拝啓、殺した妻へ

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拝啓、殺した妻へ


 妻を殺して二年が経った。

 活発だった彼女は驚くほどすんなりと棺に収まった。ユリで囲まれた彼女は柔らかく目を閉じて、血の気の失せた顔は白粉でかき消され、彼女は今にもまたしゃべりだしそうだった。もう一度彼女にキスをする前に、彼女は地中に葬られてしまった。

 古いしきたりに従って、部屋中の鏡に布をかぶせる。時々布をどかせた。彼女は映らなかった。

 最初の一年は良かった。自分は思ったより大丈夫だ、と思っていた。二年目からだ。おかしくなったのは。

 夢に彼女が出てくるようになった。

私の枕元に、うつろな顔で、恨みのこもった表情で。

徐々に体をむしばまれていった彼女は、頬がこけ、生前から着ていたナイトドレスを蜘蛛の糸のようなぼろ切れにして帰ってきた。

そんな生活を続けていたある日、今日は妻の命日だ、と気がついた。部屋中の時計がぼーん、ぼーんと鳴る。その瞬間にぱっと布団を跳ね上げた。手に取った物を手当たり次第に引っ掴んで、トランクに詰める。コートラックからコートを勢いよく翻すと、そのまま腕を通す。革靴をひっかけつつ、足をもたれながら、階段を駆け降りる。冷たい手すりを握りしめると、勢いよくステッキを振りあげた。

 馬車は嘶きをあげ、鞭のしなる音が石畳に響く。

 もう一声、一際大きな嘶きを上げると、馬車は濃霧の中に消えていった。


 しばらく金を渡して走らせたが、商売の邪魔になるとやがて放り出された。それから馬車から馬車を乗り継ぐと、窓の外は朝霧から夕立へ、レンガの街並みは田園広がる緑の田舎へと変わった。

 馬車に疲れ果てた所で港に辿り着いた。コートに包まって、潮風の中ひたすらに惰眠を貪っていると、ふいに影が近づいた。見ればハンチング帽の男が私の顔を覗き込んでいる。

「あんた、服が上等だな。ここらは港町で人の出入りも盛んだし、店も賑わっているせいで一攫千金を狙う奴も少なくないが、一方で裏道は、暴力と空腹とどん底の感情で溢れかえってやがる。あんたも早く出てった方が良いぜ。刺されて有り金持ってかれる前にな」

 そう言われても、私は家に帰る気が起きなかった。

ああ、殺されるかもな。そう呟くと、男は訝しげに「死にたいのか?」と聞いた。どこにも行く場所がない、と返す。

「……お前もクビになったか」

いいや。戻ることはできる。

 眉をひそめる男に、簡潔に説明した。「妻を殺した」。

 しばらくの沈黙が続いた。

「これは噂だが」やっと、男が口を開いた。

「隣国の島国のその果てに、死者に手紙を送れる場所がある。見たこともどんな場所かも分からないが、船を渡って帰ってくる奴は山ほど見た。行ってみる価値はあるんじゃねえか?」

 体を起こして男の顔を見上げた。男のはるか頭上を白い鳥が飛んでいる。船の汽笛の音が街に鳴り響いた。

「それは国のどこにある?」

「東の果て、ヂアロークとだけ」


 船の汽笛の音がする。波をかき分けて船は進む。飛沫もいくつか煌めいた。

 彼女は輝きに溢れていた。航海する船のように、前進することを考え続ける。彼女が欲しいのは地位でも金銭でもなかった。更なる研究、未知の発掘。僕らと道を共にする者だった。

