ぬすまれた傘

雨野 優拓

ぬすまれた傘

「うわ、雨降ってるじゃん」

 午後の授業中、クラスの誰かがそう言い出した。チラリと窓の外を見ると、本当に雨が降っていた。

「傘持ってきてないよー最悪」

 別の誰かがそうぼやくと、クラスのみんなは「私も」「俺も」と口々に言い出す。けれど、僕は外の雨などさほども気にならなかった。今この瞬間、雨が降っていることを嘆いているのは傘を持ってきていない人だけで、朝の天気予報を見て念のため傘を持ってきた僕には雨が降ろうが降らなかろうが、どちらでも構わないことだった。

 その日一日の授業が終わり、帰りのホームルームが終わっても雨はまだ降り続けていた。昇降口に向かう間も、傘を持ってこなかったことを後悔する声が周りから聞こえてくる。どうやら、傘を持ってきているのは校内でも少数派のようだった。みんなは降水確率20%に対して、降らないほうの80%に賭けたらしい。けど、その気持ちはわからなくもない。

 昇降口で靴を履き替えると、傘立てに向かう。傘立てに入っている傘は数えられるほどで、僕の傘はすぐに見つかった。真っ赤な持ち手がその存在を主張していた。

 それから僕は傘を掴もうとするが、真っ赤な持ち手に向かって伸ばした僕の右手は空を切った。いつのまにか、傘立てから僕の傘は消えていた。

「――え」

 横を見ると、見知らぬ女性徒が僕の傘を手にしていた。彼女は僕のことを一瞥すると、僕の傘を手にしたまま、昇降口を出て行こうとする。

「ちょ、ちょっと待って!」

 僕は思わず彼女を呼び止めていた。彼女は立ち止まり、振り返ると「……なに?」と言った。僕は、彼女のその態度が気に入らなかった。

「なにって……それ」

 僕は彼女の手にした傘を指で差し「僕の傘なんだけど」と、苛立ちを隠さずに言った。まさか、目の前で人の傘を盗んでおいて平然とする人間がいるとは思ってもみないことだった。

 しかし、彼女は僕の言葉に、手にした傘を確認すると「違う。これは私の傘だよ」と言ってのけた。

「そんなわけない。それは僕が今日の朝、家から持ってきた傘だ」

「なら、確認してみて」

 僕が語気を強めると、彼女はそう言って僕に傘を手渡してきた。一体何を考えているんだ。彼女の顔を見るが、その表情からは何もわからない。僕は受け取った傘を確かめる。やっぱりそれは、間違いなく僕の傘だった。

「いや、僕の傘だけど?」

「よく見てみて、持ち手のところ」

「……持ち手?」

 彼女に言われて、僕は傘の持ち手を顔の前に近づけた。そして、

「――あっ!」

 僕は気がついた。傘の持ち手部分に、赤いハート型のシールが張貼られていることに。持ち手の赤に紛れて遠目には分からなかったが、近くで見ると確かにシールが貼ってある。それは、僕の傘にはないものだった。

「ね、私の傘でしょ?」

「はい……」

 手にしていた傘を彼女に返す。彼女の顔を再び見ることはできなかった。

「すいません……僕の傘と同じタイプで、同じ色だったから見間違えてしまったみたいで。勘違いしてしまったみたいです……」

 今すぐその場から逃げ出してしまいたかった。彼女は「ううん、謝る必要なんてないよ」と言ってくれたが、恥ずかしさで身体が暑くてたまらなかった。僕は彼女に背を向け、もう一度傘立ての前に戻った。

 さっさと自分の傘を取ってこの場からいなくなろう。そう思って傘立ての中を探す。が、いくら探しても僕の傘は見つからない。他の傘立ても見て回るが、それでも傘は見つからなかった。

