石狩俊子の生活と意見

バニラダヌキ

1 締め切り前のトシコさん

 人気エッセイストの石狩俊子はエゾヒグマである。

 いやいやそんなはずはないだろう、とおっしゃる方もあろうが、現にエゾヒグマなのだからしかたがない。


 無論、生まれたときから姓名のあるエゾヒグマはいない。

 大雪山系石狩岳の中腹で生まれ、まだ幼熊の頃に母熊とはぐれてしまい、衰弱して啼いていたところを森林官に保護されたときも、まだ名前はなかった。トシコと名付けたのは地元の観光課職員である。彼の幼い息子の名前が俊男で、女の子だったら俊子にしようと思っていた、そんな、単純ながらも情のある命名であった。ただしその時点でも、まだ俊子に姓はない。観光課の職員も石狩さんではなかった。


 人なつこいトシコは、観光用の熊祭りで何年か重宝されたのち、適齢期の雌熊を探していた多摩動物園に引き取られた。そこで出会った雄熊ワーブとの間に一男二女をもうけ、長男のジャッキーはすでに独り立ちしてアメリカに旅立ってしまったが、まだ親離れしていない双子のハナコとヒメコ、そして夫のワーブは、今も同じ部屋と人工の岩場で暮らしている。ちなみに、同じエゾヒグマである夫と息子の名前だけが横文字っぽいのは、不朽の名作『シートン動物記』に動物園があやかったからである。ただしジャッキーが渡米した時点でも、まだ一家に姓はなかった。


 つまるところ、石狩俊子というフルネームは、子育てに一応の区切りがついて自分の時間を持てるようになったトシコが、趣味の文筆活動を始めるにあたり、出生地をもとに名乗ったペンネームなのである。


          ◎


 ある初夏の祝日、園内は満場の賑わいだった。

 夫や娘たちと共に、外の岩場で昼の給餌ショーをこなした後、俊子だけは背後の居住スペースに戻った。朝売新聞の日曜版に連載している子育てエッセイの締め切りが、明日に迫っている。俊子はさっそく仕事用のデスクに座り、ノートパソコンのキーを叩き始めた。


「たいへんね、トシコさん」

 女性飼育員の田島嬢が、食後のコーヒーを運んできた。

「一日くらい休んでもよかったのに」

「日曜や祝日のショーは大事よ。私の本業ですもの」

 俊子はエディターの画面に顔を向けたまま答えた。

「それに家庭そろってお食事できるんだし」

「でもさ、いかにも餌が欲しそうに両手を振ったり、しゃがみこんで両足の裏を見せたり、ときどき馬鹿らしくなったりしない?」

 俊子はキーを打つ指を止め、コーヒーカップを両手で抱え、

「ふう、おいしいわ。いつもありがとう」

「どういたしまして」

 田島嬢は微笑みながら、俊子の後頭部の黒毛を撫でている。

 俊子も微笑んで、先ほどの田島嬢の問いに答えた。


「生きることの中に、馬鹿らしいことなんてあるかしら。食べられる草も木の実も見当たらない森の中で、狩りを教わる前に親とはぐれちゃったら、誰かにドングリやシャケをもらうためには、かわいらしく啼いてみせるしかないじゃない。愛嬌も妥協も生きるための方便よ。あらかじめ羽根をむしって首をもいだニワトリがもらえるなら、両脚を上げて足の裏を見せるくらい、なんでもないわ」


 飼育員相手にしては露悪的な物言いだと俊子自身気づいているが、田島嬢もそこいらは心得ており、くすくす笑ってうなずいた。俊子がこの動物園に移って以来の、気心の知れた仲である。俊子がエッセイを書き始めたとき、地元のタウン誌に紹介してくれたのも田島嬢だし、今では文筆活動を続ける上での、秘書のような仕事も引き受けている。

「それにね」

 コーヒーを味わいながら、俊子は続けて言った。

「さっきのお客さんの中に、小さな女の子がいたでしょう?」

「うん。幼稚園くらいかな。お母さんと二人で来てたよね」

「祝日なのに、父親はいっしょに来られない――仕事で忙しいのか、それとも、もういないのか――どっちにしろ、あの子には思いきり笑ってほしかったの。足の裏で駄目なら、フラダンスだって踊ってあげたわ」

 田島嬢は、さらに優しく俊子の頭を撫でた。

 ここに来る前の俊子の境遇を知っているから、だけではない。そもそも野生のエゾヒグマの父親は、まったく妻子を顧みない。俊子一家が仲むつまじいのは、夫のワーブが、生まれも育ちも動物園だからなのである。


「あーあ、あたしもいい旦那見つけて、子育てしたいなあ」

 そろそろ三十路の田島嬢は、冗談半分にぼやいた。

 俊子は素っ気なく返した。

「だったら熊や虎ばかり世話してないで、人間の男をたぶらかさなきゃ」

「でも人間の男って、頼りないからなあ。結婚するなら、ワーブみたいに立派な熊がいい」

「……だったら、あたしを故郷くにから呼ばなきゃよかったのに」

 本当に遠慮のいらない仲なのである。

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