第15話「最高に楽しい」



 バシャッ

 そして、ベネジクトは夢目掛けて再び毒液を吐き出した。


「やめろ!!!」


 透井は再び駆け出し、咄嗟に毒液から夢を庇った。今吐いた毒液はかなり強力なものだったらしく、ギリギリで回避したつもりが、透井の右腕に飛沫が数滴かかってしまった。


「ぐっ……」

「透井君!」


 猛烈な痛みに腕を焼かれる透井の背中を、夢は慌ててさする。彼の制服の袖が徐々に崩れ始める。二度も危険な目に遭い、庇われた罪悪感が夢を襲う。

 まるで歯が立たない。自分達は漫画のキャラクターではなく、何の特別な力もない現実の世界の人間なのだと、痛いほどに思い知らされる。


「夢さん、走れ!」

「え?」

「早く!」






 バッ


「卓夫君?」


 揺らめくジゲンホールから、卓夫が姿を現した。シュバルツ王国大戦記の世界から、現実世界へと戻ってきたのだ。機械の操作をしていたハルが、卓夫のボサボサの頭とメガネに気付いた。


「あれ? 透井君と夢ちゃんは?」

「ハルさん! 大変でござる! クモのせいで漫画がAVみたいなことに!」

「え?」




 バッ

 すぐに夢と透井が戻ってきた。何かから逃げるように焦っており、必死に飛び込んできた。二人の溶けかかっている制服姿を見て、ハルはすぐさま危機を察した。


「ハルさん! すぐに電源切って!」

「透井君!」

「くっ!」


 透井は夢を抱きしめながら、横に転がる。次の瞬間、ジゲンホールの奥からベネジクトの毒液が飛び込んできた。何もない空間からいきなり半透明の液体が吹き出されるという異様な光景である。


 ジュッ


「ああっ!」


 先程まで夢と透井が横たわっていたフローリングの床に、毒液が撒き散らされる。床が白煙を上げて少しずつ崩れていき、何でも溶かす毒の強力性が、その場にいた全員の背筋を震え上がらせる。


「ハルさん!」

「えぇ!」


 透井の呼び掛けにハッと我に返り、ハルはキーボードを操作する。このままジゲンホールを開けたままにしておくと、現実世界にまでベネジクトがやって来てしまう。


 シューン


「うわぁぁぁぁ!!!」

「入ってきたぁぁぁ!!!」

「キモいキモいキモい!!!」


 ハルは慌てて機械の電源を落とし、ジゲンホールを消滅させた。しかし、消滅する直前にベネジクトが穴を通過してしまい、研究室に顔を出した。漫画の世界から現実世界へと転移してきてしまった。


「どどどどうしよう!?」

「と、とりあえず虫には殺虫剤!」

「そんなの効くわけないだろ!」


 全長約3メートル程の巨大なクモが、カサカサと音を立てて研究室を這い回る。もやはゴキブリが出現したよりも衝撃的な光景だ。夢は研究室の角に立てられた棚の上にあるスプレー式の殺虫剤を、咄嗟に掴み取る。


 プシュー


「ギャァァァ!!!」

「効いた!?」

「うわっ、こっち来んな!」


 殺虫剤を勢いよく吹きかけると、ベネジクトは苦しむように暴れ出した。モンスターとはいえ、殺虫剤で少々ダメージを感じるあたり、きちんと虫に部類するようだ。

 ベネジクトは慌てて研究室の出口目掛けて逃げていく。巨体が繰り出す威圧感が想像以上に凄まじく、夢達は思わず避けてしまう。


 バァァァン!!!

 ベネジクトはドアどころか壁諸とも体当たりで破壊し、研究室の外に飛び出してしまった。何者かがラジコンで操作しているのかと思い込むほどの不自然な立ち回りだ。


「あ、あいつ! 2階に!」


 透井が破壊された研究室のドアから外を覗いて叫ぶ。ベネジクトは暴れながら家中に毒液を撒き散らして進み、階段へと向かっていた。6本の細長い足で巧みに階段を上がっていく。


「こ、香李……!」


 ハルは青ざめた顔を浮かべ、駆け出した。






「……」


 香李は自室にこもり、黙々と学校の課題を進めていた。母親の発明品に興味はなく、漫画の世界に行くことができるという夢の体験にも惹かれない。冷たい空気をまとわしながらシャーペンを走らせていた。


 廊下から忍び寄るベネジクトに気が付かないまま……。


 バシャッ

 ベネジクトは毒液を吐き、香李の自室のドアを溶かした。木製であるため、容易く融解される。


 ダダダダッ

 夢達はベネジクトの後を追いかけるが、2階にたどり着いた時には、既にベネジクトは香李の自室に侵入しようとしているところだった。


「もう、うるさいわね。邪魔しないd……え……」


 香李はイライラしながら振り向くが、目の前にいたのは母親などよりも更に忌々しい姿の、巨大なクモのモンスターだった。

 シュバルツ王国大戦記の読者である香李も、ベネジクトの存在は知っている。しかし、現実に存在しており、自分の目の前に現れることなど想像するはずがない。人知を超えた怪物を前にして、言葉を失う。