 どうしたらいいのかわからず、その場に立ったままでいると、

「――どうしたの?」

 と再び声が掛かった。振り返ると、さっきと同じ女性徒だった。

「それが……傘が見つからなくて」

 ありもしない傘を傘立ての中に探す振りをしながらそう答えると、

「見つからない? ……もしかして、傘を持ってきたのは嘘だったってこと?」

 彼女はそう言った。僕は彼女に向き直り、

「そんな、嘘なんかじゃ! きっと誰かが僕の傘を持っていったんだ……」

「ふーん。そうなんだ……」

 彼女がそれだけ言うと顔を外に向けた。

 僕はもう一度傘立てを見る。そこには傘がいくつか入れられていて、その中にはビニール傘も数本あった。それはどれも同じに見えて、持ち主でさえ区別がつきそうにない。

 そのとき、脳裏に邪な考えがよぎった。ビニール傘なら盗んだところで誰にも咎められないのではないか? このビニール傘はずっと前からここに放置されてる気がするし、僕の傘は盗まれたわけだし、その代わりに使ったって……

 そこまで考えて、僕は頭を振ってその考えを追い出した。

 自分の傘が盗まれたから、別の誰かの傘を盗むなんて! そんなこと、許されるはずがない。けれど、そうなると僕に残された道はもう……

 外を見ると、空はすっかりと雨雲に覆われている。その下を、傘を持たない人が駆けていく姿が目に入った。

「ねえ」

 そうしていると、再び声がかかる。声をかけてきてのは、やっぱり彼女だった。

 ……そういえば、彼女はいつまでここにいるつもりなのだろうか、そう思いながら彼女に顔を向ける。

「なにか?」

「家の方向、どっち?」

「僕の? ……駅のほうだけど」

 そう答えると、彼女は「そう……」と少し考える素振りを見せ、それから、

「よかったらさ、傘、入っていく?」

「ええっ!?」

 僕は彼女の言葉に驚き、変な声を上げてしまった。

「なんで!?」

「なんで、って……」

 彼女は、少し困ったような顔をすると、

「雨、降ってるからだけど……」

「あ、そっか」

 本当は、どうして見ず知らずの僕のことを傘に入れてくれるのか聞いたのだけれど、彼女はそうとは受け取らなかったようだ。

「でも、いいの?」

 僕がそう尋ねると、彼女は「だって、可哀想だし。このままひとりで帰ったら、なんか悪いし」と答える。どうやら同情心から生まれた言葉だったらしい。

 たしかに傘に入れてもらえば、濡れずに帰れる。それに僕から頼んだのではなく、彼女の方から提案してきたことだ。たとえ僕が受け入れても、彼女が変に受け取ることはないはず。

 そして、考えた結果、僕は、

「……ありがたいけど、遠慮しておく。僕は雨が止むまで、ここで待つことにするから。気にしないで帰ってよ」

 彼女の申し出を断った。

「えっ、どうして? 誰か、友達を待つの?」

「そういうんじゃないけど……家に帰ってもなにか用事があるわけじゃないし、別にいいかなって」

 驚いた顔をする彼女に僕はそう言い訳をした。本当は、よく知らない女子と一緒になって気まずい空気になるのが嫌なだけだったが、それを正直に言うのも恥ずかしい。だから、適当な嘘を言った。

「ふーん……じゃあ、私もここで待とうかな。雨、止むの」

「え!?」

 今度は僕が驚いた。

「なんでよ、傘があるなら帰ればいいじゃん。気なんて遣わなくていいからさ」

「……いや、考えて見たら、傘があっても足、濡れちゃうなって思って。だったら雨が止むまで待つのが正解なのかなって。私も、用事、ないしさ」

「じゃあ、雨が止まなかったら?」

 僕がそう聞くと、彼女は手に持った傘を示して、

「そしたら帰るよ。傘、あるし」

 ニコリと笑った。

「なんだそれ」

 彼女の笑顔につられて、僕も笑ってしまった。

 そうして僕らは、昇降口で雨宿りをすることになった。

「……あ、えーと」

 そうなってしまった以上、黙っているのも何か変だからと僕は何か話を振ろうと思うが、話題以前に彼女のことを何と呼べばいいのか分からなかった。君、あなた? 悩んだ末に僕は、

