そこに求めていたものはない。不格好な分断だけがある。そこではじめて、あ、しまった、と思う。間違えてまた同じ行を読んでしまったと気がつく。そんなぞっとする違和感のようなものが、いつのまにか僕の心のなかに蓄積されていた。


 はじめてその違和感に気がついたのは、父に連れられて、神社の祭りに行ったときのことだった。地面に残った太陽熱が乱反射するような、真夏の夜だった。

 あのとき、僕は綿飴に夢中だった。大きくて、ふわふわしていて、それでいて齧ると甘い。顔を近づけると、目の前はそのふわふわでいっぱいになり、鼻の奥にまで甘い匂いが広がった。真っ白で大きな犬に飛び込んだら、こんな感じなのかな、と思っていた。これ以上に不思議な食べ物はないと思った。

 僕は綿飴を片手に、父と祭りを回った。一緒に金魚すくいをしたり、焼きそばを食べたりした。父はいつの間にかめったに飲まない酒を飲んでおり、暑さのせいもあってか、ほんの少し顔を上気させていた。僕もコーラを飲んだ。

「そろそろ帰るよ」

 父が言う。もう少しで9時になるところだった。むせかえるような暑さは、いつのまにか天へと昇っていってた。この熱を受けて、太陽は明日も輝くのかな、と思った。帰る時間がきていた。二人ならんで歩き出す。父は片手に金魚の袋やら、ヨーヨーやらを持ち、もう一つの手には酒を持っていた。僕は綿飴をしっかりと右手に持っていた。父に手をつないでもらおうとしたが、その両手がいっぱいなので、僕は何も言わなかった。

 やがて出口の石段にたどり着く。それなりの高低差のある石段で、いつも少しだけ降りるのが怖かった。

「手、握るか?」

「ひとりで降りれるよ」

 ほんとうは手をつなぎたかったけれども、せっかくだから一人で降りてみようと思った。たまには、そんなことがあってもいいと思った。

 石段を覗き込む。家の階段とは違い、広く、長かった。中腹の提灯の灯りが消えており、そこにだけ闇が染み付いていた。ぽっかりと開いた口のようで、なんだか恐ろしかった。

 父は後ろで僕の様子を見ている。いまにも先に進みだしそうだったし、手を握ってきそうだったので、なかば意地になっていた僕は、意を決して左足を踏み出す。一段目を踏むと、なんだ、大したことないじゃないか、と思った。僕は後ろで待っている右足を前に持ってこようとした。

 そのときだった。

 階段の下で、母が手を振っているのが見えた。口を開けた闇の向こうで、ほほえみをたたえていた。僕は、母に手を振りかえそうとして、わたあめを持った右手をあげようとした。

 すべてがスローモーションになった。呆然としている母の顔が見えた。リュウジ、と叫ぶ父の声が聞こえた。がつ、という感覚が僕の右足にやってくる。それは、石段のはじまり、そのほんの少しの段差に、僕の足がひっかかったものだった。そのことに気がついたときには、すでに右足は拠り所を失って宙をさまよい、上体はその反動を受けておおきく前方へ突き出されていた。唯一地についていた左足も、いまにもその所在を無くそうとしているところであった。ああ、死んだな、と思った。眼前に石段の角がいっぱいになる。はっとした顔をして、母が階段を駆け出す。父が手を伸ばす。しかし、地はすぐそこに迫っていた。残光の中で、さっきまで手にしていた綿飴が宙を舞っていた。こんなことがあってたまるか、と思った。残光が僕を追い越して、はるか彼方へと消えていった。


 気がつくと、階段の前に立っていた。僕は、確実に死んだと感じたはずだった。頭蓋が砕け、鮮血が奔り、真っ白な綿飴が空中で紅く染まるのだと思った。しかし、実際には石段の角で頭蓋が割れたわけでもなければ、血が宙を舞ったわけでもなかった。わたあめは僕の手の中にある。夢だと思わなければ、なにひとつ理解ができないことが起きていた。夏の暑さにあてられた僕の夢なのかと思った。あまりに現実的すぎて、中身をすべて吐き出しそうになる。

 混乱した頭のままで振り向くと、父はそこに立っていた。呆然と顔をみつめていると、

「どうした、やっぱり手繋ぐか?」

 と言った。ぼくはうなずいた。

 父と一緒に石段を降りだすと、母の姿が見えた。手を振っている。石段には闇がある。夢と何一つ変わらない。ただ違うのは、僕が父と一緒に階段を降りていること、そして死んだと思った僕が生きていることだった。


 それは、ずっと僕の頭の中にあったざわざわとした違和感が、ある程度の形を得た瞬間であった。

 

 

 

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