「え、な、何……こいつ……」


 流石の香李も恐怖を隠すことができず、瞳に涙を浮かべる。椅子から立ち上がって後退りする。彼女が初めて見せる怯えた表情だ。ベネジクトは威嚇するように、口を大きく開けた。


「マ、ママ……助けて……」




 バシャッ




「ぐぉぉぉあぁぁぁぁぁ!!!!!」


 香李は背けた顔をもう一度正面に向けた。ベネジクトが吐いた毒液は香李には命中せず、代わりに目の前に飛び込んできた卓夫の頭にかかった。


「あ、あんた……」

「香李ちゃん、無事で良かっt……って、痛ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


 頭を押さえて悶絶する卓夫。触れた手も毒液で痺れるため、叫びが更にこだまする。




 ガァァァァァ

 次の瞬間、ベネジクトの体は勢いよく燃え出した。巨大な体が燃え盛る炎に包まれる。よく見ると、廊下からハルが火炎放射器でベネジクトを攻撃していた。


「ハァ……ハァ……」


 ハルは約20秒間ベネジクトを焼き続けた。ベネジクトは焼き焦げた体を残し、完全に絶命した。家中の多くの壁や床をボロボロにされたが、何とか厄介なモンスターを倒した。


「遅くなってごめん……火炎放射器探してたら……時間かかって……」


 ハルは息を切らしながら、筒状の火炎放射器を杖にして支える。一匹の巨大なクモ相手に、夢達は疲弊しきっていった。

 漫画では序盤の雑魚モンスターとして揶揄されていたが、いざ現実の人間が対面してみると、その厄介さは随一だ。まともな人間が太刀打ちできる相手でない。漫画のように楽に倒せるほど、現実は甘くはなかった。


「ねぇ、あんた……」


 頭から煙を出しながら苦しむ卓夫に、香李が近付く。心配そうに手を伸ばす。不覚だが、不潔で気持ち悪いオタクに守られてしまった。


「あ、ありがと……」

「なぁに、香李ちゃんが無事なら、俺はそれでいいんだぜ♪」


 再び口調が普通となった卓夫。ベネジクトの毒液に溶かされ、頭髪がごっそり失くなっていた。蛍光灯に照らされた禿げ頭が何とも間抜けだ。


「……やっぱりキモい」

「なっ!? そんな……」


 ここに来ての香李の強烈な罵倒に、卓夫は撃沈した。勇敢な姿を見せることができたと思いきや、まだまだ彼女の心に届かないようだった。


「香李、ほんとに怪我はない? 大丈夫?」

「別に大丈夫よ。早く片付けてよね。宿題やってるんだから、静かにして」


 ハルが心配そうに声をかけた途端、あからさまに嫌な態度を繕い、そっぽを向いた。またもや余計な発明品で騒ぎだした挙げ句、自分の部屋を汚されたことに苛立っているようだ。


「ご、ごめんね……お母さんいつも迷惑かけてばかりで……」


 ハルはうつ向いて火炎放射器を壁に立て掛け、ベネジクトの死体の後片付けを始めた。この親子の空気は、いつまで経っても和むことはない。

 夢は二人のぎこちない様子を眺め、どうにかならないものだろうかと考えあぐねた。


「香李ちゃん……」

「夢さんの方こそ、大丈夫? 何回か毒液かかっただろ?」

「ん? あぁ、大丈夫大丈夫。もうどこも痛くないし……」




 バサッ




「……へ?///」


 次の瞬間、夢が着ていた制服が崩れるように床に落ちた。毒液がかかった箇所から徐々に制服の生地が溶かされ、脆くなっていたのだ。黒のブレザーは燃えカスのように落下した。


 そして、彼女が下に着ていたキャミソールが露となった。


「なっ……///」

「えぇ!? 嫌ぁぁぁぁぁ!!! 見ないでぇぇぇぇぇ!!!!!///」


 夢は咄嗟に胸元を両腕でかくし、叫びながら縮こまる。いくらがさつな性格の夢でも、男に下着を見られたら恥ずかしがるのは当然だった。制服の前後両方に毒液が付着していたことを今更思い出し、羞恥心で悶絶する。


「わ、悪いっ!///」


 透井も頬を赤らめ、目線を反らす。透井も夢のことを、密かに女として本格的に意識していた。

 まぶしいポジティブ精神、見習うべき行動力、子供のような冒険心……そして、守ってやりたくなる弱さ。小さな彼女の体には、今まで見たことないような魅力がたくさん詰まっていた。


「……///」


 自分のブレザーを夢に着せながら、透井はこれから迎える未来に期待を寄せた。夢は今後もオトギワールドに飛び込み、自身の夢だった世界で存分に暴れ倒すことだろう。その隣に、自分もいたい。彼女の底知れぬ遊び心を、支えてやりたい。一緒に楽しみたい。


 きっと彼女と一緒なら、最高に楽しい思い出が待っていることだろう。


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