春の嵐
卒業式前日、花冷えのなかを啓子は歩いていた。
大粒の雨が横からの風でふきつけられている。飛ばされまいと傘を両手でつかんでいるものの 、傘の役割は殆ど果たしていなかった。傘は啓子を守ることはなく、啓子がただ傘の庇護者だった。
こんな傘をいっそ閉じて軽やかに濡れて歩くことも出来ないなんて、と啓子は自分のいくじの無さを忌々しく思う。あの子ならきっと、高い声出来ない騒ぎなが友達と小走りで帰るのだろう。それとも、噂の高校生の彼氏が迎えにきたりするのだろうか。はたまた、彼女を気に入っている店主がやっている雑貨屋の暖かな店内で過ごしているのかもしれないし、制服姿で堂々と喫茶店に入っているのかもしれない。
もはや雨は啓子の肩どころではなく全身を濡らしていた。紺色の長いプリーツの裾の色が濃く変わり、水をふくんでずっしりと重い。一晩で乾くだろうか。きっと母親はため息をついて制服を干す。したたる水滴を受け止めるように、古新聞が床に敷かれる。それが卒業式前日に啓子が見る田中家の光景になるのだろうと思う。
黒染めをした髪から、セーラー服の肩に色がうつらないかも気になった。
紺の生地だから目立たないかもしれないが、変にテカったりシミになったりしたら、みっともない。この制服を着る最後の日だというのに。
嫌な想像をふりはらうようにして別の事を考えたかった。そうすると、浮かんでくるのは相変わらず彼女の、真理奈のことばかりだ。
啓子と真理奈は1組と3組に分かれていた。クラスごとに列を作り、立ち座るする卒業式の予行演習の時間。真理奈は3組の最前列にいて、啓子は1組の列の真ん中あたりから、真理奈の後ろ姿を眺めて過ごした。
全体の掛け声では殆ど声を出していないのが分かって、とがめるような気持ちで啓子は真面目に掛け声を出した。真理奈ほか数名に割り振られた「力を合わせた運動会」では、笑みを含んだような明るい声がよく響いた。真理奈は運動会では殆ど競技に参加せずに、日陰に移動して先輩後輩問わず派手なグループで座り込んでいた。でもそんなことはおくびにも出さない、明るい声は卒業式の場にふさわしかった。きっと当日も、いい式になることだろう。
啓子は家まであと角をひとつというところでやっと傘を諦めて閉じると、スカートの裾を思いきり絞った。分厚い生地を絞る冷えた指先に、かすかな痛みがあった。たいして水滴は絞れなかった。
2年に進級して以降は真理奈との関わりが切れるかと思っていた啓子だったが、意外なところで繋がっていた。地毛証明だ。
啓子は生まれつきの茶色がかったウェーブ―と言えば聞こえはいいが要はくせ毛だ―のために地毛証明を提出している。真理奈は誰が見ても染めているのだが、堂々と地毛証明を出している。学年で髪を染めているのは真理奈だけでは無かったが、親を介すだけにハードルが高く、証明を出すまではしていない。
大抵のそういった生徒は、普段は教師に小言を言われつつ、場面によっては一日だけ黒染めして青光りする黒髪で登校していた。染めている以上はそういうものだ、と皆わりきっていたのだ。真理奈以外は。
1年時、真理奈が証明を提出した際に嫌味を言った教師が居たが、真理奈の父親からの猛クレームが入り、それ以降は腫れ物扱いといったところだ。進級するごとに提出を必要とすることにまたクレームが入ったらしい、という話には笑ってしまったが、とにかく2年時の提出の時期になって二人は書類を取りに呼び出された。
真理奈とクラスが離れてせいせいしていた所にそれだ。
呼び出しの後に、真理奈がメモ回し事件など忘れたかのように啓子に愚痴ってきたことがある。あるいは本当に忘れたのかもしれない。いつでも嵐の真ん中に居るのが彼女だからだ。
「本当に無駄なことさせるよね。私の髪が茶色いと学校の何が困るわけ。ケイちゃんもめんどくさいと思わない?地毛が茶色いだけで、本当に地毛かどうかなんて書類出さされてさ」
学校の何が困るかというと、風紀じゃないだろうか。特にあなたの場合は。と啓子は思うが、思うだけにとどめておいた。
「別にこだわりないけどね、黒くないなら仕方ないんじゃない」
「はあー? 黒髪の人は本当に黒髪かなんて言われないんだよ。おっかしいでしょ」
「本当に生まれつきだから、なれてるし諦めてる」
微妙な皮肉を込めて、啓子は言葉を返した。それは本心でもある。
黒染めを自分で試したこともあったが、自然に染めるのは難しく、ムラにもなる。染めたては色が落ちて服にうつるし、退色してもくる。伸びてもまた染め直し。染める手間と年に一度の書類提出を秤にかけて、より面倒の少ない方をとったというだけだ。
親はというと、内申がどうなるかという点しか気にしていなかった。
証明さえ出せば問題ないと知り、安心したようだ。そこで初めて、「黒染め、変よ」と言った。そういうことにも、なれているし諦めている。
「本当だろうとなんだろうと、これが私に一番似合うし、私らしいの」
「地毛が黒かったら、その方が私はよかったけどな」
啓子が何気なく言うと、真理奈はしげしげと啓子を眺めてから
「似合わなさそう。その色がケイちゃんの色って感じ」
と真顔で言った。
「そういうこと言うところがほんと、」
それからなんと言ったのだろうか。啓子には記憶がない。ずっとコンプレックスだった髪色を認められて、うっかり嬉しくなってしまったのか、それとも他人事だと思ってと不快になったのか。それすら思い出せないのだ。
ただ、それ以降、啓子はいっそう真理奈を意識しつつ、さらに避けるようになった。
3年時に黒染めをすることにしたのも、受験を考えてと周りには説明したが、また真理奈と書類提出の件で会話することを避けたかったのが本音だ。黒染めはやはり面倒で、似合わなかった。
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