 彼女が僕らの研究所に入れたのは、その駆け抜けるようなひらめきと、それを踊るように回転させる発想の転換性、そしてその全てを秘めた知性。

 しかし、それでも彼女が重要な研究に携わることはできなかった。

 女性に研究を任せてはならない。研究は男のものだ。そんな理由のために、最初から女性としてやってきた彼女に与えられる仕事なんて、そんなに無かった。

 毎日、退屈な事務処理を行う彼女。一度話せば閃く知性が待ち受けているのに。熟慮された哲学はただの研究から人間関係、人生、宇宙まで花火のように駆け抜けていくのに。

 来る日も来る日も退屈している彼女に話に行く。最初はただの興味だったのに、それが尊敬に変わった。私の研究も多いに進んだ。

 私はそれを元に、一番に見る目のある、上の人に掛け合った。

「彼女に関する研究所の書類を男性という事にしてください」

 おそらく、更に上の何も知らない人に女性が働いていると分かれば、女性を働かせている所だとして罰則が来るだろう。

 しばらく、彼女のくれた案を纏めた書類に目を通していた。共に研究する事でのメリットを懸命に話す。こちらのリスクなど十分に納得できるように、何度も練り直した。

 固唾を飲んで見守る。彼が書類の表紙を閉じた。

「……確かに、私も話した事がある。ここまで優秀と思わなかったがな」

 研究の結果を私に手渡す。

「私も人の手柄を横取りする気はないからな。丁度手伝ってもらいたいものがある。明日からは事務所ではなく研究室に直接来いと伝えておきたまえ」

 転げそうになりながら事務室に転がり込む。

息を切らしながら腕を引っ張る私に彼女は驚いていたが、庭のベンチに彼女を座らせて身振り手振りで説明すると、目を見開いたまま硬直して、口元に手を添えた。

「私も研究所に入れるの……?」

 目の端から涙が零れ落ちる。

 それを見るのが嬉しくて一際大きく頷くと、いきなり腕を広げて私を抱き寄せた。


 未だ水面の音は近い。

深く眠りに落ちていると、船は大きく揺れて港に着いた。船の外にわらわらと人が集まっていた。友達、家族、恋人、待ち人。その中を通り抜けて街の方を目指す。古びた建物に入って頬杖をついた公務員に礼を。汽車に飛び乗って最東へ。

 辿り着いた所は何もない、川と緑だけが広がっていて、近くにいた老婆に声を掛けると骨ばった手で山の麓を指さした。

 広々と舗装された道はいつの間にか細々とした一本道になっていた。野盗が出たら大変だ、そんな事がよぎっても、もはや自分にはどうでも良かった。

 足元を向いて進むと、ぽつんと灯る小さな家があった。井戸を汲んでいた村娘が私の姿に気づく。

 上から下まで見回すと、何も言わずについてこいと手招きをする。もう使われていないらしい教会に連れてこられると、もう一人、今度は年若くも大人の女性が紙と羽ペンを携えて待っていた。

 今日はもう遅いでしょう、また明日。




 彼女は、それは目覚ましい程に活躍をした。

 生来の能力の高さに加え、一度やり始めたらやり遂げるまで離れない根気強さ。失敗に気づくとそれをすぐに捨てられる潔さ。

 最初は渋い顔をしていた研究所の全員が、進んで彼女に協力した。

 自分のことのように誇らしい反面、何故だか悔しかった。強すぎる光が他の光を消してしまうように、彼女は優秀すぎて、非の打ちどころがないからこそ、周りが霞んでしまうという欠点を持っていた。

 追いつきたい一心から、彼女が水を調べれば火を、内臓の病気なら脳の病気を。別の場所で競うように研究をしていた。

 同僚の言葉が蘇る。お前、変わっちゃったなあ。前は研究にちゃんと向き合ってた。

 それからすべてが急に恥ずかしくなって、やめた。それに彼女はそんな人、嫌いだろうから。




 燦々とした朝日が窓から差し込む。

「何日掛けても、何枚無駄にしても良いですよ。終わったら声を掛けてくださいませ。紙は大量にございますから」

 静謐な光で溢れている。四方を漆喰の壁で囲まれた中に、机がひとつ。

 この地の名前は、おそらく紙の名産地ということで聞いた事があったのだろう。羽ペンとインク壺、下に積まれた大量の紙の束。

 軋む音を立ててドアが閉まる。今から彼女に手紙を書く、と思うと途端に吐きそうな程の緊張が押し寄せた。

 時間を掛けても良いと言われた。けれどずっと何もしない訳にはいかない。

 羽ペンを取る。インクがペン先の溝を伝ってゆっくりと上った。




 研究に向き合いだしてからむしろ成果が出せるようになって、ある時、彼女と合同で研究するようになった。

 ある製糸場で見つかった鉱石だ。この鉱石の影響からたくさんの死者が出た。しかし、研究に扱われるようになってからは誰一人として影響がでていない。プルエバ(この国の動物)による実験が主だったが、やはり明確な原因は分からないまま、製糸場は閉鎖された。

