深紅の紋章0(ZERO) ひなぎくが咲く

矢芝フルカ

第1話 最期の日



 俺はもう・・・終わりなんだろうか・・・


 薄れ行く意識のなか、ジェフリーは月の無い夜空を見上げていた。

 新月の闇夜はやたら星ばかりが目について、月光の届かない地上よりも、空の方が明るいように見える。


 辺りの様子はただ暗くてよく分からないが、自分がたいそう頼りない場所に転がっているのだけは理解した。

 かろうじて動く、左手の指先が掴むのは地面の端のようで、力を入れるとボロボロと崩れてゆく。

 やっと慣れてきた目に映ったのは崖の斜面で、はるか上の方の夜空を小さく切り取っていた。

 あれが崖の頂上ならば、かなり高い所から落ちた訳だ。

 時折、落ちてくる小石はジェフリーのわきを通り過ぎ、さらに下へと転がり落ちて行く。

 斜面を打って転がる音が、だんだん遠のいて消えてしまうのは、ここから更に深い谷になっているという事だ。

 おそらく今自分は、崖の中腹の足場のような棚に引っかかっているらしい。

 それは奇跡という他無かった。


 辺りに漂っている生木を裂いた匂いは、落下により破壊された馬車の車室のものだろうか・・・。

「パット・・・ナム・・・」

 無駄だと分かっていても、同乗していた執事の名を呼んでみる。

 パラパラと木屑のような物が降ってくる音がしただけで、返事は無い。


「う・・・」

 腹に激痛が走る。

 地面が湿っているのは、自分から流れ出る血のせいだと今気づいた。

 止血できれば助かる道もあるかもしれないが、起き上がろうと試してみても、腰から下に力が入らない。

 もし下手に動いたのなら、この頼りない場所から落下するかもしれない。


 声を上げたとしても、こんな山奥で誰に聞こえるというのだろう。

 このまま身体じゅうの血が流れて死ぬか、熊か狼に食われて死ぬか、何かの拍子で谷底に落ちて死ぬか、だ。

 結局死ぬしか無いのなら、気を失ったまま死んでしまえば良かったのに・・・。


「・・・ちくしょう・・・」

 遠い星空を見上げて、ジェフリーはつぶやく。

 いつもと変わらない今日だったはずだ。

 だから明日も変わらずに来るのだと、疑わなかった。

 たった20年で終わってしまう人生だなんて、思いもしなかった。


「今日が最期だった・・・のか・・・」

 瞳からひと筋、涙が落ちる。

 ジェフリーは今日の事を思い出していた。



 その日の夕方、大学の講義が終わり、ジェフリーは図書館に急いでいた。

 3月上旬、まだ冬の名残はあるが、南の海に面したこの町は、早くも春の気配を感じるほど暖かかった。

 海にせり出るように山地があるこの地域は、その温暖な気候と、山と海の豊かな恵みを享受しようとする、富豪たちの別荘地となっていた。


「おい!ジェフ!ジェフリー=ウィルトン!」

 呼び止められて振り返る。

「・・・何だ、ビルか」

 廊下を行きかう学生たちをかき分け、向かって来る悪友を見つけて、ジェフリーはそれを待たずに先に進んだ。

「ちょっと待てよジェフ!待てって!」

 ビルと呼ばれた男子学生は、あわてて駆け出して、ジェフリーの横へと追いついた。


「なあ、お前この夏に卒業するって本当なのか?」

 ジェフリーの早足に合わせて、山高帽ボーラーハットを小脇に抱えたビルが付いて来る。

「ああ」

 前を向いたまま、ジェフリーは短く答えた。

「何でだよっ!」

 目を丸くして声を荒げるビルに、

「単位が全部取れたからだ」

 と、ジェフリーは素っ気無い。

「そうじゃなくて!」

 さすがに腹が立ったのか、ビルはジェフリーの肩を掴んで引きとめた。

「俺が聞いているのは、飛び級で卒業しようとする理由だ!俺は来年一緒に卒業できると思ってたんだぞ!どうして何も言わなかったんだよ!」

 目を吊り上げてはいるが、ビルの口調には悔しさが滲んでいるのが分かる。


 この大学は、初等部から設置されている一貫校の大学部だ。

 18歳までは寄宿舎に入る事が義務付けられていて、ジェフリーも2年前までは寄宿舎で生活していた。

 ビルは長年、同じ部屋で過ごしたルームメイトだ。

 反抗期まっさかりの少年時代は、共に他愛無い悪事を働いては、並んで罰を受けた事も一度や二度では無い。


 ジェフリーはひとつ息を吐くと、悪友に向き直った。

祖父じいさんの具合が思わしくない。のんびり学生をしている訳には行かなくなった」

 聞いたビルの表情が、別の意味で険しくなる。

 長い付き合いだけに、ビルはジェフリーの家の事情を承知していた。


 ジェフリーの実家であるウィルトン家は、紡績業を主軸として多数の事業を展開する実業家の家柄だった。

 祖父からジェフリーの父親へ、そしていずれジェフリーへと受け継がれるはずだった家業は、ジェフリーが10歳で両親を亡くした時に、叔父の手に渡ってしまった。

 以来、ジェフリーは叔父と折り合いが悪い。

 もし、唯一の庇護者である祖父が他界すれば、ウィルトン家でのジェフリーの立場は危ういものとなるだろう。


「そうだったのか・・・」

 押し出すようにそれだけを言って、ビルはジェフリーの肩から手を離した。

「・・・そういう訳だ。悪かったな」

 それじゃ、とばかりに片手を挙げて、ジェフリーは先を急ぐ。

