第3話・許嫁、爆ぜる(後編)
「結論から言うね」
短いペースで何度か口を付けたティーカップをローテーブルに置き、凛菜さんは私の目を見て言います。
「私はこれからも、氷浦と一緒に暮らしていきたい」
「っ!」
その口調や眼力からは、この場をなぁなぁにしたり何かをはぐらかそうとしているとは思えない、凛菜さんの強い本気が伺えました。
「でもね、さっき氷浦にされたみたいに体を重ねたいかって言われると……それは違うの」
それは、つまり……事実上――
「……はい」
詰ん――
「でも! でもね、じゃあそういうことに嫌悪があるかって言われたら……そういうわけでもない」
「……はい?」
――でない? まだ詰んでない!?
一生友達としてルームシェアしたいとか言われたら完全に詰みだったんですが、そうじゃない……?
「なんていうか……もうちょっと、時間が欲しいの。まだ整理しきれてないんだ。できれば今までみたいに暮らしながら……氷浦の気持ちを知った上でもう少し一緒にいて……ちゃんと自分の気持ちを知りたい。なんて……都合、良すぎるかな」
「……いえ」
首の皮一枚で繋がったとはまさにこのことでしょうか。『そんな目で見ていたなんて! 許嫁なんて解消よ!』と糾弾されてもおかしくなかったのですから。
「真剣に考えてくださってありがとうございます。とても……嬉しく思います」
少しでも可能性があるのなら是非もありません。私は凛菜さんに振り向いてもらうために、本気になっていただくために……全力で努力するだけです。
「……えと……それで、キスとかは……無理なんだけど…… 」
「む、無理……はい、わかり……うぅ……」
無理、という言葉の威力があまりに強烈で、
「あーもうほら泣かないで。 今すぐにはって意味だから。……でも……その、キスは無理な代わりに……ハグなら……どうぞ」
「!? し、失礼します!」
おずおずと両手を広げた凛菜さんへ、思考を働かせる前に恥も外聞も謀略も捨ててダイブ。しようとしたところで――
「あっ待って」
「この期に及んでお預けですか!?」
まさかのガード体勢で制止。ダメです、凛菜さんが冷静になる前に身体的接触を……!
「お風呂……入ってないから……やっぱり後で」
「無理です! もう止まりません!」
な、なぜこの御方は軽率に人の情動を煽ってしまうのでしょうか……?
「というか私としてはむしろ好都合です! シャンプーやボディソープではなく凛奈さん本来の香りを是非……」
「………………きっもちわる……」
「ああ! そんな蔑むような目で見ないでください! また新しい扉を開かせるつもりですか!?」
嫌悪感たっぷりの小声と視線を受けて、脳天からつま先まで一瞬で電流が駆け巡りました……。これは良くない……良くない刺激です……。だってクセになっちゃいます……!
「お願いだからこれ以上変な扉開かないで……。……どうぞ」
「……はいっ」
再び開かれた凛菜さんの両腕。いきなり激しくしたら引かれてしまい二度とこのような提案をいただけなさそうなので、精一杯優しく、淑女然としたハグを交わします。
すると、てっきり私が抱きしめるだけかと思っていたのですが凛菜さんも仄かに、添えるようにですが、私の背に腕を回してくれました。
「……ふふっ、でもなんか良いね」
「へ?」
「今まではさ、なんかこう漠然と……許嫁とか家族って感じだったんだけど……なんか、友達って感じがして、今の、楽しかった」
きゃ……きゃわい過ぎます……! あぁ、この声はきっと笑っていますね……? 笑顔……見たい……見たいけど……離れたくないんです……!
「ひ、氷浦? なんか首筋が……生暖かいんだけど……」
「す、すみません……」
言われて自身の鼻息が相当荒ぶっていることに気づき口呼吸へと切り替えたのですが、これはこれでなんだか変態性が増してしまった気が……。
「はいっ、おしまい」
何かを察したのか、少し慌てた凛菜さんが私の背中をぽんぽんっと叩き、苦笑いで終わりを告げました。
ここで逆らうのは悪手。すぐさま離れて、でも距離は空け過ぎないで、しっかり瞳を見て――
「凛菜さん、もう一度だけしてもいいですか?」
――嘆願。懇願。哀願。なんとでも言ってください。だけど今なら雰囲気でゴリ押しできる気が……!
「えっ、うん」
成功……! ゴリ押しこそ正義……! 『うん』って言いましたもんね、言質取りましたからね!
「わっ……。えぇ……これ、ハグ……?」
二回目のハグは当然のように位置を変えました。さきほどは私の顎が凛菜さんの肩に乗るような姿勢でしたが今回は――
「……息、しないでね」
――凛菜さんの胸部に……私の顔を……!! いえだって、これだって立派なハグですし! ハグですから!
「愛の力にもできることとできないことがありますので」
「……まったく……クールな氷浦はどこに行ったのやら」
クールな私? 確かに凛菜さん以外興味がないのでそう揶揄されることは多々ありますが……現状、私をクールたらしめる要因は存在しません。
「もー、ちっちゃい子じゃないんだから……」
なんだかんだ言いつつ凛菜さんは私の後頭部にその温かい手のひらを添え、微かに撫でてくださっておられます……!!
知ってました。知ってましたけど……この世の幸せってこんな近くにあったんですね……。
「あぁ……凛奈さん……柔らかい……あったかい……わた、私の、私だけのお嫁様…… 」
「ちょっと、深呼吸しないで」
「愛の力にもできることとできないことが……」
「胸に顔埋めたまま喋らないっ」
今度はぽんぽんと合図を出される間もなく、無理やり引き剥がされてしまいました……。が、鼻孔には凛菜さんの香りが、顔面には幸せを具現化した感触が残っています。
おそらく私の寿命は十年程度延びていることでしょう。
「はいっ終わり! お風呂入ってくる」
と、ソファから立ち上がりリビングを出ていこうとした凛菜さんは振り返り、未だ多大なる幸福感で酩酊状態の私に問います。
「ねぇ、そういえば三つ目の選択肢ってなんだったの?」
一瞬なんのことかと逡巡しましたが、それはすぐに、私が帰宅した際に生じた問答の件だと理解しました。
「……本当にわかっていなかったんですか……?」
「えっわかんないよ、なに、そんな常識的なやつだった?」
新婚さんみたいなやり取りをするのが嫌だからはぐらかされているんだと思っていましたが……素の反応だったとは。
「……いえ、確かにそういう理想がなければ縁のない発想だったかもしれません……。すみません、忘れてください」
「そう? ならそうするけど……」
まさか『ご飯にする? お風呂にする? それとも、り・ん・な? えへっ///』がそもそも脳内データベースになかったなんて……。
でもいつか……言わせたい……言われたい……!
どれだけ時間がかかっても……いつの日か、凛菜さんと朝まで一緒にくっついていられたらどんなに幸せでしょう。
ふふっ、辿り着くにはとても困難な未来かもしれませんが……決して諦めませんよ。
――などと、私は思っていました。
この約二時間後、凛菜さんと同じベッドの上、同じ布団の中で就寝し――お胸を触る権利を与えられるとも知らずに。
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