分かったことは、死んでいたプルエバはどれも長時間鉱石に晒されていた。しかし、長時間の暴露にも関わらず無事なプルエバもいる。

 そのために何人かの研究者の間を時限爆弾のように周り、ここにやってきた。

 鉱石がやってきた日、研究室の隅の机で彼女と酒を汲み交わした。安い酒といかにもなツマミ。

 上機嫌で笑いながら飲む彼女に、なぜか腹を立てて呂律の回らない舌で、君が苦手だ、と言った。何をしても敵わない、僕は君に追いつきたいのに。

「むしろ、私はいつも貴方を尊敬してた」

 ありがとう、と彼女は言った。最初から諦めることもせず、迷うことなく研究所に入れるよう説得してくれた。それはすごいことだと。

 君の方がすごい。いつも前を歩いている。

 彼女はふっと笑った。

「お互い尊敬していたのね」

 私は回らない頭で、研究所で作られた器具から不要な部品が集められた箱を机に置くと、その中で小さく光る金属のリングを見つけた。

 彼女の薬指に試しにはめてみると、ぴったりと当てはまった。ぴったりだ、よかった。

そう呟くと、彼女は口をぽかんと開いた後、眉尻を下げて大笑いした後、悲しい顔をした。

「今日ね、もっと上の人が来たのよ。書類について他の人に聞いてた。皆ごまかしてくれたけど。きっと、結婚したら仕事を辞めろって言われるでしょうね。辞めて家を守れって」

 分かっている。だから、彼女の指から指輪を外すと、彼女の手に握らせた。

「ずっと持ってて」

 

 ペン先を紙につけても、インクがにじむばかりで何も進まない。

 幸せだった記憶はいくつも浮かぶ。それをインクに乗せて書こうとする度、書く手が止まる。いくらこんな話をしても、最後に書くことは決まっている。幸せだったものを悲しいものに塗り変えることは、泥のついた足で踏みつけるようだ。結局、書く度に紙をぐしゃぐしゃにして何枚も放り捨てた。

 窓から差し込む光が、オレンジになってとうとう消える。初日の女性が蝋燭を持ってきた。

 そもそも、妻を殺したのは私なのだ。彼女が私の話す幸せなど聞いても、彼女は。

 

 二人でする研究は驚くほど速く進んだ。片方が別のアプローチを考えつけば、片方がサポートする。考えが違えば二人で話して、どうするか納得するまで話した。

 同僚や上司にも、話した。話せて良かったと彼女は笑っていた。

 鉱石の成分を慎重に調べ、プルエバを実験に使う。彼女はプルエバに名前を付けていた。優しい彼女らしいと言えば彼女らしいが。

「名前をつけたら情が移って実験しにくくなるだろ」

「残念ながらそういう事、今まで無かったの」

「……じゃあ、こいつはジョン」

 ぽつりと呟くと、キレのある回答が返ってくる。

「研究者たるもの実験動物の事知っておきなさいな。研究に重要視されてないから知られていないけど、プルエバは雌雄同体なのよ」

 男も女もあんまり関係ないのね、と言って寂しそうに笑った。

 鉱石の成分を考えれば薬にもなるはず。苦し紛れに、解明に近づく訳ではないが治す方法が分からないかと、削り取った鉱石をプルエバに与える。彼女が名前を付けた子だ。

 彼女から餌に混ぜられてそれが渡された瞬間、ぱたりと倒れた。苦しむ様子もなく、穏やかに。

「……分かってた。毒に毒を与えても悪化するだけよね」

 ごめんね、と一言だけ呟いた。

 