「どこへ行くんだ?」

 今日はもう講義は無い。

 それなのに、玄関とは別の方向へと向かうジェフリーを、ビルが追いかける。


「図書館だ」

「図書館!・・・へぇぇぇぇ、ほぉぉぉぉぉ・・・」

 ジェフリーの返事に、ビルは途端に表情を崩して、ニヤニヤと笑い出した。

「・・・何だよ」

 これにはジェフリーも足を止める。

「そりゃあ急ぐよなぁ、図書館ならねぇ・・・」

 口元はニヤついたままながら、ビルは心得顔で何度もうなずいた。

 そうしていたかと思えば、「ハッ!」と何かに気づいたように、急に深刻な顔つきになる。


「ジェフ、卒業したら故郷に帰るんだろ?」

 真顔で問う悪友から、ジェフリーは目をそらした。

 全く、コイツはバカのくせに変な所だけ勘がいい。

 ジェフリーは心の中で毒づいた。

「彼女はどうするんだよ?」

 ビルの直球の質問に、

「考えているさ・・・」

 ジェフリーは目をそらしたまま、小さく答えた。


「俺の事よりもビル、自分の事をちゃんとしておけよ。夜遊びしないでちゃんと授業に出ないと、単位取り損ねて卒業が延びるぞ」

 わざと意地悪くジェフリーが言う。

「な、何の事だよ?」

 途端にビルの目が泳ぎはじめる。


 やっぱりそうか・・・鎌をかけたジェフリーは、ビルの様子を見て畳み掛ける。

「会計学は月曜朝の講義だが、お前の出席率がすこぶる悪いと教授がこぼしていたぞ。来週が提出期限のレポートがあると聞いたが、お前知ってるか?」

 もちろん全てジェフリーの「口からでまかせ」なのだが、ビルはあわてて、

「あ、ああ~、あのレポートだろ、もちろん知ってるさ」

 と言った。そして、

「じゃ、じゃあ俺はこれで。明日またな、ジェフ」

 くるりと反転すると、どこかへ走り去った。


 それは急ぐだろう。明日は金曜日だ。

 ありもしない課題に奔走する悪友の姿を想像して、ジェフリーはくすりと笑った。



 図書館は校舎の北側、渡り廊下で繋がった別棟になっている。

 重厚な扉を開くと、騒がしい校舎内とは別世界のような、静粛の空間となる。

 自分が立てる靴音にさえ気を使いながら、ジェフリーは立ち並ぶ書架の間ひとつひとつを見て行く。

 そして、一番奥の書架に目的の姿を見つけた。


「デイジア」

 ジェフリーは小声で名を呼んだ。

 輝くような金色の髪を結い上げた若い女性が、気づいて振り返る。

 書庫に本を戻す手を止めて、にっこりと笑顔を向けた。

 それに片手を挙げて応じながら、ジェフリーは彼女へと向かう。

「ジェフ、会いたかったわ」

 デイジアも小さな声で言った。

 ジェフリーは彼女の耳元に顔を寄せて、

「話があるんだ」

 そう囁いた。

 デイジアは無言でうなずくと、籠に残っていた本を手早く棚に戻して、目でジェフリーを導く。

 くるぶし丈の長いスカートをさばきながら、デイジアはするりと書架の裏側へ回った。


 壁に作りつけられた書架と書架の間に、扉があった。

 扉の鍵を開けたデイジアは、周囲を見回してからジェフリーを入れる。そして自分も中に入った。


 そこは書庫だった。

 陽の光がほとんど差し込まない部屋は、所狭しと立ち並ぶ書架の輪郭がぼんやりと見えるだけで、夕方という事もあり、薄暗かった。

 デイジアの手で扉が閉じられた途端、ジェフリーは彼女の身体を、背中から掻き抱く。

「俺だって会いたかった・・・」

「ジェ・・・」

 彼女がつぶやいた自分の名前ごと、唇で塞ぐ。


 デイジアは大学の職員で、図書館司書の助手をしている。

 ジェフリーがレポートの為の資料を探していた時、手伝ってもらったのが縁で親しくなった。

 恋人という間柄となるのに、そう時間はかからなかったが、学生と職員という事もあり、校内では密かな逢瀬を重ねていた。


「論文が通れば卒業だそうね」

 話を切り出したのはデイジアの方だった。

 ジェフリーは目を丸くする。

 それを見上げて、デイジアはクスッと笑った。

「お話ってこの事でしょ?・・・おめでとうって言うべきなのかしらね」

 複雑な表情になるデイジアに、

「いや・・・まだ論文はできてないし・・・」

 などと、ジェフリーは言い訳めいた返事をする。


 卒業を急ぐ経緯を、すでにデイジアには話してある。

 祖父の身体の具合の事も、実家の事情が複雑な事も。


「6月には故郷に帰ってしまうのね」

 彼女の青い瞳がうっすらと潤んでいた。

 そんな顔も可愛らしいと思うのは、不謹慎だろうか・・・。

 ジェフリーは思い切って、胸の内にある想いを言葉にした。


「デイジア、その・・・俺と一緒に来てほしい」

 腕の中の恋人は、瞳を大きく見開いて、驚きの表情になる。

「あ・・・えっと、すぐにじゃ無いんだ。・・・あっ、いや待たせるつもりは無くて・・・こういうの段取りがあるだろう?」

 要領を得ない言葉ばかりが、ジェフリーの口を突いて出る。

 デイジアがますます困ったような顔つきになったので、

「つまり・・・その・・・」

 ジェフリーは一度大きく深呼吸してから、

「結婚しよう」

 想いの丈を告白した。

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