「……何組?」

 と、口にしていた。クラスが分かれば、もしかしたら彼女の名前が分かるかもしれないと思ったが「C組」と、彼女の返事を聞いても彼女の名前が浮かぶことはなかった。

「沢村くんは、B組だっけ?」

「え、なんで」

 彼女が僕のクラスと名前を知っていたことに驚いた。どうして知っているのか。彼女の顔を見るが、やはり名前は出てこない。しかし、よく見ると、彼女にはどこかで見覚えがある気がした。どこで見かけたんだっけ……そう思っていると、彼女は少し照れたように笑って、

「書道の授業、取ってるでしょ」

「うん…………ああ! もしかして」

「そう。私も書道取ってるんだ」

「ごめん、全く気づいてなかった」

 言われて気がついた。書道の授業で彼女のことを見かけたんだ。

「沢村くん、書くことにすごい集中してるよね」

「そ、そうかな」

「じゃないと、あんな字、書けないよ。私なんて全然下手で、あんなに綺麗な字を書く人は一体どんな人なんだって、ずっと気になってたんだ」

「へ、へえ」

 面と向かって字を褒められたのは初めての事で、すごく嬉しくて、恥ずかしかった。

「でも別に、大したことじゃないよ。ただ手本を真似て書いただけで、バランスも怪しいし、何枚も書いてたまたま上手くいったのを見てるだけだよ。先生の方が僕より何倍も上手だし……」

「そう? 沢村くんも、全然負けてないと思うよ」

「まさかそんなことは」

「謙遜、だね」

 彼女はそう言って笑った。僕もそれに合わせて笑った。

 彼女と話をするのはこれが初めてのことだったけど、彼女と話をするのはなんだか気分が良かった。彼女は良い意味で正直で、話疲れがなさそうだと思った。もう少し話をして、彼女のことを知ってみたい。僕はひそかにそう思い始めていたが、

「――あ、見て」

 彼女はそう言って外を指で示す。見ると、空を覆っていた雨雲に亀裂が生じ、その隙間から光が差し込み始めていた。

「雨が止んだみたい。結構、早かったね」

「……そうだね」

 雨が止んだと言うことは、これ以上ここに留まる理由を失ったことを意味していた。さっさと靴を履き替えて昇降口を出て行く彼女を、僕は上履きを履いたまま見ていた。

「帰らないの?」

「ううん、帰るよ……」

 彼女は僕との別れを少しも残念だと思っていないようだった。振り返りかけられた声に、僕は靴を履き替えて昇降口の外に出た。彼女の名前すら、まだ聞けてないのに……太陽の光が眩しく、僕はそれを恨めしく思った。

「じゃあ、また……」

 校門を出て、僕が帰路につこうとすると、

「え、なんで?」

 彼女は不思議そうな表情をみせた。

「なんでって、家に帰るからだけど……」

 僕がそう返すと、彼女は首を傾げる。

「家、こっちなんでしょ? 私の家もこっち。だから途中まで一緒でしょ?」

「あ、そうなんだ……!」

 僕は平静を装ったつもりだったけど、言い終わる前に喜びが口から洩れ出てしまっていた。彼女は微笑むと、

「じゃあ、行こっか」

「そうだね」

 それから僕たちは晴れた空の下を歩き出した。地面に出来た水溜まりが光を反射して眩しかったが、今はもう、気にならなかった。

「傘、見つかるといいね」

「どうだろう。返ってくるかな?」

「大丈夫。きっと、すぐに返ってくるよ。持っていった人もちょっとした出来心だから」

「そうかな」

「そうだよ」

 そう言うと、彼女は手にしていた傘で地面を突いた。硬質な音が雨の匂いを孕んだ空気に溶けて消えた。

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ぬすまれた傘 雨野 優拓 @black_09

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