 その晩は、月が煌々と輝く夜だった。何もかもが寝静まって、鳥の鳴き声すらも聞こえて来ない。

 昼間には慌ただしく開かれるドアが、今は朝を待つだけ。研究所の中は、足音だけが反響した。長い廊下を突き当たって、奥の部屋へ。

 ギイ、と音を立ててドアが開く。

 最初に目に入ったのは淡く光る緑。空中をたくさんの光の粒が浮遊して、弾ける。月の光がそれら祝福するように降り注いでいた。

 ペトリ皿に入れられた鉱石が、その中で鈍い光を放っていた。浮遊する光が、鉱石に当たっては遠くへ飛んでいく。

 そんな幻想的な風景で、鉱石の傍に佇む影があった。彼女だ。鉱石の光に触れて、呆然としていた。何故だか、泣いているのかもしれないと思った。


 そして、その数日後。彼女からただ一言、発症したと言われた。

 製糸場には工女が多く働いていた。あの鉱石は最初大きな物だった。彼女達はパワーストーンのように小さくなった石を持ち歩いていた。

 恐らく、女性に多いホルモンに働きかけるのだろう。後で発症したプルエバを調べた所、人間の女性に近いホルモンを持つプルエバばかりだった。

 彼女は研究室に立ち続けた。自分というプルエバを最大限に活用して、衰えた体に鞭を打って。自分の為ではなく、後世の人の為に。

 最期にベッドの上で、骨と皮だけの死神のような手で彼女は鉱石を指さした。

 私は、からからに渇く喉でひたすらにやめてくれと懇願した。彼女は強い意志の灯る目でまっすぐに私の目を見つめた。

 震える手で鈍く光る鉱石を彼女の唇に当てると、小さく、微笑んだ。


 幸福な記憶をかなぐり捨て、新しい紙に、拝啓、とだけ書く。ペン先が止まる。

 妻を殺して二年が経った。最初の一年は良かった。その一年後に、治療法が見つかった。彼女のおかげで。

彼女の名前を非難覚悟で出した。少しだけ、歴史の中で女性も研究に参加しやすくなった。彼女はその恩恵など受けないが。

 あそこで無理矢理にでも延命させておけば。

人には、どのみち、と言われた。それでも望みに掛けたかった。

 ふいに、生前の彼女の声が耳に響いた。

 自分の事を最低な人間だと言った時、彼女は言った。


 あなたが小さな罪を重ねた所で、私はあなたを嫌いにならない。私があなたを許すわ。

 

インクを浸したペン先から、とめどなく言葉が溢れていく。

 ごめんね、ありがとう、さよなら。

 彼女のいなくなった世界の話もした。研究所にいたあの上司、退職してしまったよ。きつい言葉を投げかけてくる同僚は結婚した。君が育てていた小さな木は新しい花を咲かせたよ。

 目の前の景色を歪ませて、耐え切れなかったものが目頭から零れ落ちる。ぽつぽつとそれが手紙に落下するたび、君の顔が滲んでいく気がした。

 

 ありがとうございました、と声を掛けて、古びた教会を出る。

 赤い目に気付いたのか、はっとした顔で女性がこちらを見る。

 それから、お気をつけてお帰りください、と言った。


 男の背中が小さくなってから、女性のところに村娘が駆け寄った。

「まさか隣国から来るなんてな。どこまで広がったんだろう、あの話」

 死んだ人に手紙を出す。この話が出た当初は村の者の多くが憤慨した。そんな詐欺紛いの事できるか、天国にいる死者と対話するなんて嘘、神様に歯向かうようなもんだぞ。

 しかし、昔は教会で教えを広める人間だった女性、ウィータの賛成ですぐに多くが企画に乗り出した。

 紙の名産地・ヂアロークは、国から来年以降の紙の購入を取りやめると通達が来た。

 そこで、余った大量の紙とともに人を呼び込み、観光地として活性化できないかという案が出た。最近は、民間の出版社から声が掛かって紙の製造も再開したが。

「まさかアンタが賛成するとは思ってなかったよ。別の案も考えてたんだ。アンタって本当、教会の人間らしくないよな」

 ウィータは、むしろ必要かもしれないと突然声を上げた。やりましょう、私が責任を持ちます。

「必要ですよ。特にあの人のような方には」

 振り返って男の方を見ると、もう男の姿はなかった。

「死者は、喋らない。懺悔を聞いても答えることも、慰めることもできない」

 光を失った石のペンダントに手を添え、独り言のように呟く。

「真正面から自分の事を許すことができるのは神でも人でもない、自分ですから」

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